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第10話《去年》夏

 だからという訳でもないが、理玖は最初から晴翔を意識していた、と思う。

 毎日午後二時に部屋に雑務をこなしにやってくる晴翔を、嫌だとは思わなかった。


 部屋に来るたびに何となく姿を見詰めてしまうのは、容姿が美しいからだ。美しかったり可愛いものは見ていて飽きない。

 美人は三日で飽きるなどというが、晴翔の姿はどれだけ眺めても足りないと思った。


「先生、ゴミ箱のゴミ、捨てますよ」


 声を掛けられて、足元に目をやる。


「あぁ、ありがと」


 ゴミ箱を持ち上げて晴翔に手渡す。

 晴翔は不用意に机を覗き込んだりPC画面を確認したり、探るような仕草はしてこない。一定の距離感を保ってくれる。それが心地良かった。


(折笠先生にも見習ってほしいな。二十代前半の若者が出来る行動を四十になる大人が出来ないのは、何故なんだ)


 パーソナルスペースという概念自体が崩壊してる折笠に愚痴が湧く。

 晴翔が動きを止めて、珍しく理玖の机を見詰めていた。


「この人形、可愛いですね。触ってもいいですか?」


 机の上のあみぐるみを指さす。


「どうぞ」


 内心どきりとしたが、理玖は普段の表情を崩さずに犬のあみぐるみを手渡した。

 手にしたあみぐるみを見詰める晴翔が、手触りを確認したり手に乗せたり、匂いを嗅いだりしている。


(え? なんで匂い、嗅ぐの? 臭いの? 僕の匂いが移っているのかな?)


 思わず自分の匂いを嗅いでしまった。

 そんな理玖を晴翔が振り返る。


「これって、あみぐるみってヤツですよね。先生の手作りですか?」


 晴翔の問いかけに、無意識でびくりと肩が跳ねた。

 そんな理玖に気が付いて、晴翔が気まずそうな顔をした。


「ごめんなさい、聞いちゃいけなかったですか?」

「いや、そういう訳じゃ……。只の趣味というか、息抜きだけど。男が手芸なんて、気持ち悪いかと思って」

「何でですか? 可愛いし、めっちゃ上手だし、売り物に出来ちゃいそうな仕上がりで、凄いなって思いますけど」


 晴翔が普通に首を傾げている。

 その様子は普通に本音を話してくれているように見えた。


(最近の若者はバイアスかかっていないというか。むしろ僕の日本人への偏見の方が激しいと自覚してしまった)


 幼少を過ごしてきた環境のせいなのか。男はこうあるべき、女はこうあるべき、という偏見が強い田舎だっただけに、晴翔の反応が斬新に映る。


「犬、可愛いですね。他にも作れるんですか?」

「え? そうだね。基本は何でもできるけど。僕は動物を作るのが好きかな」


 晴翔が犬の足を広げて持ち上げる。

 何となく、晴翔は犬っぽい気がしていたから、持っているあみぐるみが晴翔に見えてくる。


「気に入ったのなら、あげるよ。他の動物が良ければ、作ってもいいけど」

「えぇ! いいんですか?」


 思った以上に嬉しそうな反応が返ってきて驚いた。

 晴翔に尻尾があったら、激しく揺れているんだろうなと思った。


「実はちょっと欲しいなって思ったのがあるんですけど。手に載るくらいの小さいリスが欲しいです」


 ワクワクに照れが混じった顔をしている晴翔が、可愛い。


「そのくらいならすぐできるから、近いうちに作ってくるよ。リスが好きなの?」


 理玖の問いかけに、晴翔が頬を赤らめた。


「そうですね。最近、気になっているというか。ポッケに入れて持っていたいなと思って」

「ポッケ……胸ポケ?」


 晴翔が嬉しそうに頷く。

 シャツの胸ポケットにリスのあみぐるみを入れた晴翔が歩いていたら、一瞬で女子に囲まれそうだなと思う。


(いつもお世話になっているし、それくらいはお礼しないとね)


 理玖は立ち上がり、晴翔のシャツのポケットに手を伸ばした。

 指が晴翔のシャツに触れる。


「ここに入れるの? なら、あんまり大きくない方がいいね。柔らかめに作った方がいいか」


 がたっと大袈裟に、晴翔が後ろに下がった。

 持っていた犬のあみぐるみが床に落ちる。

 理玖を見詰める顔が、驚きに染まっていた。


(あ……、近付き過ぎた。何、してるんだ、僕は。いつもこんなに他人に近付いたりしないのに)


 フェロモンを放出しないように、他人とはなるべく距離を取るよう心掛けているのに。

 無意識で近寄ってしまった。


「不用意に触れすぎた、ごめん」


 すっと下がって椅子に腰かける。


「いえ、俺こそ、ごめんなさい。ちょっと、びっくりして。その……、先生は近付かれるの嫌いな人だと思っていたので」


 あみぐるみを拾い上げて、晴翔が理玖に手渡した。


「落としちゃって、ごめんなさい。これくらいなら、見やすいですか?」


 椅子に座った理玖に合わせて、晴翔が屈む。

 シャツの胸ポケットがよく見える位置だ。

 ただ、いつもより晴翔の顔が近くて、ドキリとする。


「……うん。握れるくらいのサイズ感で、作ってみるよ」


 晴翔の胸のポケットを広げて、軽く確認する。

 シャツ越しでも肌に触れてしまわないように、指先でそっと広げた。


「楽しみにしてます。嬉しいです」


 嬉しそうに笑んで、晴翔はゴミ箱のごみを回収すると、他の雑務を終えて出ていった。

 晴翔が出ていった瞬間に、理玖は机に突っ伏した。


(何してるんだ、僕は! あんなに近づいてフェロモン放出したりしたら。もし空咲君がotherだったら、大惨事になりかねないのに)


 自分が普通のonlyでないのは、知っている。

 阻害薬を飲んでいるotherでも、理玖のフェロモンは強く作用する。時には同じonlyまで狂わせてしまう。


(onlyで、しかもrulerだなんて知れたら、それこそ大事件だ)


 rulerはonlyの中でも希少で、その存在は世界でも数名しか確認されていない。

 故に総ての生態が判明していない。


 ただ一つ、確かなのは、rulerのフェロモンを過度に感知すると、otherもonlyもtripする。tripすると、一時的に思考が麻痺してrulerに従順になる。

 rulerのフェロモンに中てられたotherとonlyを「servant奴隷」と揶揄するのは、その為だ。


(そんな風にしちゃったことはない。けど、フェロモンが強いのは確かだから)


 中学の時に理玖をレイプしたotherの教師は、SAフェロモン阻害薬を飲んでいた。それでも理玖のフェロモンで性衝動が高まった。

 もう少し行為が続いていたらtripして、servantになっていたのかもしれない。


(でもきっと、空咲君は大丈夫だ。さっきだって自分から近付いてきた。onlyやotherだったら、あんな風にはしない)


 理玖が近寄って驚いていたが、その後、自分から理玖に胸ポケットを見せに顔を寄せてきた。フェロモンを警戒するならしない行動だ。


(空咲君はきっとnormalだ。僕が安心して傍にいられる人だ。だから、大丈夫)


 心地良いと感じ始めた晴翔との距離感が壊れてしまわないようにと、理玖は願った。

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