「日本が認可している正規の処方薬は阻害薬や抑制剤だけですが、WOの不妊治療のために興奮剤が世界中で開発されているの、理玖さんなら知ってますよね」
理玖は頷いた。
フェロモン不足で添い遂げる相手を見付けられないonlyを減らすため、薬品会社が興奮剤の治験を始めた話は知っている。only用のSAフェロモン増幅薬だ。
恋人や結婚相手が見つけやすくなれば、WOの結婚出産率が上がる。
優秀な遺伝子を有する場合が多いWOの出生率を上げようとする動きは日本に限らず、どこの国でも取り組まれている。
WO研究が未発達な日本も、他国に後れを取るまいと追随している状況だ。
「仮に、盗んだ理玖さんの弁当にother用の興奮剤を仕込んで、俺に食べさせるために事務で俺を探していたんだとしたら。伊藤さんの第二の性はわかりませんが、normalやonlyなら食べても反応はない。伊藤さんがotherだったとして興奮しても、犯人は放置すればいい」
晴翔の言わんとすることは、わかる。
現にあの日、晴翔は理玖のフェロモンに触れている。偶然起こったあの状況を犯人は意図して作る予定だった、と晴翔は言いたいのだろう。
「でも、犯罪防止のために、other用の興奮剤は、日本ではまだ禁止されている」
otherの興奮剤は、性犯罪に結びつきやすいとの見解から、日本では処方や販売は禁止されている。
「でも他国では既に処方されているし、国によってはドラックストアで買えます。日本においての要指導医薬品や第一類医薬品の類です」
確かに、そういう国はある。
WOの数が多い米国や歴史が古い北欧では、WOや関連薬は日本より身近だ。
「海外で購入したとして、国内には持ち込めないよ」
振り返った理玖を、晴翔がじっと見詰める。
徐に、左耳のピアスを外して、理玖に見せた。
丸くて大きなピアスの裏側に、短くて細かい針がたくさん付いて見える。
「これ、即効型の皮下注射型抑制剤です。日本ではまだ認可されていない規格と薬液量ですが、海外の製薬会社の治験に協力する形で特別に厚労省の認可を得て使用しています」
言われて初めて、思い当たった。
数年前の学会で、アメリカの開発チームが研究発表していたと記憶している。
日常生活に溶け込むアイテムとデザインが素敵だと感じた。
「あの時の研究、治験まで進んでいたのか。というか、そのピアス、全部そうなの?」
晴翔の耳には、左だけ五個もピアスが付いている。
「他は普通のピアスですよ。一個だけボタンみたいなピアスが付いてると違和感なので、抑制剤を誤魔化すために付けてるんです。俺には似合わないみたいで、よくツッコまれますけど」
理玖も、そう思った。
似合わないわけではないが、晴翔らしくないと思う。
「日本は国民皆保険があるせいで海外の製薬会社から薬の押し売りを受けやすい。けど、お陰で今は海外の治験が通りやすいです。特にWO関連はどこの国も被験者が少ないから、自国だけで補えない分を日本に要求してくるケースも多いです」
そういう話は、よく聞く。
実際、理玖も晴翔が話したパターンでonlyの治験に何度か協力している。
WO関連薬に限らず、化学療法薬や麻酔薬など海外に頼っている薬剤が多い負い目もあって、日本は一概に他国の製薬会社の要求を撥ね退けられない。
「詳しいんだね、晴翔君」
素直な感想が零れた。
晴翔は大学事務員で医療関連の職業ではない。卒業大学も理工系で、無関係に思える。
「いや、その……。俺、筑紫大の理工学部卒なんですけど、自分がotherだから、卒論がそっち方面というか、WO関連で上げてて。医療についても、割と調べて」
何となく、慌てているような、しどろもどろしている。
恥ずかしいのだろうか。恥じる必要はないのに。
「だから、理玖さんの論文も、実はかなり読み込んでます……」
晴翔が顔を赤くしている。
それはむしろ、理玖の方が恥ずかしい。
(それはつまり、出会う前から僕を知っていたということで)
初めて会った時、御姫様抱っこをしてくれた時には、晴翔は理玖を知っていたことになる。あの時の晴翔に今のような恋心はなかっただろうが。
(中途半端に有名人扱いとかしないで、普通に接してくれた)
ただの一職員として接してくれたのが嬉しかった。
何となく、晴翔の手を握って包み込んだ。
「えっと、こういう治験が流入してくるくらいだし、otherの興奮剤の治験とか、治験が無理でも、伝手さえあれば日本でも持ってる奴はいそうだなって思って」
晴翔が必死に話を戻そうとしている。
こういう晴翔は珍しいなと思いながら、理玖は考え込んだ。
「正規のルートに紛れてotherの興奮剤が国内流入している可能性は、なくはないかもしれないね」
日本においては犯罪になるが、ことWOに関連した事柄は世界中の認識が甘い。加えて関連事業は開発を焦るから多少の無理もする。
「弁当に興奮剤を仕込んで俺に襲わせる計画は失敗したけど、俺の気持ちはバレたかもしれないです。理玖さんのフェロモンで、俺もあの時はギリギリだったから、仕事に戻るまでに時間がかかったんで。観察されていたなら俺の異変には気が付かれたと思います」
テーブルに置かれたピアスを眺める。
この皮下注射型の抑制剤を何度も押して自己注射して、何とか耐えてくれたんだろう。
(rulerである僕のフェロモンは薬じゃ、ほとんど抑えが効かないはずだから、晴翔君の自制心が勝ったんだ)
理玖を襲わないために、自分から守るために、どれだけ無理したのだろう。大変だったはずなのに、晴翔は押し付けるでもなく、さらりと語る。
余計に愛おしさが増して、握った手に力が籠った。
「事件のお陰で俺が理玖さんの研究室に常駐になって、更に俺を利用しやすい環境が整った。だから、今回の報告書の事件が起きたんだと思うんです」
結果的に興奮剤を使わない状況で理玖と晴翔が互いに強いフェロモンの症状を呈していたなら、犯人にとっては計画以上に二人の気持ちを知れたに違いない。
理玖は茶封筒に入っていたメッセージカードを手に取った。
「僕らは今、spouseになったから、まるで予言のようだと、このカードを見て思うけど。仮に何事もなくこのカードを見付けたら、互いの第二の性には気が付いたかもしれないね」
報告書を読んだ後の展開なんて、偶然だ。
晴翔が名乗ってくれなければ、少なくとも理玖は晴翔の第二の性を知らないままだった。
(だけど、仮にこのカードを見付けていたら、僕はきっと晴翔君がotherだと確信を深めた)
『花は咲きましたか』=『spouseになれましたか』
WOの学者である理玖なら、そう判断する。
晴翔がotherでなければ、spouseにはなれない。
(それに、同じくらい、晴翔君を想う気持ちも深まったと思う)
弁当窃盗の一件があった時、あの時でさえ既に晴翔がotherである可能性を感じて、想いが膨らんだ。晴翔がotherなら理玖を受け止めてくれるのではないかと、期待した。
「俺はメールの報告書を読んでいたから、理玖さんがonlyだって知ったけど。恐らく自分からその話を理玖さんには振らなかったと思います」
そうだろうなと思う。
知っていても知らない振りをして、今まで通りに接してくれたんだろう。
(自分がotherだって、僕に隠したまま、オーバードーズみたいな無理を繰り返したんだろうな)
自分がotherで怖かったんじゃないかと理玖に確認した晴翔は、otherとして受ける差別に怯えているように感じた。そんな晴翔が自分からotherだと名乗るとは思えない。
(僕は、どうしただろう。晴翔君に聞いたり、できただろうか)
自分の第二の性を知られた可能性に気が付きながら、それを問いただしたりできただろうか。
晴翔がotherである可能性を本人に確認したりできただろうか。
「僕も、何も言えなかったと思う。だから、次があるね」
ぽそりと零した。
晴翔が確信的な顔で頷いた。
「俺も、そう思います。犯人が俺たちをspouseにしたいなら、確認しに来る。なってなければspouseにする次の手段を。なっていれば、次のステップを仕掛けてくるんだと、思います」
犯人には理玖と晴翔をspouseにしたい理由が、あるのだろう。
理玖はメッセージカードを見詰めながら、晴翔の手を強く握った。