講義を終えて研究室に戻る。
鍵を捻ってドアを押す。開かない。
怪訝に思いながら、もう一度、鍵を差して回したら、ドアが開いた。
(鍵、開いてたのかな? 晴翔君は……、いない)
いつもなら笑顔で「おかえりなさい」と迎えてくれる晴翔の姿が、今日はなかった。
(締め忘れたのかな、珍しい。急ぎの用事かな)
王子様スマイルの出迎えがなくて、ちょっとがっかりした気持ちで自分のデスクに戻る。
(晴翔君が助手で来てくれてから、まだ一週間も経ってないけど。もうずっといてくれてる気がする)
一人では広めだった研究室がちょっと狭く感じて、隣に晴翔がいる環境が当然になっている。
理玖一人では来客時くらいしか使わなかった二人掛けのソファも、晴翔が昼飯の時に使っているから有効活用だと思う。
(仮眠用のベッドも使用頻度が増えた。主に使ってるのは僕だけど)
フェロモンに飲まれたり、佐藤に怯えて倒れたり。我ながら情けないと思う。
佐藤満流のフェロモンに触れて、レイプされた時の光景が蘇った。悪酔いしたように血の気が下がった。
(晴翔君の手が温かくて、落ち着いた。あの時の晴翔君のフェロモンは、前と違った。気持ち良かったけど穏やかで、甘い香りがして、とても眠くなって……)
あの時、眠りに落ちる前に晴翔が大事な言葉を言っていた気がするのに、ちゃんと聞き取れなかった。
(今でも聞いたら、教えてくれるかな。晴翔君、何て言ったんだろう)
晴翔の手を握った自分の手をそっと握る。
大好きな温かさを思い出して噛み締めた。
パサリと紙が落ちる乾いた音がして、晴翔のデスクに目を向けた。
ブックエンドで立てかけてある本の隙間からA4の茶封筒が落ちていた。
重さがある書類なのか、中身が半分ほど出てしまっている。
何も考えずに、晴翔のデスクに立ち、理玖は封筒の書類を手に取った。
表紙の文字に、ドキリとして息が止まった。
『調査報告 佐藤満流』
書類を持ったまま、理玖は動けなかった。
(どうして晴翔君が佐藤満流を調べて……)
大学が調べた個人情報だろうか。曰くありげな人間だ。有り得なくはない。
折笠と繋がりが深い理玖の担当事務兼助手を務める晴翔に情報が開示されても不思議ではないのかもしれないが。
(でも、報告書の感じが、まるで晴翔君の私物みたいな)
大学の機密文書には表紙と裏表紙に秘匿の印が押される。この報告書はどう考えても機密文書の類だろう。しかし、印はない。
(違う、そうじゃない。僕が気になってるのは、そうじゃなくて)
佐藤の過去を調べたのなら、教員時代のレイプ事件は記載されているはずだ。被害者の名前も、伏せられずに載っている可能性が高い。
(晴翔君に、知られた。僕が中学の時、佐藤にレイプされたって、知られたかもしれない)
それは同時に、理玖がonlyだと完全にバレるのと同じだ。
(名前は、伏せられているかもしれない。僕の名前だって個人情報だ。だけど、こういう調査ってどこまで個人情報が保護されるんだ)
手の中の報告書のページを捲れば、答えは載っている。
開いて確認すればいい。
わかっているのに、怖くて手が動かない。
(確認……、確認しなくちゃ。見るなら早くしないと、晴翔君が戻ってきちゃう)
動揺する心と同じように震える手で、ページをめくる。
あまりに指が震えすぎて、紙に皺が寄りそうだ。
数ページ捲ったところで、理玖の手が止まった。
『中学教師だった25歳の時、担当生徒だった向井理玖(13)を強姦して懲戒免職となる。onlyの生徒のフェロモンに中てられotherのフェロモンが暴走した。向井理玖はrulerであり、通常より濃く強いフェロモンに飲まれたのだろうとの、当時の警察の見解』
手も足も冷たくなって、頭から血の気が引いた。
視界が揺れて、頭がぐらぐらして、立っていられない。
持っていた書類が手から滑り落ちて、理玖はその場に静かにへたり込んだ。
「先生? どうしたんですか?」
いつの間にか、研究室の扉が開いている。晴翔が立っていた。
呆然と座り込む理玖に晴翔が駆け寄る。理玖の側に落ちている書類を拾い上げて、険しい顔をした。
「どうして、こんなものが……」
「それ、晴翔君が個人で依頼を掛けたの?」
理玖から響いた小さな声に、晴翔が顔を上げた。
「もう、読んだの? 全部、読んだの?」
「……全部、読み、ました。けど、違うんです、先生。俺の話を聞いて」
苦悶に歪んだ顔も、確信を帯びた声も、総てを知ったと言われているようで直視できない。
理玖の肩を掴んだ晴翔の手を振り払った。
「わかってる。佐藤は危ない奴だよ。生徒を犯して懲戒免職になった教師が、真面な職に就けるはずがない。反社や犯罪組織に加担してたっておかしくない。大学や晴翔君が調べるのは当然だ。何も間違っていない」
そう、至極真っ当な行動だ。
情報を集めて、必要な人間に開示した。ただ、それだけだ。
「僕、は……。知られたく、なかったんだ。onlyだってことも、rulerだってことも、レイプされた過去も。晴翔君とは、今の僕で、今の関係で、このまま心地良く、側に居たかった、だけで……」
晴翔の腕が伸びてきて、理玖の体を抱きしめた。
逃げられない程に強い力で、抱き寄せられた。
「俺は嫌ですよ、今のままなんて」
晴翔の言葉に、胸が軋む。
目の前が真っ暗になる。
「先生の過去に何があろうと、onlyだろうとrulerだろうと、何だっていいんです。俺は理玖さんが好きだ。理玖さんて人間が好きだ。今よりもっと近くで、もっと深い関係で、理玖さんの特別になりたい」
晴翔が何を言っているのか、咄嗟に理解できなかった。
わからないのに、目から涙がじんわり溢れてくる。
「理玖さんはもう、気が付いているでしょう。俺はotherです。理玖さんがonlyなら、俺が怖かったでしょ。でも拒否らないで隣においてくれた。otherだからって差別しなかった。それが何より居心地が良くて、嬉しかったんです」
晴翔が何を言っているのか、全然わからない。
向けてくれる好意も、下の名前で呼んでくれるのも、otherの告白も、現実感がまるでない。
なのに、涙が止まらない。
「だって、そんなの、僕にとっては……。僕は晴翔君が好きで、笑顔を見られるだけで、名前を呼んでくれるだけで、それだけで嬉しくて。でも、onlyの、rulerの僕が好きになったら、迷惑をかけるから、好きなんて気が付かない振りをしてて」
晴翔が理玖と同じように考えて怯えていただなんて、信じられない。
顔を上げた晴翔が、理玖に向き合う。
いつもより何倍も優しい笑みが灯っていた。
「ちゃんと気付いて、俺を求めて。俺は理玖さんが欲しいです。理玖さんは、俺が欲しくない?」
頬に手を添えて、親指が理玖の唇をなぞる。
妖艶な指先に誘われて、理玖は唇を開いた。
「欲しいよ。僕はずっと、晴翔君が欲しかった。キミの心も体も全部、僕だけのキミにしてしまいたかった」
押し殺してきた正直な理玖の欲望を言葉ごと飲み込んで、晴翔が唇を重ねた。
柔らかくて熱い唇が重なって、甘い舌が絡まる。息も出来ないくらい、甘い香りが流れ込んで、頭がくらくらした。
「理玖さん、俺のonlyになって。俺を理玖さんのspouseにして」
欲が浮いた瞳が理玖に迫る。
理玖は目を見開いた。
(other側から独占の契約を切り出すのは、かなりのレアケース。本能が求める、恋)
本来、onlyが指名するspouseをotherが受け入れるのが順当な独占の契約だ。
other側からのモーションはイレギュラーであり、それだけ強い想いを物語っている。
「……僕で、いいの? spouseは、独占の契約は、死ぬまで消えない。後悔、しないの?」
「今ここで、何もしないで、理玖さんを他の誰かに持っていかれるほうが、後悔する」
晴翔の指がまた、理玖の唇をなぞる。
力強い腕は理玖を抱いたまま、離そうとしない。
理玖は腕を伸ばして、晴翔にしがみ付いた。
「僕のspouseに、なって。離れないで、側に居て」
何も考えられなくなるくらい感情が脳を支配する。只々、晴翔が好きで独占したい欲が湧いてくる。溢れすぎた気持ちが、言葉になって零れ落ちた。
自分から口付けたら、倍以上深いキスが返ってきた。
キスしたまま理玖を抱き上げて、晴翔が奥の部屋に入る。
「もう、我慢しませんから」
ベッドに理玖を降ろした晴翔が、獰猛に笑った。