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第6話

 滞在時間は30分にも満たなかったようで、帰りの車内は行きとほぼ構成が変わっていない。

 若干人ごみが落ち着いただろうか。


「音が聞こえたんだ」

「音」


 つり革に掴まりながら、長尾は隣の籠澤へ切り出した。

 周りに人がいるにはいたが、とくにこちらを注目しているわけでもなく、二人にしてみても秘匿しなければならない情報でもない。

 仮に聞いていたところで、何も知らない人間が信じられるような話でもない。


「何の音かは分からない。耳鳴り…… のような低音が、だんだん近づいてきたんだ」

「耳鳴りか」


 唸るように籠澤が繰り返す。

 耳鳴りといったものの、長尾はそれが正しい表現だとも思えなかった。あの音はどう表現したらいいだろう。

 ただ、少なくとも。


「人の声ではなかったし、を見ることもなかった」


 長尾の出した答えに、籠澤は車両の天井を仰いだ。

 怪異には遭遇した。しかし、それが八千代の友人が見たもの─── 『昇』と同じものなのかは、分からない。

 情報は得られたが、同時に可能性も拡がってしまった。


「もう少し、勘の鋭い人間が見たら、何か分かるだろうか」


 長尾がそう言うのは、籠澤のに期待したのもあった。

 分家とはいえ、籠澤の家系は神を祀っている。どういう経緯か意図かはともかく、の関係を、籠澤もまた持っていることは持っているようなのだ。

 天井を見つめていた籠澤が、傍らの長尾へ視線を移した。

 彼の期待を察する。


「…… うん、まあ、…… 今回は、本家の関りは無さそうだから」


 ぽつぽつと籠澤が呟いた言葉は、長尾にはよく理解ができなかった。

 だが、長尾が怪訝に思う暇もなく、籠澤は頷いた。


「心当たりがある」




 翌日。長尾は籠澤とともに、閑静な住宅街を歩いていた。

「閑静な住宅街」という言葉は、もしかしたらここから発祥したのではないかと思われるほど、静かであり、穏やかだ。

 しかし正直なところ、長尾はここに住宅街があるとは思っていなかった。

 なぜなら二人が歩くこの場所は、この国の中枢機関を寄せ集めた国のど真ん中もど真ん中、少し足を伸ばせば我々の象徴たる人物が住まう場所に辿り着く。

 なのだ。


 ここに建っている高い建物は、全部オフィスビルなのかと思っていたが、高層マンションも含まれていたことを、長尾は初めて知った。

 その一方で、歴史ある古い門構えもたびたび顔を見せる。当然ながら、街自体も長い時間を有しているのだ。

 二人が歩く傍らにも、美しい瓦の波を乗せた土塀がずっと続いている。中の様子は当然窺えないが、大きな邸宅があるようだ。


「ごめん、ずいぶん長く歩かせちゃってるな。

 いつもどこから入るのか迷うんだ」


 先ほどから無言の長尾に、籠澤が申し訳なさそうに謝った。

 長尾は長尾で、普段踏み入らない区画を歩き物珍しさに感心していたところだったが、籠澤はそれを疲弊しているのではと気にしたらしい。

 確かに、レンガ造りの綺麗な駅舎を出てからしばらく歩いているが、口数が減るほど疲れているのではない…… と言おうとして、長尾ははたと気付いた。


「もしかして」


 と、彼はずっと片側を埋めている土塀を指す。

 自分たちの目的地は、この塀の中なのか。


「目の前にあるのにな。乗り越えて行けないかって来るたびに思うよ」


 忌々しそうに籠澤は頷き、塀の向こうを睨むように見据える。

 そうして道が開くわけでもないので、二人はそれからもう少しだけ歩き続け、やっと土塀に続く貫禄のある瓦屋根の門構えに辿り着いた。

 籠澤は躊躇なく使い込まれた木の引き戸を開け、門の中へ入る。驚く長尾がちょっとついて行けないと、それに気づいた彼が振り返った。


「ああ、大丈夫。今日訪ねることは相手に伝えてあるから」

「いつも開いてるのかと思った」

「はは。高級住宅街治安が良いとはいえね。普段はちゃんと閉まってるよ」


 籠澤たちが来るのを知っていて、開けておいてくれたのだろう。

 門からは石畳が続き、横に目を遣れば庭園がある。池があるようにも見えた。

 邸宅には、さすがに籠澤も勝手には入らないようで、インターホンを鳴らして家人に出迎えてもらった。

 もしかして和装なのではないかと長尾は思っていたが、迎えてくれたのはこざっぱりとした動きやすそうなシャツとコーデュロイのパンツの男性だ。どちらも柔らかな白で揃えているのもあり、男性自身も優しそうな雰囲気である。


「いらっしゃい、木綿くん。

 梓葉もさっき帰ってきたところだ」

「こちらこそ、お時間を頂きましてありがとうございます。

 いつもの部屋ですか」

「ああ。案内しようか」

「いや、大丈夫ですよ。智詩さんもお忙しいでしょ。

 これ、良かったら」


 籠澤は降りた駅で購入した和菓子の入った紙袋を、男性へ渡す。「これはご丁寧に」と、男性もまた丁寧に紙袋を受け取った。

 随分と親し気に、籠澤と男性は会話をする。年齢はそれほど離れていないようには見えたが、外見以上の落ち着きが、その男性にはあるように見えた。

 長尾がじっと見つめてしまったためか、ふと男性の視線とかち合う。


「ああ、そちらがお友だち?」

「はい、以前話してた長尾です」


 自分が事前に紹介されていたことに驚きつつ、長尾は男性に会釈をする。


「はじめまして。長尾です」

「こちらこそはじめまして。ええと…… 智詩さとしと呼んでくれ」


 初対面の自分に、なぜか名前の方で挨拶を貰ってしまい、長尾は戸惑ったものの「はい」と承知した。相手がいいと言うのだから、長尾の方で気にすることも無い。

 長尾と智詩のやり取りが落ち着いたのを見計らって、籠澤は長尾を連れて邸宅のくれ縁を進む。

 ガラス戸から見えるのは、先ほど遠目に見た庭園だ。ずっと塀の横を歩いてきたのもあり実感しているが、この一等地にあり広大な敷地を有している。

 一体どんな家の人間と知り合いなのだと、前を歩く籠澤の背中を凝視してしまったが、事前に彼からの説明はほとんどなかった。

 旧い知り合いという言い方から、八千代のように親戚ではなさそうだ。

 ただ、その様子から、説明したくないというよりは、どう説明したら良いのか悩んでいるような雰囲気だった。長尾も彼を困らせるのは本意ではなかったので、とりあえず会えるなら会いに行こうとなったのだ。


 やがて縁の最奥までやってきたところで、籠澤は閉じられた障子の木枠部分を軽く叩いた。


梓葉あずは、入るよ」

「どうぞ」


 中から聞こえたのは、若い女性の声だった。障子を開けて、長尾はさらに驚く。

 広すぎず、狭すぎずのちょうど良い広さの和室に誂えた大きく艶やかな一枚板の座卓。そこに正座していたのは、黒い着物の羽織を着た制服姿の少女だった。


 真っ直ぐ肩下まで伸びた黒髪に、眉毛で切りそろえた前髪。ぱっちりとしたアーモンド形の双眸はじっと長尾たちを見つめるのに、口元は柔らかく弧を描いている。アルカイックスマイルという言葉が、長尾の中に浮かんだ。

 神秘的な佇まいと白いセーラー服に黒羽織というギャップに、戸惑いを受ける長尾の横で、籠澤は躊躇なく和室の中へと進み、彼女の真正面に座る。


「長尾」


 入口で立ち尽くしていた長尾を、籠澤が呼び、自分の横に用意してある座布団へ促した。

「失礼します」とことわってから踏み入る。それがなんとはなしに、『踏み込んだ』という感覚があり、長尾はふと昨夜の四辻を思い出した。あの空間とは正反対に、この和室は澄んだ空気をしているが。

 長尾は籠澤の隣へ腰を下ろしかけ、


「お前か」


 不意に少女の声が聞こえたと思ったら、彼女の黒い双眸は自分を見ていた。


「『しろ』に助けられたのは」


 その名前が、あまりに凡庸であるので、長尾はそれが何を示すのかを一瞬把握しかねた。

 籠澤が「こら」と軽く注意を飛ばす。


「梓葉、長尾だよ」

「長尾」


 少女は素直に言い直すが、正直そこはどうでも良かった。

 長尾は「はい」と返事をしてから改めて座り直し、尋ね返した。


「その『しろ』というのは?」

「おや。木綿、説明はしてないのか」

「説明もなにも、俺がよく分かってないよ」

「お前には何度か説明した気はするがな。まあいい、がお前の答えなんだろう」


 およそその年頃の少女が使う言葉遣いではなかったが、どうしてかそれがしっくりとくる雰囲気を持っている。

 梓葉はもう一度長尾を見た。


「本人以外の口から、部外者にその情報を渡すのは私が定めている誓約に反する。すまないな。

 知りたければまず木綿に理解させてから聞いてほしい」


 そこそこ無茶を言われた気がする長尾だが、引っ張れない情報に拘わる性根ではない。

 何より今回は、八千代の件でここに来たのだ。

 籠澤が長尾の様子を窺っていたので、長尾は彼に「大丈夫だ」と応えた。


「ええと…… とりあえず、改めて紹介しよう。

 長尾、彼女は太家たいか 梓葉あずは。見ての通り女子高生なんだけど、うーーん…… ひとまず巫女さんとか、霊能力者と思ってくれ。

 梓葉、前に話していた長尾ながお 友誠ともなり。大学の友人で、今ルームシェアをしてる」


 ひとまずとは何だろう、と思ったが、少なくとも昨日話していた「勘の鋭い人間」に合致する人なのだろうと長尾は解釈した。

 梓葉の無機質な微笑みが、不可解な説得力を持たせている。

 長尾と梓葉が再度お互いに会釈を交わしていると、襖が叩かれる。障子の向こうに背の高い影があった。


「失礼、お茶を。それからおもたせですまないけれど」


 そう声を掛けて障子を開けたのは智詩だ。漆塗りのお盆に乗せた湯呑とお茶請け(先ほど渡していた和菓子のようだ)を、それぞれに差し出し、滞りない所作で退室した。

 手慣れている様子だった。彼はここの使用人とか、そういう立場なのだろうかと長尾が感じるほどに。

 家族にしては、目の前の梓葉と似ている所はない。


 梓葉は「先ほど帰ってきた」と智詩が言っていた。タイミングによっては間髪入れず自分たちが来訪したかもしれない。

 早速お茶を一口飲んだ梓葉へ、籠澤は今回の件を切り出した。


「─── 知り合いが一見縁のない怪異に遭遇しかけている。

 その正体を探りたいんだけど、俺と長尾では力不足でうまく情報を増やすこともできない。

 そこで、梓葉に相談に来たんだ」

「なるほど。

 確かにお前の性質上、怪異の解消はできても、解決は難しそうだな。

 ひとまず、詳細を」


 そこで初めて、彼女の双眸に好奇心の色が浮かんだように見えた。

 籠澤は八千代から聞いている話と、昨夜の一件を梓葉に伝える。聞いている間、梓葉は一貫として口元に微笑をたたえ、感情の乖離した視線を籠澤に向けていた。

 お茶を飲んだ以降は身じろぎもせず、背筋の通った正座で両手を膝に添えている。まるでそこだけ時間が切り取られた、一幅の絵のように。


「なるほど」


 聞き終えた梓葉が頷く。そこでようやく彼女の時間が動いた。


「残念ながら、その件に関して、私が大して役立てる気はしないな」


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