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第14話

 中華料理店からいつものように頂いたレバニラ炒めを皿に取り分けていると、後ろから籠澤が声を掛けた。


「しずちゃん、今度四辻の方に供花に行くって」


 振り返ると、スマートフォンを片手に箸を並べかけている状態の籠澤だ。

 美羽から事情を聞いただろう昨日から一日。美羽からどのように話を聞いたのか、詳しくは聞いていないが、彼女なりに受け止めたのだろう。


「事故があったわけでもないから、花は回収した方がいいよとは伝えといた」

「ああ、そうだな」


 確かに、と長尾は頷いた。

 事情を知らない人が見たら、いい気持ちになるものでもない。

 籠澤のアドバイスに、八千代からは素直な返信があったようだ。


「八千代さん、昼間に行くんだよな」


 レバニラ炒めの皿を籠澤へ手渡しながら、長尾は確認した。

 もちろんと籠澤は頷く。


「夜は現実的に危険だからな。

 ただ、怪異の起きるタイミングがなあ……」


 皿を受け取った籠澤は、うーんと唸りながらテーブルへと戻っていく。

 そう。最初に美羽が怪異『昇』に遭遇したのが21時頃と聞いていたのだが、先日長尾が遭遇したのは日付を跨いだ後だ。

 時間は関係ない。ということは、何を起因に発生しているのだろう。


「幽霊になると、時間感覚が無くなるのかな」

「幽霊になったことも、知り合いもいないからな……」


 臭みは無いがボリュームはある豚レバーを頬張りながら、長尾は至極真面目な様子で答えた。この友人は真面目が一周して面白い奴なのだなと、籠澤は実感する。

 八千代の家を訪ねてから、今日が最初の中華料理店のバイトであったのだが、長尾が「アドバイスありがとうございました。相手も喜んでました」と伝えたところ、「いいってことよ!」と店主も嬉しそうだったと聞いた。

 誤解が深まっていく前にお店を訪れた方が良さそうな気はしたが、かと言ってどう切り出したものだろうと籠澤は悩んでいる。


「綺麗に根拠というか、怪異の理屈が通ってしまっているのに、そこだけ何か引っかかるんだよな。

 昇さんの怒りに触れていることを、無意識にしてしまっているとか」


 二人の疑問はそこだった。

『昇』が現れるタイミング─── 起因。

 それほど怪異現象に詳しくない二人なので、「そういうもんだ」と言われれば納得できないこともないのだが、ほかのことが綺麗に収まっている分、その部分だけはみ出てしまっているようにも感じるのだ。


「怒り……」


 独り言のように、長尾が呟く。

 そして彼には、起因と並んでもう一つ腑に落ちないことがある。


「娘同然の子に襲い掛かった相手に怒るにしては、少し……」


 言葉を濁す。身の内に表現できる語彙が足りていないのはある。

 あるが、それ以上に、端的に言ってしまえば「怖ろしい」のだ。


「話しに聞いている昇さんとは、あまりにかけ離れていて。

 本当に昇さんなんだろうかと、信じられないんだ」

「でも、長尾は昇さんだと思ったし、しずちゃんを呼んでいる声も聞いているんだよな?」

「そうなんだが。

 ─── 人とは思えない、というか」


 ふむと、籠澤はレンゲを置いた。


「前の─── 呪いのような感触か?」


 人の形をした呪いを、二人は見ていた。

 その呪いの性質から、あまりそこへ思いを馳せたくはなかったが、長尾は記憶を辿る。

 異質なものから名前を呼ばれる、あの感覚。


「…… いや、あれとも違うと思う。八千代さんの名前を呼んだ声は、温度があったような気もするし。

 難しい、なんて言えばいいんだろう。

 人であって、人で無いような」


 長尾の言葉を、籠澤は遮らずに待った。

 四辻の暗闇を思い出す。道が繋がっているようで、閉ざされているあの───


「切り離された、ような」


 そう呟いて、長尾はそれがひどくしっくりと来ると感じた。

 だが、目の前の籠澤は首を傾げてしまっている。この感覚を伝えるのは難しそうだ。


「もう一度だけ、行ってみたい。

 一回目よりも二回目の方が情報量が多かったから、三回目はより詳細に分かるかもしれない」


 などと、長尾は言い出す。

 籠澤はもうこっくりと頷くのだ。


「俺は知ってるんだ。こういうときの長尾は、俺には止められない」


 手綱を放り投げることはしないが、引っ張ることは諦めた模様だ。




 再三の四辻は、相変わらず異質な空気を保っていた。

 昼間に『昇』が現れるのか分からない以上、実績のある夜間に来るしかないのだが、それでテンションが上がるわけでもない。

 これまで幸いに長尾に目立った異変はないが、今後もそうとは限らないと、籠澤は胸のうちで自戒する。

 梓葉は「そばにいてやれ」とは言うが、傍にいるだけでいいのか背中を撫でてやったりした方がいいのか、自分のとるべき行動が定かではない。

 籠澤は四辻の交差点に佇む長尾を見つめた。

 せめて、呼ばれたら駆けつけられるように、見逃さないように。


 長尾は交差点から、いつもの方向を見つめた。

 ここから見える電灯の数を目安にしようと考えている。三つ目より先の電灯が見えなくなったら、異変の兆し。

 じっと闇に目を凝らしていると、少し感覚も狂うような気がした。視界の奥で何かが揺らいだような、気のせいなような。

 だんだんと幕を下ろすように、あるいは奥から暗闇が這いよるように。

 ─── 三つ目の電灯が、呑まれた。

 闇の切っ先が揺れる。


 、そこに『昇』がいた。

 酷い形相だ。憎しみを煮詰めたら、およそそんな形をしているのだろうか。

 長尾は知らず顔を顰めていた。彼の微笑んだ顔を知っている分、見るに堪えない気持ちがある。

 そのイメージが投影されたのかと思った。

『昇』の形がブレる瞬間、微笑みが差し込まれた。あの優しい写真の。

 長尾はハッと目を見開いたが、しかしそれは束の間、削がれたように落ちて、憎悪が再び形作られる。

 手に黒い棒を持っているように見えた。警棒を使ったと美羽は言っていたか。

 だが、それはもはや警棒ではなく、手の一部と癒着している。

 あと二、三歩で長尾に届くところで、『昇』はその腕を振り上げた。


 しずくを呼ぶ声が聞こえる─── はずだった。


 酷いノイズとともに、長尾の肩口目掛けて黒い一閃が振り下ろされた。

 痛みはなかった。ただあまりに、あまりに冷たかった。

 思わず逆の手で肩を押さえる。「長尾!」と驚いた籠澤が走ってくる。

 ハッと長尾は顔を上げたが、そこに『昇』の影は無かった。


「これが全部なのか」


 思えば最後まで怪異を見届けたことは無かった。

 駆けつけた籠澤が、押さえた肩を心配そうに見ている。

 大丈夫だと籠澤の方へ振り向こうとして───

 長尾は暗闇を凝視した。

 、そこに『昇』がいた。

 酷い形相だ。憎しみを煮詰めたら、およそそんな形をしているのだろう。

 長尾の背筋に寒気が走った。繰り返された。繰り返されたのだが。

『昇』はもう人の形を成していない。

 どこが肩なのか、どこが手なのか、足が、いやあれは足なのか、辛うじて人の真似をするように歩行する。

 ただあの剥き出しの乾いた両目だけが、変わらずに長尾を見つめていた。


 長尾は耐えきれずに両手で目を覆った。あまりに───


「籠澤……!」


 か細い悲鳴だった。

 だが、それで十分だった。

 籠澤は突き動かされるように、長尾が見つめていた暗闇を振り返った。




 まるで最初から、異変などなかったように、静かな夜の気配が流れている。

 清廉でさえある澄んだ空気だ。

 呆然と長尾は手を外し、切り替わってしまった夜を見た。

 こんな造作もなく、という言葉の通り気のせいだったかのように、密閉された空間は跡形もなく消え去っていた。

 捻じれた四辻はただ捻じれているだけで、交差の先に道が続いている。

 これが梓葉の言っていた「清浄化」なのか。


 傍らを見ると、まったく状況を把握出来てなさそうな籠澤が、きょろきょろと警戒するように辺りを見回している。

 やがてその視線が、長尾を捉え、ギョッと驚いた顔をした。


「長尾、えっと」


 困惑する籠澤が、自分の頬を指す。はた、と長尾も気づき、頬に手を当てた。

 掌が濡れる。泣いていたのだ。


 あの、乾いた双眸と目が合った瞬間、長尾に溢れたのは恐怖ではなかった。

 あまりに、哀しかったのだ。


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