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第3話

「あ、ゆうちゃん」


 と、呼びかけた八千代が、籠澤の後ろにいる長尾を見て「しまった」とばかりに手で口を覆った。

 籠澤が八千代を「しずちゃん」と呼ぶ一方で、八千代は籠澤のことを「ゆうちゃん」と呼ぶようだ。


「ゆうちゃん」


 長尾が繰り返すと、籠澤は笑った。


木綿ゆうだからな。別の親戚は『とうふ』と呼ぶやつもいるよ」

「え、…… ああ」


 なぜ突然豆腐なのか、と思った長尾だが、字面を思い浮かべて納得する。

 籠澤 木綿ゆう─── それが籠澤の名前だ。面白い字を使うんだなと長尾は思ったが、「木綿子」という名前の女性は著名人にも多いと知った。


 籠澤から相談を受けた翌日、籠澤は八千代と図書館で待ち合わせを約束したようだった。詳しい話を聞くためだ。

 籠澤は長尾にも話を聞いてほしいと持ち掛けたが、当初長尾はそれには少し躊躇があった。

 八千代は見たとおりに控えめな女の子であるのに対し、自分の外見は控えめに言ってもいかつい。

 籠澤と同じ身長であるにもかかわらず、体つきがしっかりしているせいか実際よりも大きく見られがちだ。

 極めつきは目つきの悪さである。三白眼の上に、感情の起伏が小さいせいもあるだろう。小さな頃から女子たちに敬遠されてきた自覚があった。

 前回、彼女と会話をしていたとはいえ、それは自分にも彼女にもその必要があったわけなので。

 という長尾の躊躇いを、「まあ大丈夫だから」だけで押し切った籠澤だ。


「長尾にも相談させてもらったよ。一緒に話を聞いてほしくて連れてきた」


 身内のデリケートだろう話を、前回ともに事件に巻き込まれた間柄とはいえ、こんな怖そうなやつに話したことを、おおっぴらに彼女に伝えて大丈夫だろうかと、長尾は内心ひやひやしていた。

 だが、予想に反して八千代は笑顔を見せた。


「そっか、話を聞いてくれてありがとう、長尾くん。

 また変なことに巻き込んでごめんね」

「いや……」


 謝りながらも、どこかホッとしたように見えた八千代に、戸惑ったのは長尾の方だった。

 もちろん籠澤を通してだろうが、八千代の信頼の一端を自分が受け取ったように感じたのだ。

 三人は図書館の屋上に出た。よく晴れていて、三月初旬にしては暖かい日だ。

 大学は春休み真っただ中であったが、部活動やゼミの活動で学生たちの姿はちらほらと見られる。

 図書館も時間を短縮はしているが開いており、個室スペースを使う者、屋上で寝ころぶ者などいつも通りの風景が流れていた。

 顔にタオルを被せてベンチに寝転ぶ学生の隣を通り、屋上の端に設置されたもう一つのベンチに並んで座った。

 真ん中は八千代だ。彼女を挟むようにして座るので、傍から見ると少し物騒に見えそうである。


「長尾くんには、どこまで話してくれたの?」


 八千代が籠澤へ尋ねると、彼は提げていたトートバッグから缶コーヒーを三つ取り出していた。

 学校に来る前にコンビニで買ったものだ。

 二つを八千代に渡しながら答える。


「俺がしずちゃんから聞いていたことは概ね全部話してるよ。

 それからしずちゃんちの事情と、昇おじさんの病気のこととか」

「ありがとう。

 そっか。じゃあ私から今の時点で補足することは、ないかな」

「そうだね。もし足りなかったら都度聞いてくれるよ、長尾は」


 はい、と八千代は渡された一つを長尾に経由する。

 なんだか二人からの篤い信頼を受けている自分に、先ほどから終始戸惑う長尾だ。

 信頼には応えたいと思いながら、八千代からコーヒーを受け取った。


「詳しいことを聞きたい、て話だったよね」


 と言いながら、何を話せばいいのか迷っている八千代に、籠澤はプルタブを起こしながら声を掛けた。


「もう一度、昇おじさんのことを聞きたいんだ。

 俺たちの間だとなんだか『分かった事実』みたいになっちゃってるから、改めて長尾に聞いてもらうってことも含めて」

「なにか、新しい視点、てことだね」

「そうそう」


 思った以上に自分に寄せられている期待が大きそうだ、と長尾は感じていた。

 籠澤と八千代の会話は滞りなく、長尾が抱いていた八千代のイメージが少し変わる。意外にはきはきと喋るのだなと長尾は思った。

 前回の初対面の弱弱しいイメージが強いのはあるが、あれは誰だって怯えてしまう事態だ。

 今の八千代の様子が本来なのだろう。


「聞いてもらえるかな、長尾くん」

「もちろん」


 見上げられた八千代に頷きつつ、長尾は彼女が持っていた缶コーヒーを示した。飲みながら、と思ったのだ。

 八千代はプルタブを起こし、一口あおぐ。

 ゆっくりと飲み下したような間をおいて、八千代は話し始めた。


「話を聞いていると思うけど、昇さんは私が生まれたときから、ずっと私とお母さんを助けてくれていた人だったんだ。

 お父さんと呼んで差し支えないほどだと私は思っているんだけど、お父さんとは呼ばせてはくれなかった。

 しずくのお父さんはちゃんといたんだよ、て昇さんは言うの。そういう人だったんだ」


 静かな八千代の話から、長尾は昨日聞いていた昇の人物像に印象を追加した。

「優しい」という形容の中に、一つ筋を通すような。

 父親になり替わろうと思えばできただろう。相手は生まれた時から父親を知らず、ずっと自分が傍で語りかけてきたのだから。

 しかし、それをしなかった。確たる自制と倫理を持つ人だった。

 そういうイメージが、長尾の昇像に加わった。

 同時に、四辻に出るという『昇』の影とのギャップが拡がる。


「昇さんはずっと独身だったって聞いてるけど、一緒に過ごす中で恋人の話が出てきたりはしなかったの?」


 籠澤の質問に、ギョッとしたのは長尾だった。なかなか繊細な話題を気軽に振ったように感じたのだ。

 いつもの籠澤は、相手さえ気づいてない部分まで気を遣って言葉を選ぶような人間だ。

 それが、自分の父親に相当する人に恋人の影は無かったのか、などと。いくら身内でもなかなか踏み込めない質問ではないだろうか。

 と思った長尾だが、八千代はそれほど気にしてない様子で首を振った。


「無いと思う。私に気を遣っていたのかもしれないけど。

 もしいたとしたら、お見舞いに来たりするんじゃないかな。でもそういう人はいなかったし」

「そうだね、そうだ」


 変わらない空気感で二人は話を進める。

 あるいはこの話題は、二人の間では─── 八千代の中では終わっている話題だったのかもしれない。

 そして、それを籠澤も知っていての質問だったとしたら。

 繊細な話題さえも共有できる間柄であるという証左。

 そういう存在が身近にいることに、長尾は羨ましさを感じた。

 自分も缶コーヒーのプルタブを開けて、中身をごくごくと飲み下す。

 ここまでの昇の話は、ただ彼が相当の人格者であるという情報しか積み重ねられていない。


「八千代さんは、おじさんに怒鳴られたこととか、なかったのか」


 四辻の存在との差を埋められそうな要素を見つけるべく、長尾は質問した。

 八千代も少し考えたようだが、予想通り首を振った。


「もちろん危ないことをしたときに注意されてるし、けがをしたときに慌ててるおじさんを見たことはあるけど……

 理不尽に声を荒げられたことってないかなあ」

「もともとしずちゃんは、俺みたいに無茶もあほなこともしないしね。

 おじさんが慌てるタイミングがそれほどなかった、てこともあるかも」


 口々に返す二人の話を聞き、籠澤でもあほなことするんだなと、長尾は少しずれたポイントで驚いてしまった。

 しかしこうなると、新しい観点とやらの手掛かりが難しそうである。


「昇さんが、ただただいい人ということは分かったんだが。

 ますます四辻との乖離が深まって、逆に四辻の話が怪しい気がしてならない」


 四辻に現れたのは、本当に『昇』なのか───


「そっちが間違ってる可能性はあるよな」

「嘘を、吐かれている…… ような話し方では、無かった気はするけど……」


 自分が持ってきた話題だけに、八千代は狼狽えるように長尾と籠澤を見た。

「ああ、いや」と思わず両側で手や頭を振ってしまう。


「単純に見間違いって可能性だよ、しずちゃん。

 なにをもって、おじさんだと判断したのか」

「うん…… そう、だね。

 私もびっくりして、ちゃんとは聞けていなかったかも」


 籠澤の言葉に、八千代もうんうんと頷く。

 では次は、『昇』を見た八千代の友人に話を聞く流れかと、長尾が考えていると、籠澤が話を続けた。


「それと、そうだな…… 八千代おばさんにも、昇さんの話を聞いていいかな」

「お母さんに?」


 八千代もびっくりしているが、その隣の長尾も驚いていた。

 その二人に籠澤は笑顔で頷く。


「そう。

 なんたって姉だからね。しずちゃんの知らないこともたくさん知ってるはずだ」


 なるほど籠澤の思惑には、長尾も納得した。

 大事な姪に見せる顔と、実姉が見てきた顔ならば、後者の方が明らかに多いだろう。

 完璧な人格者ではない面もあるはずだ。


「八千代さんは、お母さんに四辻の話はしたのか」


 とはいえ、まず大前提を八千代の母が分かっているかどうかは大きなポイントだ。

 長尾の質問に、八千代は微妙な様子で、首を振ったような頷いたような。


「すごくざっくりだけ……

 友だちが、おじさんを見た、て。これだけ」


「四辻のことを話すなら、ちょっと補足が必要そうかな」


 ふむと、籠澤は頷く。

 話のきっかけを四辻にするなら、四辻に現れる『昇』の様子を伝える必要はあるだろうと、長尾も思っていた。

 だがここで、八千代が難しそうに眉を寄せた。


「四辻のおじさんの状況を、お母さんに伝えるのは、ちょっと……

 さすがにショックだと思うんだ。おじさんが亡くなったときも、お母さんすごく不安定になっていたし」


 話を聞き、それは確かにサッと聞いて終わりにできそうな雰囲気では無さそうだと、長尾と籠澤も感じた。


「ひとまずは、昇さんがどんな人だったかを、聞ければいいんだよね?」

「うん。そうだね」

「じゃあ、私がお母さんに聞いてくるよ。

 四辻のことは伏せて、ただどんな人だったかって感じで」


 どうかな、と八千代が二人の様子を窺う。

 長尾が籠澤を見ると、彼もこちらを見ていた。特に問題はないという意味で、長尾は頷く。

 四辻のことを言わないのであれば、その方が自然だ。


「いいと思う。

 俺から聞くのも、しずちゃんから聞くのもここは変わらなそうだしね」


 長尾の首肯を受けて、籠澤も八千代へGOを出した。

 ありがとう、と八千代は笑う。


「じゃあ、その間俺たちは噂の四辻を見ておこうか」


 そう言って、籠澤はジャケットのポケットからスマートフォンを取り出した。

 これから向かうつもりだろうかと、長尾は時間を確認する。


「しずちゃんの友だちが昇さんを見たのは、何時くらいだっけ」


 と、籠澤が尋ねるので、どうやら目撃時間に合わせて向かうらしい。

 長尾はバイトのシフトの確認に切り替えた。


「ちょっと遅い時間だよ。

 21時くらいって言ってたと思う」


 中華料理店のシフトが20時まで入っていた。

 長尾のバイト先の店は昼過ぎから深夜帯までの営業時間であり、20時以降のシフトのメンバーへ引き継ぐ流れになる。

 21時なら、一度部屋に戻ってからでも四辻に向かうことができそうだ。


「行けそうか、長尾」


 八千代の向こうから、籠澤が声を掛けた。

 長尾はしっかりと頷く。


「行ける」

「了解、ありがとう」


 端的な長尾の物言いが、こういうときにとても頼もしく聞こえる。


「今日は、とりあえず俺と長尾で四辻に行ってみるよ」


 とりあえず、と籠澤は言うが、すべてが明るみになるまではこの先も八千代を連れて行く気は無かった。

 それこそ昇と会話ができる見込みがなければ。


「分かった。ありがとう、ゆうちゃん、長尾くん」


 何かが解決したわけでもないが、八千代は安堵の笑顔を見せた。

 信頼には応えたいと、長尾は改めて思う。


 この先の夜に、思いもよらぬ煮詰まった過去があることを、知る由もなく。


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