縁側で将棋盤を挟んで笑い合う蒼と芯の上に影が落ちた。
何気なく見上げる。
知らない大きな男が蒼たちを見下ろしていた。
「相変わらず、ちまい人間のガキを囲ってるなぁ。餌を喰わんと命を維持できない独り者は面倒そうだ。しかし……」
男の口から細い舌が伸びて、蒼の頬を舐め上げた。
驚いて、後ろに下がる。
粘りついた唾液が頬に張り付いて、気持ちが悪い。
「此度は、随分と美味そうな人間を仕入れたな。ようやっと番でも作るつもりかな。それとも喰って精を付ける気でいるのかな」
クックと笑う顔が薄ら怖い。
まるで蛇のような鱗が頬や腕の皮膚に浮かんでいた。
「蒼! 部屋の中に下がれ!」
芯が蒼の襟首を掴んで後ろに引っ張った。
体が部屋の中に転がる。
芯が、ぴしゃりと障子戸を締めた。
「あれは、何?」
「
芯の説明に血の気が下がった。
「それって、紅様も知ってるの? 同意の元なの?」
「そんなわけないだろ。盗みに来てるんだよ。そもそも蛇々は番があるから人を喰う必要がねぇんだ。喰うのは只の遊びだよ。人間を嬲って遊んで、最後に喰うんだ」
前に紅がしてくれた説明を思い出した。
血肉を喰らう妖怪は、負の感情で魂を染めるために餌である人間を嬲って弄ぶ、と。
(喰わなくても生きられるのに、遊びで嬲って喰うなんて……)
命を繋ぐ食事以外に遊びで命を弄ぶ。そういう妖怪が、この幽世にはいるのだ。
「なんで、紅様の屋敷に。どうやって入ったのかな」
紅の屋敷は結界が張ってある。
だから瘴気を遮れると話していた。妖怪の侵入は遮れないのだろうか。
「結界を壊したんだろ。今日は紅様がいないと知っていて、俺たちを喰いに来たんだ」
「僕らを、喰いに」
恐ろしくて手が震える。
「屋敷の中はさらに強い結界が張ってあるから、大丈夫だ。もっと奥に逃げるぞ」
芯が蒼の手を掴む。
体が震えて、上手く立ち上がれない。
(紅様の御屋敷は快適で忘れてたけど、ここは幽世で妖怪の国なんだ。こういう危険があって当然なんだ)
芯に腕を引っ張り上げられて、何とか立ち上がる。
瞬間、真後ろの障子戸が弾け飛んだ。
砕け散った木片が飛び散り、黒い影が降りた。
「蒼、中に走れ!」
黒い何かが飛んできて、芯の体を掴まえた。
振り返ると、蛇の尻尾が芯の体に巻き付いて拘束していた。
「芯!」
蛇の体が芯の体に絡みついて締め上げる。
苦しむ体が宙に浮いた。
「蒼、いいから、お前は、逃げろっ。ぐぇっ」
巻き付いた蛇の尻尾が芯の首を締め上げた。
「蛙みたいに鳴いて面白い子狐だなぁ。もうほとんど紅の一部になってるのか。そっちの方が美味そうだね」
蛇々の目が蒼に向いた。
背筋に怖気が走って、体が震える。
(鬼灯みたいな、赤い目。紅様とは違う、濁った赤だ)
蛇々から漂う妖気も纏う瘴気も何もかもが濁って感じた。
(どうしよう、どうしよう。このままじゃ芯が喰われちゃう。早く助けなきゃいけないのに)
蛇の体に懸命に爪を立てていた芯の腕が、突然だらりと落ちた。
宙に浮いた芯の足元に、血の溜りが出来ている。
視線を上げると、芯の腹に木片が刺さっていた。
(壊れた障子戸が刺さったの? それとも刺された? あんなに血が流れたら……)
蒼の全身の血の気が引いていく。
蛇々が芯を眺めて、匂いを嗅いだ。
「あれ? 死んだかな? ちょっと刺しただけで、すぐに弱るなぁ。生きてるうちに喰う方が美味いのに。まぁ、いいか。痛い思いして怖い思いして、多少は恐怖に塗れたかな」
蛇々が大きく口を開けて、芯の腕に噛み付いた。
「ぁあぁあっ!」
芯が大きな悲鳴を上げた。
「ん? まだ生きてた? じゃ、腕を一本ずつ食うか。痛みと恐怖で頭おかしくなっていいからね。お前は今から、俺に喰われるんだよ。生きたまま喰われるんだ。痛いだろうなぁ、苦しいだろうなぁ。恐ろしいなぁ」
芯の耳に口を寄せて、耳を噛み千切る。
「いっ、ぁああぁあっ!」
芯の悲鳴が響くたび、蛇々が顔を悦らせた。
「はぁ……、悦い声だ。勃起しそうだよ。自分を喰う妖怪に抗えずに、されるがまま嬲られるなんて、悔しいねぇ」
耳から流れる血を細い舌が舐め挙げた。
芯の力のない目が蒼に向いた。
「にげろ、はやく。俺が、喰われてる、うちに」
声にならない掠れた声を聴いて、蒼の心臓がドクンと下がった。
胸の奥の方がどんどん熱くなって、何かが体の内側から込み上げる。
溢れてくる何かを、蒼は体の外側に押し出した。
蒼から弾き出た大量の霊力が部屋の中の障子戸の残骸を吹き飛ばした。
「……いやだ、逃げない。諦めるなって、僕に教えたのは芯だ。僕は芯を諦めない!」
広げた手を蛇々に向ける。
掌に集約した霊力を蛇々に向かって思い切り放った。
強い風になった霊力が、芯に絡まる蛇々の体を切り刻んだ。
「へぇ、人間の割にやるね」
蛇々が、ニタリと笑んだ。
落ちてきた芯の体を受け止める。
引き千切られた耳に霊力を灯した。水の塊になった霊力を留まらせて、止血し傷を癒した。
(お腹の木片が思ったより大きい。引き抜いたら、いっぱい血が出ちゃう)
まだ蛇々がいる状況で、治療に専念できない。
蒼は蛇々に向かってもう一度、手を開いた。
「邪魔だから、どこかに消えてよ」
掌から強く練った霊力を放つ。
炎の形になった霊力が勢いよく蛇々の体に襲い掛かり、部屋の外へ押し退けた。
庭に落ちた蛇々の体を、炎が巻いた。
「火かぁ。妖狐の得意技だね。教えてもらったの? でも、威力が弱い……」
「だったら、紅様の妖力も合わせるよ」
掌に集約した霊力に、紅から流してもらっている妖力を混ぜる。
大きな火の塊を蛇々に向かって打ち込んだ。
蛇々の体がさっきより強く燃え、紫色の炎が立ち上った。
「ひっ、お前っ、只の餌じゃないのか? その青い髪と目は、まさか本物の……」
「五月蠅いな。お前と話す時間が惜しいから、消えてよ」
翳していた掌を上に向けると、くいと上を指す。
庭の土が盛り上がって蛇々に絡まり飲み込んだ。土の塊が蛇々を強く固めて動きを奪う。
気を失ったのか、土に拘束された蛇々が動かなくなった。
「芯、芯、僕の声、聞こえる?」
蒼の腕に抱かれている芯は、虫の息だ。
(どうしよう。この木片を抜いたら、芯はきっと……)
蒼は霊力で水の塊を作ると、木片ごと芯の傷に当てた。
「すげぇなぁ、蒼。こんなに霊力、使えんだ。まるで、魔法みたいだな」
芯が掠れた声で弱々しく話す。
「初めて、使った。こんな風に出来るなんて、思わなかった」
泣かないように、涙をこらえて話す。
声が、くぐもった。
「理研に置いてあった、本の、魔法みてぇ。こういう本、あったよな」
芯の言葉に蒼は頷いた。
「あった。『四人の魔法使い』って本だよね。大好きだったんだ、あの本。何回も読んで内容、全部覚えてるよ。だから真似したんだ」
火、水、風、土を操る四人の魔法使いが、力を合わせて魔王から国を救う物語だ。
勇者でも皇子でもなく、孤児の魔法使いが世界を救う話の展開が好きだった。
手書きの本だったから、きっと理研の誰かが書いた話なんだろう。
「四人分の魔法、一人で使ったな。やっぱり蒼は、すげぇよ」
「あんまり話しちゃダメだよ、芯。血は止まったから、ちょっとずつ木を抜いて、傷を治すから」
木片が刺さっている周囲の止血はできた。
少しずつ木を抜いて、また傷を治すのを繰り返せば、治せそうだ。
「無理、すんな、蒼。俺はもう、いいから」
「いいなんて言うなよ! そんなの、ダメだよ。傷を治して、ちゃんと紅様の一部に、ならなきゃ。それまでは僕と、いっぱい遊ぶって、約束したんだから」
芯の心臓の拍動が弱い。
顔から見る見る生気が失われている。
きっと助からないと、芯は気が付いているのだ。
蒼は芯の手を強く握った。
「諦めないでよ、芯。お願いだから、生きてよ」
泣きたくないのに、涙が勝手に流れる。
芯は握った手を握り返してくれない。