まさか
それは八千代自身も同じだったようだ。
「お母さん…… 四辻のこと、誰から聞いたの?」
先日送られてきた八千代からのチャットには、母に四辻の事は伏せていたと書いてあった。
もちろん籠澤が言うはずもなく、長尾については言える由もない。
十重は娘に向けて小さく笑った。
「
あなたも美羽ちゃんから聞いたんでしょ」
美羽ちゃん……、と八千代は口の中で繰り返した。
長尾は籠澤を見たが、彼もその名前の人物は知らないようだ。
「四辻で昇おじさんを見た、て言ってた友だちだよ」
二人の様子に気づいた八千代が、まだ戸惑いの中にいながらも説明をしてくれた。
なるほど、とひとまず長尾も籠澤も頷いたが、二人の中には同じ疑問が浮かんでいた。
─── なぜ、八千代の友達が、直接
「あの四辻では、以前事件があってね。
女の子に襲い掛かった男を、たまたま居合わせた昇が取り押さえて通報したのよ」
「…… あ」
と、声を上げたのは、八千代だ。
「あの話、その四辻だったの?」
「そう。実はね」
はー、とため息だか感心だかつかない声を上げる八千代を、長尾と籠澤は見つめた。
さっぱり状況が分かっていない二人に、再び八千代が説明を加える。
「高校のときに、昇おじさんがちょっと怪我をして帰ってきたことがあってね。
入院するほどではないんだけど、明らかにどこかに転んだとか、どこかにぶつけたとかじゃなさそうな怪我で、びっくりしてどうしたの、て聞いたことがあったんだ。
ちょっと喧嘩して、ておじさんは言ってたけど、わたし、まさかおじさんが誰かと殴り合うようなことをするとは思えなくて」
確かに、これまで聞いてきた昇の人物像からは、もっともかけ離れた状況下のように聞こえた。
長尾も、今の八千代の驚きが分かる気がする。
「しずちゃんは、それが四辻でだったとは、知らなかったみたいだけど」
「うん…… なにか暈されたような気もしたし、なにより驚いてそれ以上は聞けてなかったな。
男の人って、女の子にあんまりそういうこと、話したくない感じなのかな?」
逆に八千代に問い返され、この場の男性代表二人は顔を見合わせた。
「まあ…… 状況下によるとも思うけど、長尾にならともかく、しずちゃんに意気揚々と話す気もしないかなあ」
概ね同じ意見を長尾も抱いていた。同性にならまだ話しやすいが、女の子に、ましてや八千代のような静かな子に暴力沙汰の詳しいところは話しにくい。それが、たとえ誰かを救ったものであっても─── ?
やっぱりそうなんだ、と八千代は少し残念そうな響きで呟く。
あの四辻で、昇を巻き込んだ事件は起きていた。
だが、それだけでは
「あの」
長尾は十重へ尋ねた。
「取り押さえた相手は、その…… 無事ではあるのですか?」
言いにくそうな雰囲気であるものの、長尾はそのまま質問をした。八千代が驚いて瞬きをする。
つまり、あの四辻で死んだ人間はいなかったか、と聞いたのだ。
「ええ。相手も負傷はしたけども命に関わるものではなくてね。
一瞬過剰防衛にもなりかけたけども…… 相手もナイフを持っていたみたいで。
昇の方も幸い、という感じで、結構危なかったのよね」
一歩間違えれば悲劇だったのだ。
状況の深刻さに、三人はそれぞれ言葉もなくお互いを見回した。まさかこんな衝撃的な事件があったとは思わなかったし、あの四辻と縁ができた。
「その犯人の男なんだけど」
これで終わりかと思いきや、十重の話は続いていた。
切り出した彼女は、しかしその次の言葉まで少し時間を要しているようだ。
「…… 以前、私の付きまといをしていた男なの」
これまでとは別の角度から、三人は衝撃を受けた。
籠澤は反射的に八千代を見た。自分たちの中で一番驚いているだろうからだ。
予想通り、八千代は片手で口元を覆いながら、母親を見つめていた。
「だから、昇も余計に頭に来ていたんだと思う。
美羽ちゃんの話が本当なら、きっとそういう由来があるんじゃないかな」
一番身近な家族を傷つけようとした相手ならば。
長尾は十重を見据えた。
だが、それでもまだ、長尾の中には消化しきれていない靄がたちこめていた。
しかし、今はそれよりも。
「その男は、今はどうしているんですか。
服役をしているとか」
「いいえ。残念だけど。
でも当時、男のご両親と直談判していて、親元で監視することを条件に和解しているの。
定期的にご両親からは連絡を貰っていてね。仮に何かあれば、連絡が入るようにしているわ」
心配して尋ねた長尾は、逆に十重のメンタルに脱帽した。
普通は、両親からとはいえ、自分にトラウマを与えたかもしれない相手の状況など知りたいと思うだろうか。
十重はずっと心配そうに見つめている八千代へ笑いかけた。
「だから心配はないわ。最寄りの交番の方へも相談をしていて、事情を知ってる。
大丈夫よ」
テーブルに置かれた八千代の手をギュッと握った。
八千代も、その手を握り返しながら、なんとか笑い返した。
「わたし、全然知らなかった。そんなことがあったんだね」
「当時、この件に関しては昇が全部やっちゃったからね。
しずくは怖がりだから、こんな話をしたら怯えちゃうから黙っていよう、て話してたのよ」
「えええ、そんな弱虫じゃないよ」
はは、と八千代は恥ずかしそうに笑う。そんな娘を、十重は柔らかな笑みで見つめた。
それから長尾と籠澤を振り返る。
「この話はこれで終わり。聞いてくれてありがとうね、二人とも。
真っすぐと、十重は二人を見据えた。
あの四辻で、昇を巻き込んだ事件が起きていた。
それは十重に付きまといをしていた男が別の女性を襲いかけたところを、昇が止めに入った事件だった。
昇は負傷し、相手も負傷した。
だが、誰一人として死んではいない───
あの気配に、それで理由が付くだろうか。
長尾は顎に手を掛けそうになるのを、辛うじて耐えた。その仕草さえ、この場では躊躇われたのだ。
話は終わった。これ以上は何もない。
目の前の十重は言外にそれを明示している。
彼女は無言のうちに、二人に言っているのだ。
『だからこれ以上、この件を探るな』と。