風呂から戻ったら、すぐに晴翔に手を引かれて、胡坐をかいた上に座らされた。
腕が腹に回って、軽く抱き寄せると、乾かしたばかりの髪に晴翔がスリスリした。
「理玖さん、良い匂い。風呂上がりの理玖さんを抱っこできるとか、恋人って凄い」
晴翔の声が耳元で甘えて響く。
恋人というワードが晴翔の口から飛び出して、ドキドキする。
(やっぱり僕らは、恋人で、いいんだ。恋人に、なったんだ)
晴翔が理玖の髪に触れながら、ずっとスリスリしている。
昨日から晴翔がずっと甘えモードで、理玖としてはそっちの方が可愛い。
晴翔が大きく息を吸って、長く吐いた。
「えっと、ですね。まず、この調査報告なんですけど……」
晴翔が前屈みになると、顔が近付いて、またドキドキする。
昨日からずっと晴翔と距離が近くて、まだ慣れない。
「俺のモノではありません。だけど、報告書の内容は、読みました」
「さっき、読んだって話では、ないよね」
よくわからなくて、疑問を投げる。
昨日、研究室でへたり込んでいた理玖に向かって、晴翔は報告書を「読んだ」と答えた。
「この、紙の報告書と同じ内容が、昨日の理玖さんの講義中に、俺個人の職員メールに添付されてきました。差出人のアドレスは既に退職した職員で、どこのハードから送ったメールか確認するためにシステムに行っていたんです」
「メール……。だから僕が講義終わりで戻った時、晴翔君はいなかったんだ。ハードは、わかったの?」
晴翔は頷きとも取れない返事をした。
「第一研究棟一階の北側の一番奥に、空いている研究室があるのを知ってますか? あそこに設置されてるノートPCでした」
背筋が、ぞわりとした。
第一研究棟一階北側の研究室は、慶愛大七不思議の一つになっている場所だ。
昔、あの部屋で首吊り自殺をした教授がいるとかいう噂がある。死んだ教授の後は誰が入っても体調を崩したり病気になったりするので、いつからか使われなくなったらしい。『呪いの研究室』などと呼ばれて、今でもほとんど使われていない。
常駐が少ない第一研究棟だが、多くの部屋は部活動やサークルのために開放しているか、倉庫として使われている。完全なる空室は一階北側の研究室くらいだ。
「あの部屋は、本当に時々ですが、部室がないサークルに貸し出したり会議で使ったりするので、ノートPCが一台だけ置いてあるんです。そのPCから送られたメールでした。PC内のメールは削除されていたので、サーバの確認を依頼して、俺は研究室に戻ったんです。戻ったタイミングで、へたり込んでいる理玖さんを見付けました」
理玖は晴翔を振り返った。
「でも、だったら、調査報告書の表紙しか見てないのに、どうしてメールと同じ書類だって、わかったの?」
紙の報告書を手に取った晴翔は中身までは目を通していなかった。
晴翔が自分のスマホを取り出した。
「これ、メールに添付されていたPDFデータの写真です。職員メールは添付も含めて基本は持ち出し禁止なので、内緒にしてください」
晴翔が見せてくれたスマホの写真は、紙の報告書の表紙と同じだった。
文字が毛筆体でフォントもやけに大きい。普段見ない書式だから印象に残る。
「恐らく、これをプリントアウトして俺の机に仕込んだんじゃないかと思います。俺が紙の報告書を見たのは、理玖さんが座り込んでいたあの時が初めてです。だけど一目で、メールの書類だと思いました」
さっきとは違う寒気が背筋を流れた。
「大学も、勿論、俺も、佐藤の素性調査なんか依頼していない。何処かの誰かが、自分の名前を伏せて、俺に佐藤満流の情報を与えた。表面上は、そう映る」
確かに、その通りだ。
危険人物と目される人間の素性を、関係者に提示した。昨日は理玖も、そう理解した。
「だけど、犯人が俺に本当に教えたかったのは、理玖さんの過去の事件と、onlyでrulerである事実じゃないかって。更に言うなら、俺に知られた状況を理玖さんにも
理玖は、弁当の窃盗事件を思い出していた。
「鍵、変えたのに、なんで……。犯人の狙いは、何……?」
弁当の窃盗と、今回の報告書事件。
どちらも犯罪にしては軽微だ。だが明らかに理玖を
「ずっと、考えてました。四月に入ってから、去年以上に学生たちの理玖さんへの注目度が上がっているのも、気になってた。世間のWOへの注目度の高さもあるだろうけど、誰かが焚きつけているように思えて」
言われてみれば、去年より視線や噂話を聞く機会が増えた気がする。
本人の耳に入るということは、知らない所でそれ以上に話されていると考えた方がいい。
「実はそれで俺もちょっと焦ったりして。もっと積極的に動いてみようかなって、思って。弁当を盗んだのも学生だったみたいだし、これ以上、理玖さんが危険な目に遭うのは嫌だとも、思って」
もごもご口の中で話しているような、晴翔にしては珍しい態度に、顔を見上げる。
晴翔が照れた顔で目を逸らした。
「理玖さんが俺の気持ちに気が付いてくれたら、何か変わるかなって。他の誰かに取られるのは、嫌だったから」
そう言われて、四月に入ってからの晴翔の行動を思い返してみた。
(確かに、スキンシップが増えたなって、思ってた。僕が勘違いしそうな言葉も、増えてた)
あれは勘違いじゃなかったんだと思うと、今更恥ずかしくて嬉しくなる。
「でも、もしかしたら、それが犯人の狙いだったのかもしれません」
「どういう意味?」
晴翔が、報告書が入っていた茶封筒を取り出した。
中から一枚のメッセージカードが出てきた。
『花は咲きましたか?』
理玖は目を疑った。
報告書の表紙と同じ毛筆体でプリントされた文字だ。まるで今の理玖と晴翔を予言した言葉に見えた。
「さっき、封筒の中を確認している時に見つけました。偶然にしてはあまりにタイミングが良すぎて、背筋が寒くなります」
手が震えて、言葉が出ない。
息の吸い方がわからなくなって、呼吸が上手くできない。
(花なんて、これじゃまるで、僕と晴翔君がWOだって知っているみたいな。こんなの……、僕と晴翔君がspouseになるのを望んでいるような)
震える理玖の手を晴翔が握って、後ろから抱きしめた。
「理玖さんに負荷をかけてフェロモンを放出させて、otherの俺に襲わせようとしたんだと、最初は考えました。だけど、それだけじゃないかもしれない。犯人は俺たちをspouseにするのが目的だったのかもしれません」
弁当盗難の時も、理玖は晴翔のフェロモンに煽られて大量のフェロモンを放出して、自分が飲まれて倒れた。
今回も同じような負荷を掛ければ、今度こそ晴翔が理玖を襲うと思ったのだろうか。
襲われたとして、spouseになるとは限らないのに。
「そんな、僕の気持ちも晴翔君の気持ちも、知っている人なんかいないはずなのに」
理玖と晴翔自身ですら、互いの気持ちを知らなかったのに。二人の気持ちを知ってる人物なんか、いるんだろうか。
「それを確かめるための、弁当の窃盗だったのかなって、考えました。学内の雰囲気に流されて、俺は理玖さんに大胆な態度を取り始めていたから、理玖さんをマークしていた犯人が、俺の気持ちに気が付いて嗾けようと仕組んだのかもしれないなって」
理玖はフルフルと首を振った。
「だけど、でも、あまりに偶然の要素が強すぎるよね。お弁当が盗まれて戻ってきた時に、晴翔君が僕の研究室に来たのだって、偶然でしょ」
たまたま大学受付に晴翔がいなくて、事務員の伊藤が弁当を受け取り食べて、戻ってきた晴翔に御礼の兎大福を渡さなければ成立しない。
その兎大福ですら、いつもなら伊藤は弁当バックに入れてくれる。入っていたら、あのタイミングで晴翔は来なかった。
「事務に弁当を持ってきた学生は、最初は俺を探していたみたいだから、本当は俺に理玖さんの弁当を喰わせたかったんだと思います。結果からの遡及の推論ですけど、otherの俺を興奮させたかったんだろうと、思うんですよね。理玖さんを襲わせるために」
晴翔の言葉の意味が理解できなくて、理玖は首を傾げた。