一年前の五月、ゴールデンウィーク明け。
大学前の公園の桜がすっかり葉桜になり、新緑が色濃く萌える頃。
理玖は慶愛大学にやってきた。
慶愛大学医学部医学科自然健康科学群内分泌内科WO専攻講師。
国立理化学研究所の研究員だった向井理玖が新たに得た肩書だ。
(学術機関での研究ってどうなんだろう。大学はどこの国でも資金難で研究自体が難しくなってきているけど)
最近、注目を集めるWO研究と言えど、不景気な社会で最初に削られる経費には違いない。理研でそれなりに自由にやりたい研究をさせてもらえていただけに、不安なところだ。
(それ以上に、講師ってどれくらい学生と関わるのかな。日本の大学って、よくわからない)
高校を飛級してロンドンのカレッジで医師免許を取得し、院で
(あまり深い関わりは、したくない。距離が近付けば、バレる率も上がる)
学生であろうと職員であろうと、一定の距離感を保っていたい。onlyだとバレるのだけは絶対に避けたい。
理研では一人で黙々と本やPCと向き合っていれば、それで良かった。同じという訳にはいかないだろうが、似た環境を確保したい。
(曲がりなりにも講師だからな。授業をする以上、学生と話す機会はあるだろうけど。ゼミは准教授以上でないと担当しないか。研究室は学生を入れないといけないのかな。一人では……)
黙々考えながら大学の門をくぐる。
広い構内をちまちまと歩いた。
背中を丸めて俯きがちに歩く理玖に、声が掛かった。
「危ない! 避けて!」
大学の構内で聞く単語にしては物騒だと思いながら、顔を上げる。
目の前にサッカーボールが飛んできた。白と黒の模様が眼前に迫る。と思った時には額に強い衝撃を感じていた。
体が軽く吹っ飛んで、理玖はその場に尻もちをついて倒れた。
「大丈夫ですか? 声、聞こえますか?」
肩に腕を回して体を抱きあげられた。
(頭部強打して倒れた患者への声掛けとしては及第だけど。惜しむらくは返事をするまで安静を保持するべきだった。まずは意識レベルの確認、頭部打撲による脳症状の有無と、転倒しているから全身の外傷の確認をして……)
などと理屈っぽいことを考えながら、ゆっくり目を開く。
端正な顔の綺麗な瞳が、理玖を心配そうに見詰めていた。
(色素の薄い目、赤茶けた綺麗な髪。イケメンだ。まるで王子様みたいだ……)
小難しい理屈が全部吹っ飛んで、理玖はぼんやりと青年を眺めていた。まるで御伽噺やファンタジーに登場する王子様のような青年を前にして、理玖の乙女脳が勝手に解析を始めた。
(美しい輪郭、美しい首筋。揺れる髪すら美しい。だからこそ、勿体ない。綺麗な形の耳に、ピアスがいっぱい付いてる)
左耳にだけ、ピアスが五つも付いている。
アクセサリーをどれだけ付けようが個人の自由だし、他者が口を挟む筋でもないと思う。だが、その美しい耳を余計な物で飾り付けるのは勿体ないと思った。
勝手に、思ってしまった。
「あの、おでこ、痛みますか?」
青年が心配そうに理玖の額を撫でた。
心臓が、ドクリと跳ねた。静かだった鼓動が少しずつ早くなるのを感じる。
「だい、じょうぶ。ちょっと、ぼおっとしてるだけ」
青年から目を離せないまま、理玖は小さく答えた。
決意した顔をして、青年が理玖を抱き上げた。
「えっ! いや、大丈夫だから」
「この人を保健室に連れて行ってくるから、抜ける。ごめんな」
理玖の言葉を無視して、青年が声を張った。
よく見れば、サッカーコートがある。サッカー部の朝練中だったらしい。
(じゃぁ、この子は学生さんかな。その割に大人びているような。スーツだし)
「大丈夫ですかー!」
「大丈夫、怪我とかはなさそう」
「良かったー! 欠員補充、ありがと、空咲さん!」
「うん、またな」
爽やかに返事を返すと、空咲と呼ばれた青年が歩き出した。
「君は、学生では、ないの?」
問い掛けると、空咲の目が一瞬だけ、理玖に向いた。
「俺は大学の事務職員で、空咲晴翔っていいます。よろしくお願いします、向井理玖先生」
名前を呼ばれて、胸がざわりとした。
眉間に皺が寄っているのが自分でもわかる。
(僕の顔写真なんか、ネットにいくらでも落ちているだろうけど。狙って探さなきゃ見付けられない程度の有名人でしかないはずだけど)
理玖の顔を眺めて、晴翔が笑んだ。
「別にストーカーじゃないですよ。大学のプロフィール写真、確認しただけです。俺、向井先生の担当事務なんです。今年入ったばっかの新人ですけど、頑張りますんで、何でも言付けてくださいね」
向けられた笑みがやっぱり美しくて、理玖は無言で頷いた。
物語ならベタで、現実なら有り得ない御姫様抱っこが、晴翔との初見だった。