「っち、これだから春先は嫌いなんだよ、せっかくかけた魅了も運が悪かったら切れちまう」
しゃがみ込み、ヘラヘラしながら黒瀬のネックラインへ指を突っ込み、引っ張り、谷間を覗き込む。
少しでも佐藤が反抗していたら見返していたけど……ただ血まみれな手を眺め、時折笑い声を漏らすだけ。
貧血か、アドレナリンが分泌されすぎて頭がおかしくなったか。
その間にも青髪は破片を持ち直し、名残惜しそうに彼女の頸動脈をなぞる。
「それにしても羨ましい限りだ。
一年のくせして、俺の魅力を上書きできるほどの才能だなんて」
井戸の蛙は、
海の広さを知らなければ、
宇宙の広大さを知る由もないだろう。
そして知らないことは、マイナスだろうとプラスだろうと、
「おっと失礼、持ち腐れだったことを考慮するのを忘れてたよ。性別でも生別でも、どっちの意味でも」
だが、それがどうした。
「おい、魅了に警戒してたならそう言え。
もっと重点に血を塗りたくるべきだったな、それこそ目が開けられないぐらいに」
どれだけ科学が発展して、
船を作って、
ロケットに乗って、
海、宇宙と世界の広さを知ったところで。
人は————海の深さには届かない。
宇宙より狭い海の深さにすら触れられないのに。
人は海より狭い井戸を。
どうして深くないと断言して嗤える?
「……ん? っふはっ、おっさん頭おかしくなったの——」
怒りで力がこもり、発光する目に笑い声をあげた青髪の顔面に向け。
遠心力でカチカチと伸びながら警棒がめり込む。
「まったく……どこまでもむかつくジジィだ」
「って、てっめぇっ……!
なんでだ、なんで魅了にかかってたはずじゃ」
鼻から血をドバドバ垂れ流し、手で受け止めながら青髪は佐藤に確認する。
「知らねぇよ、こんなおっさんのことなんか」
「そぉか、女か、そこの女が嘘を……いや確かに女どもは掛かっていたからブラフじゃねぇ」
それなら一体どうして、そう疑問だらけの顔が俺の足音で掻き消える。
「何を突っ立ってんだ、テメェっら! 早くこのおっさんを、おっさんを」
ネズミみたいにギャーギャーギャーギャーうるさい青髪は。
微動だにしない、出来ない他の男子生徒に声を、止める。
「そうか、このアマ嘘をッ、逆か、そうか、全部逆……いや、それでもお前は嘘つけねぇはず」
「っはっははははっ、そういうことかよ。
ヒーロー、つくづくヒーローって訳か?」
色んな可能性を走らせ、目を配らせられた佐藤は気に止めるそぶりもなく。
歯を剥き出しに歯軋りし、羽根を握り、血を滴らせ。
「ごちゃごちゃごちゃごちゃうっせぇんだよ。今、俺ぁ不機嫌なんだよ」
一歩の跳躍で目前まで迫り、目を瞑りながら羽根で突き刺そうとした彼を蹴り飛ばす。
「
俺の命令に動こうとした佐藤が止まり、喉が飲み込み、股間が膨らむ。
これだから……使いたくないんだ。
全ての動きを止めたのを確認し、万が一を考えてスマホから学園に併設された警察の派出所へメッセージを送る。
「ふっ……ざッ……」
身体は硬直し、すでに話せない。
そのはずだったが、まだ話せる力があることに思わず、昔の癖で足が出て。
靴底は顔面にめり込み、
佐藤の身体は勢いそのままカゴを鳴らし、サッカーボールが吹き飛ぶ。
「っこれは……ぇ、な……どうして」
「校門の時、自分が一番不幸みたいに言ってたけど、それが理由か?」
「さっき……? あの、ごめんなさいなんの話か分からなくて」
当然のように話しかけたが、彼女の心当たりのなさげな顔に。
いじめられていたあの時、まだ学生姿だった事を思い出し、説明の面倒さに喉がつっかえる。
「ッその服、まさかだけど貴方」
「俺は今な、とても怒ってるんだ」
このまま続けようとした矢先、彼女の中で二人だった人物がようやく一つになったようで。
警戒が少しだけ、身体から解けたような気がした。
がしかし、怒っていると告げているにも関わらずだぞ。余計に腹が立つ。
「浅いと馬鹿にしてきたから、どんな秘密があるのかと思えば……その程度、その程度の」
「その程度って、貴方に何が分かr」
「——てめぇにも分からないだろッ!!」
元気が出てきたようで、ムッと反論してくる黒瀬。
これだけ、これだけ情報を開示してあげてるのに、それでも自分が一番不幸って、そう言いたいってぇのか。
ふざけやがって、許せねぇ、許せるはずがねぇ。
「思春期の真っ只中、
数々のドラマやラブコメを見て、
女の子との青春を想像を膨らませてよォォォォオ」
眠れないぐらい夜を過ごすぐらい、楽しみにしていた過去が鮮明に浮かび上がる。
それはもう今と重ねても、遜色ないほどの感情が全身を駆け巡る。
誰にも否定できない、否定させない。
「枕に顔を埋め、足をばたつかせ、中学校、高校に思いを昂らせていた少年が」
気づけば涙が頬をつたり、鼻からも溢れ出る。
「————野郎の精液を飲まなきゃいけねぇ、サキュバスって知った時の絶望をよッ!!」