——ここは一体、どこなんだろう……。
途方にくれた時、よく、ため息をつく、とは言うけど、本当なんだ……。
意外に冷静だな……と、自分でも呆れながら、
——いやいや、こんな風に冷静に考えられることが、そもそも、おかしい。
これはきっと、夢なのに違いない……。
「ねぇ、わんちゃん。あなたも、そう思うでしょ?」
縁にネイビーブルーのラインの入った白いスカートに、濃紺のセーラー服、スカイブルーのリボンを結んだ夕里菜は、桜色の髪を耳の後ろで結い上げたポニーテールを少し揺らしながら、抱き上げている子犬に話しかけた。
夕里菜は、顔立ちは綺麗というよりは、可愛いと表現したほうがいいかもしれない。
童顔で、背はあまり高くはない。
まなじりは少し、つり上がっていて、目つきは鋭いのが、どことなくアンバランスで、それが魅力的にも感じられた。
夕里菜とじゃれている子犬だが、トイプードルだろうか——真っ黒い毛並みのふさふさとしており、触れていると、心地よい。
あまり吠えず、撫でてやっても、嫌がったりしなかった。
持ち上げてやると、夕里菜の頬を舐め、尻尾を振り立てて、喜んでいる。
夕里菜たちがいるのは、どうにも説明の難しい場所だった。
太陽も月も、いや——ここには、星空すら見えなかった。
暗く、照らすものなどひとつもないのに、真っ暗闇ではなく、ものを見ることが出来る。
夕里菜が座り込んでいるのは、四角く切り取られた岩盤で、遠くには塔や遺跡のような石の建物、それに、あちこちに配置されている階段などが見えている。
見上げてみるが、水面に写った姿のように、夕里菜が座り込んでいるのとそっくりな岩盤と塔、遺跡などが空を塞いでしまっている。
ずっと離れた場所に、逆さまのピラミッドがあるが、あれは一体、何なのだろう……。
目覚めたら、夕里菜はこの奇妙な場所に、横たわっていたらしい。
くすぐったさに、目覚めると、目の前のわんちゃんに、顔を舐められていたのだ。
もう一度、眠りについたら、今度はベッドで目覚められるのかもしれない。
しかし、夕里菜には、記憶がなかった。
セーラー服姿、ということは、夕里菜は学生なのだろう。
でも、それ以外のことは、何も覚えていない。
どうして、自分がここにいるのか。
その前は、何をしていたのか。
自分の名前以外、何も記憶がなかった。
そんなことがあるのだろうか。
いや——夢ならば、その可能性もあるのかもしれない。
「ね、ね、わんちゃん。これから、どうしよっか」
決めかけて、夕里菜は子犬に頬ずりをしながら、問いかけてみた。
子犬は、夕里菜の腕からすり抜けると、少し離れてから、わん、と吠えた。
ついて来い! と言っているようにも、思える。
これが、夢のなかだとしても、こんな異世界としか思えない風景のなかを、散歩してみるのも、いいのかもしれない。
子犬は、案内でもしてくれるつもりなのか、地面をとことこと歩くと、振り返って、わん、ともう一度、吠えた。
夕里菜は立ち上がると、子犬の後を追った。
◆ □ ■
遺跡のようなものは無人で、なかを覗いてみても、誰もいない。
家具の類もなく、岩をくりぬかれただけのようだった。
もちろん、人が暮らしていたような気配もない。
夕里菜たちのいる岩盤は、巨大なブロックのようだった。
縁まで行ってみるが、崖のようにまっすぐ岩の壁が切り立っていて、果ては見えない。
——ここから、もし、落ちたら、どうなってしまうのだろう。
そんなことを思っていると、わんちゃんが夕里菜のスカートを噛んで、縁から引き戻してくれた。
飛び込んでみたら、目が覚めるかもしれないが、永遠に落ち続けたら——と思うと、やはり近づかないほうがいいだろう。
この世界だが、生物がまったくいない——ということでもないようだった。
遠すぎて、よく見えないのだが、塔やピラミッドの周りを、黒いものが動き回っていた。
しかし、ぱっと見は人間のようには見えない。
動物でもないし、植物でもない。
得体の知れないもので、恐怖をかきたてられた。
子犬について、夕里菜は階段を昇っていった。
段の高さがまちまちで、気をつけていないと、踏み外しそうになる。
一歩、一歩、確かめるようにして、夕里菜は階段を昇り続けていると、途中で目眩を起こしてしまった。
ふらつくと、子犬が体を支えてくれた。
「あ……ありがとう。わんちゃん——」
——あ、あれ?
トイプードルだった、わんちゃんは、いつの間にか、中型犬ぐらいの大きさになっていた。
黒い毛並みで、ふさふさなのは変わりないが、シュナウザーに見える。
不思議なのは、それだけでない。
階段を昇ってきていたはずなのに、正面は下に向かっている。
振り返ってみると、後ろの階段は、上へと続いている。
ということは、途中で重力の向きが変わった、ということなのだろうか。
だが、戻って確かめてみよう、という気にはなれなかった。
また、あの目眩のようなものを味わいたくなかったし、確かめたところで、どうにもならないのだから。
階段を下りきり、平らな岩盤に脚をつけた。
今、夕里菜たちがいるのは、滝と池がある水場だった。
滝はずっと高い場所から、岩壁に沿って流れ落ち、中央の窪みの部分の池へと注がれていた。
池の水位はまったく、変わっていないので、底からどこかへと、水は続いているのかもしれない。
こんな場所なので、水を飲むようなつもりはなかったが、夕里菜は池に近づいてみた。
滝から聞こえてくる水音と冷たい空気は、少し夕里菜の気分を軽くしてくれた。
ここまで、ずっと歩いてきているので、ちょっと、休みたいところだ。
——顔をちょっと、拭うくらいは、大丈夫だよね。
ポケットにハンカチはあるので、それに水を浸してみようと、腰を低くした時だった。
犬が、夕里菜の横に並んだ。
耳をぴくぴくと動かし、周囲を警戒するように、首を動かしている。
そして、わん! わん! と激しく、吠えはじめた。
夕里菜の背筋がぞわっとした。
犬の吠え声に、ではない。
気配がする。
——何か、池のところにいる!
それも、夕里菜たちに敵意を抱いた、何かが……。
ばしゃっと、水面で音がした。
波紋が広がり、飛沫があがる。
その時、夕里菜は池の底から数体、黒いものが浮かび上がってきているのを、目にした。
犬が、夕里菜の制服の裾を噛み、池から遠ざかるように、引っ張っていく。
脚がすくみ、夕里菜は四つん這いになって、必死に離れた。
——あれは……何……?
池の底から現われたものは、黒い染み状のもの、としか説明の出来ないものだった。
スライム、と言ったらいいのだろうか。
偽足を伸ばして、ゆっくりと岸へと上がってくる。
スライムのようだったそれは、岩盤のところまで進んでくると、表面から茎のようなものをのばしてきた。
黒い体の表面に、あちこちにキラキラと輝く宝石のようなものがあり、こんな時じゃなかったら、じっと見入っていたのかもしれない。
「だ、ダメだよ。わんちゃんも、あれに近づいちゃ……」
思わず、夕里菜は犬に抱きついた。
「逃げよう」
脚は遅そうだから、走れば、何とかなるのかもしれない。