太家邸から戻ると夕刻。日は建物の間に落ちて、地上は街灯が夜の気配を連れてきている。
長尾がバイトに向かう前に、籠澤が声を掛けた。
「今夜、昇さんの件で、しずちゃんちに来れないかって連絡があったんだが」
「ああ、夕飯はどうする」
「あ、いや、長尾も一緒にだ」
当然長尾は、籠澤だけで八千代家に向かうものだと思っていた。
それ以前に、自分はこれからバイトに出るのである。
「悪いが、急にシフトに穴を開けるわけには……」
「もちろんだ。
終わってからでいいって。遅くなっても構わないと言ってた」
「20時に終わって向かうとおそらく…… 22時になるぞ。常識的な時間じゃない」
ましてや、男性二人が伺う時間であれば。
それは籠澤も思っていたらしく、長尾に同意するように頷いた。
「
籠澤の言葉に、長尾は眉根を寄せた。
「八千代さんのお母さんが? 籠澤はともかくとして、俺にまで?」
重ねて自問してしまうが、長尾は八千代とは先日の一件で初めて顔を合わせたのである。それも、籠澤を介してこそ。
長尾も呼ばれているということは、八千代から母親へ紹介があったということだが、それだけで話の場に呼び出されるだろうか。
「もしかしてだが…… これは怒られるパターンか」
「絶対にないとは言えないけど」
という籠澤の視線が若干泳ぐ。可能性の一つとしては、彼も考えているようだ。
「でも、もしその気配があったら、しずちゃんからの連絡にちょっとくらいは触れてそうだし。
そもそも、おばさんに怒られるようなことをしていた覚えもないよ」
「四辻に行った、くらいだもんな、やったことといえば」
「うん、まだ」
じゃあ法律的にも人道的にも、やはり誰かに怒られるようなことはしてないな、と長尾はひとまず内心安堵する。
「分かった。ちょっと不安だが、八千代のお母さんが呼んでいるなら、行かないとな。
話が終わったらすぐに帰ろう」
「ああ。ありがとうな、長尾。助かる」
情報の曖昧な中で承諾してくれたことに、籠澤は感謝した。
バイト中も、長尾は一体何を話されるのだろうかと、頭から離れなかった。おかげで危うく注文ミスをしかねたが、料理長兼店主の機転によりカバーされる一面も出てしまう。
「おう、どうした友誠。疲れてるのか」
夕飯時のピークが過ぎ、束の間客足が落ち着いたところで、調理場から出てきた店主が声を掛けた。
長尾の隣に並ぶと同じくらいか少し背が低い。しかしどっしりとした体格の店主は見た目から頼もしいものだ。
普段、不器用な気配はあるがだらけるようなことはない長尾である。何か異常があるのではないかと店主は感じた。
「あ、いや…… 考え事をしてました。すみません」
「ん…… そうか。あまり根詰めるなよ。
俺にどうにかできることなら相談してくれ」
素直に答える長尾に、店主も言及することなく彼の背中を叩く。
すべてを庇うほど子どもでもなく、かと言って突き放せるほど成熟もしていない。店主の中では、長尾の年齢はそのようなものだった。
長尾も店主の気遣いをよく分かっていた。だからできるだけ自分の事情を話すことができればと思っていたが、さすがに八千代の事情をそのまま話すわけにはいかない。
長尾が何か言いたげにしている様子に、店主は急かすことなく彼の言葉が出てくるのを待った。
やがて、長尾は顔を上げ、店主へ切り出した。
「俺、この後女性の家にお邪魔するんですが、手土産は何がいいと思いますか?」
心配そうに聞き耳を立てていた店主の奥方まで飛んできて臨時開催された女性宅へのおもたせ会議の結果、駅の中に入っている紅茶のお店で買っていくのが良いとなった。
…… ということを長尾から聞いた籠澤は、思うことは多々あったものの、登場人物のすべての人が真面目に善意で考えられたものであるので、素直に頷く。
「そうだな、紅茶はいいかも。
今の時間だとお菓子を持って行っても、食べるのは明日になっちゃうだろうし。
お茶ならいつでも飲めるからな」
そう言いながら、籠澤は腕の時計を確認する。
借りている部屋からの最寄り駅はそこそこの規模があり、おそらく三人が想定して話していた紅茶の店舗も入っている。
「ちょっと急げば閉店までに間に合う」
「よし」
スマートフォンで店を確認すると、二人は駆け足で駅へと急いだ。
閉店間近ではあったが、店員へ女性好みの香りなどを聞きながら使いやすいティーバッグのセットを購入する。
一緒におススメをされたティーハニーも付け、簡素だが可愛らしいラッピングを掛けてもらった。
もしかしたら怒られる可能性もまだ残っている訪問である。これで少しでも…… という思惑が無いわけではないが、良い手土産だなと二人で頷きあっていた。
最寄駅から八千代の家は時間が掛かる。
滞在時間が1時間以上掛かった時点で、戻りの終電の時間が怪しくなるくらいだ。
この時間にでも来てほしいと向こうが言うからには、おそらく泊まらせる前提なのだろうと籠澤は言う。
さすがに女性しかいない家に泊まるのは気が引ける。
籠澤は歩いてでも部屋に戻るつもりであったようだが、せっかく長尾の実家が近くにあるので、終電の時間が危なくなったらそちらへ行こうということにした。
駅から十五分ほどの八千代の家もまた、住宅街のど真ん中だ。
家のある一帯が、都心から一歩離れたホームタウンということもあるだろう。駅前を出てすぐに住宅街が拡がる。
夜であることも加え、ここも迷いそうだと長尾は思っていたが、隣の籠澤は四辻の時とは違い躊躇なく進んでいく。
親戚の家に行くのだ。ここは彼にとってもホームタウンになるのだろう。
「あ、ゆうちゃん、長尾くん」
一軒の家の前で、ダウンジャケットを着こんだ八千代が手を振っているのが見えた。
長尾と籠澤は足早に彼女の下へと駆け寄る。
「中で待っててくれて良かったのに、家なら分かるよ」
「あ、そうだったね。久しぶりだし、夜だから分かるかなって思って」
二人が無事に辿り着けたのを見て、八千代は良かったと安心しているように見えた。
仮に迷ったらチャットなりで連絡を取れるので、籠澤の言う通り家の中で待っていてくれて良かったのだ。
しかし、ここで外に出てきてしまうのが八千代という少女なのだろう。
入って入って、と八千代に促され、長尾と籠澤は家に上がる。
「いらっしゃい。夜遅くに呼んでしまってごめんなさいね」
通されたダイニングルームに、八千代によく似た女性がいた。
長尾には女性の年齢に関して、見た目では本当によく分からないが、自分の父親よりは若いように見えた。
「こんばんわ、おばさん。
こちら、今俺とルームシェアをしている長尾」
「はじめまして。長尾 友誠です」
もともと家に女性がいなかった時期が長い長尾は、バイト先の店主の奥方にも未だに構えてしまうところがある。
初対面の、それも年上の女性となれば緊張といってもいいほどだ。
それを見越したわけでもないだろうが、八千代の母はにこやかな笑みを返した。
「こちらこそ、はじめまして。
しずくの母の
どうやらこの時間になった理由を、八千代から通っているらしい。
丁寧なあいさつに「いや、そんな」としか返せない長尾の隣で、籠澤は八千代を振り返った。
「昇さんに手を合わせてもいいかな」
「うん。こっちに」
と、八千代はダイニングルームの出窓へと二人を呼ぶ。昼ならば日差しが差し込む方だろう。
出窓にはたくさんの写真が並べられていた。パッと見で、八千代の写真が多いようだ。制服姿の八千代が、友だちたちと並んで笑顔を見せている。
その一角に、立て掛けの写真と六連フレームの写真立てがあった。
一人の男性と八千代、それから十重が映っているスナップ写真が収められている。八千代の小さい頃から最近の様子…… 六枚の軌跡が静かに笑っている。
「この人が、昇おじさん」
八千代は立て掛けた一枚の写真を指し、長尾に向けて紹介した。
八千代の面影がある…… かどうかは長尾には判じにくかったが、優しく微笑む雰囲気は八千代によく似ている。
仏壇ではない。位牌や骨は、昇の実家の方に収められている。ここには写真があるだけなのだが、八千代と十重は毎日写真に声を掛けていた。
静かに手を合わせた後、どうぞ掛けて、と十重が長尾と籠澤を四人掛けのダイニングテーブルの方へ促した。
八千代親子で使うには少し大きい。きっと昇を含め3人で使っていたテーブルなのだろうと、長尾は顔には出さないもののしんみりと思ってしまう。
「あ、これ長尾と選んできた紅茶です。
ティーハニーってやつもあって、紅茶に入れてもいいし、パンに塗ってもいいやつみたいで」
「あら嬉しい。今お湯を沸かしているから、さっそく頂こうかしらね」
籠澤と十重のやり取りは自然で、その間に緊張感はない。
やがて八千代が花柄のトレーにティーカップを四脚乗せて、テーブルに戻ってきた。二人の前に差し出された紅茶は明るい琥珀色で、良い香りが立ち上るが、それがベルガモットの香りであるとは長尾には分からない。
「お夕飯は食べてきてるって聞いたけど」
「はい、済ませてますので、お気遣いなく」
と籠澤は返したのだが、テーブルに戻ってきた八千代母が持っていたトレーには、オレンジやリンゴのドライフルーツの入った小鉢が乗っていた。
食後につまむには良いものだ。
「さて」
しばらく籠澤の近況や長尾の人となりを紹介していたが、買ってきた紅茶を飲み落ち着いたところで、十重は手にしていたティーカップを静かに置いた。
「あなたたちに話しておきたいことがあるの」
細く白い指先を組み、十重は娘を含めた三人を見渡して言う。
自然と長尾も籠澤も、八千代でさえも居住まいを直した。
「四辻に昇が
おそらくだけど、心当たりがあるわ」
長尾と籠澤はもちろん、八千代も丸い目をさらに丸く見開いていた。
反射的に三人で顔を合わせる。だが、どの眼差しも自分と同じ衝撃であると察し、再び十重に三つの視線が集まった。
十重はその視線を、流すことなく受け止めた。