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市民プール 一

 蓮はその日、かなり早めに部屋を出た。少し大きめの鞄を肩にかけて、廊下をソワソワしながら行く。食道でお茶漬けを掻き込んで、ぼんやりとテーブルを眺める。そこに雪音が来たので、そそくさと寮からも出た。


 スマートフォンの時計を見ると、午前六時三十五分。ランニングを終えた風間とばったり出会った。顔に残る火傷跡は見慣れたが、やたら高い身長から見下ろされることは慣れなかった。


「お前にしては早いな。何かあるのか?」

「……別に」

「? そうか。飯は食ったか」

「親父かよ」


 その横を通り過ぎ、ベンチに腰掛けた。朝日はとうに昇っている。脚を伸ばして空を眺めている内に、時間はあっという間に過ぎて行った。


「蓮?」


 白いワンピースの雪音が、ボストンバッグ片手に話しかけてきた。青いTシャツ姿の彼は、その顔を直視しないまま、


「……行くか」


 と言った。時刻は八時半。


 どちらとも話し出すことができず、無言のままに鳥居を潜って山を下りた。大して高い山でないことが幸いした。遠くで輝く太陽に照らされながら、麓までやってきた。


「バスは十五分後ですね」

「ん……そうだな」


 蓮が時刻表を眺めたのは、雪音の顔を見られなかったからだ。


「血のことを知って、まだ戦うつもりですか」

「血のこと?」

「毒です。私の血を取り込むことで蓄積する、毒」

「ああ……痛い思いをするのは怖くねえよ。慣れてる。それによ、目の前に助けたい人間がいるのに、痛いのが嫌だから何もしませんでした……ってのはダセーじゃん」


 ダサいだとか、カッコいいだとか、そういうことのために命を賭けられる思考回路を、雪音は持ち合わせていない。


「感謝してるよ。俺のせいで死んだ人もいるけど、この力がなかったら風間とめかぶが死んでたかもしれない。ま、俺以外の誰かが夜海原使ってたかもしれねえけどさ」


 それでも目の前にいるこの少年が、誰かのためにという、ただそれだけで危険に身を晒すことができるという事実だけは、しっかりと受け止めていた。


 正解だった、と思いながら彼女は蓮の手を握った。


「少し、こうさせてください」


 もぞもぞと手を動かし、指を絡める。


「出会った時、ここまであなたが生きるとは思っていませんでした」

「いきなり辛辣だな……」

「巻き込んだ以上、どんな誹りを受ける覚悟もしていましたが……あなたは生き延びて、私を恨みもしなかった。それどころか、こうして一緒にいてくれる。私こそ、感謝するべきです」


 女の柔らかさを感じていた蓮は、その言葉をどれほど理解できたか。しかし、感情は伝わった。


「私の隣、寝づらくはないですか」

「慣れた。いっそ向き合いながら寝るか?」

「いいですよ」


 ほんの冗談のつもりで言った彼は、真っ直ぐに見つめてくる相手を見てどぎまぎしてしまった。


「抱いた抱かれたの仲です。今更そんなことで動揺しませんよ」

「そりゃそうだけどさ……」


 居た堪れない気持ちになっていた彼の前に、バスが来る。当たり前のように隣に座って頭を肩に乗せてくる、雪音。


「私は、いつまでもあなたの傍にいますよ」


 惚れられるようなことをしたっけなあ、と思いつつ、バスに揺られる蓮であった。


 車が停止したのは、『市民プール前』のバス停。蓮が簡単に受付を済ませ、雪音を呼んだ。


「慣れてるんですね」

「ま、毎年来てたからな。雪音はこういうとこ初めてか?」

「そうですね。学校で泳いだことがある程度です」

「じゃ、俺から離れんなよ。結構人多いから」


 ちょうどそれを言い終わったタイミングで更衣室へ。適当なロッカーを開ける彼に、近づく人がいた。


「おい、八鷹!」


 精悍な顔立ちの少年だ。


「井沢じゃん。元気?」

「いつだってビンビンだ──いや、それよりお前、松雲に転校したってマジかよ」

「あー……ほら、隠された能力が目覚めたっていうか? そんな感じで特科に行くことになったんだよ」


 信じられない、と顔で語る井沢は、いきなり蓮の肩を掴んだ。


「どんな能力あるんだ。こっそり見せてくれよ」

「ほいほい使えねよ、結構大変なんだぜ」

「チエッ」


 ボクサータイプの水着に着替えた彼は、井沢と話しながらプールへ。


「なるほど、その腕輪に秘密があるんだな?」


 有事に備えて外せない夜海原。腰には防水のポーチが巻いてある。


「さて、どうだか。披露しないのが一番だ」

「それもそうか、頼んだぜ、特科のヒーローさん」


 小突きあっている少年二人。そこに、


「蓮!」


 と細い声が飛んだ。雪音だ。


「こっちこっち!」


 手を振って呼び寄せる彼を、井沢は驚愕の表情で見ていた。


「……彼女?」

「いや──まあ──えっと──そう説明するのが、一番わかりやすいな」

「裏切者があ!」


 井沢は速足で蓮から離れていった。プールサイドでは走らない。それは、当たり前のルールだ。


「今のは?」

「前のクラスメイト。結構仲良かったんだけど……絶縁かもな」


 その原因が自分にあることを、雪音は察することができなかった。


 一方の蓮は、少し安心していた。相手が普通のスクール水着だからだ。これが攻めたビキニなどであれば、まともではいられなかった。


「さ、行きますよ」


 流れるように彼女は手を取り、歩き出す。


「手繋ぐのは──」

「離れるな、と言ったのはあなたでしょう?」


 言い返せず、二人はそのまま屋外プールへ向かった。水を掛け合い、少し泳ぎ、またじゃれる。それを繰り返すうちに時間は矢のように過ぎていった。


 一旦上がって、プールサイドに腰掛けた。


「中学の間はどこにいたんだ?」

「京都です。普通に学生をやる傍ら、奥平さんと一緒に開発に携わっていました」

「京都、か。行ったことねえや」

「いつか行きませんか? 今もこうして監視がつくような状態ですが、いつかは」


 監視、という言葉を聞いて彼は霊力探知を試みた。一般人にしては大きな反応が、幾つか。


「全然気づかなかったぜ」

「全く……脇が甘いですね」


 そこが当然自分の居場所だと言わんばかりに、彼女は指を絡ませる。


「本当は、聞こえていたんです」


 少しずつ距離を詰め、小さな体を蓮に預ける。


「これからもよろしくお願いしますね、彼氏さん」


 顔が真っ赤になっていくのを、彼自身感じていた。


「こういうの聞くの、下品かもしれないんだけどさ。ヤッた時、満足できたか?」


 小さめの声で恥ずかし気に問う。


「秘密です」


 耳の先まで赤くして、二人は暫し喧騒の中に心を沈めた。





 市民プールは、丘の麓にある。その丘は森林公園となっており、ハイキングを楽しむ人間たちがちらほらと。


 その中で、青い服の中年女性が、プールを見下ろしていた。


「オータム、聞こえるね」


 ヘッドセットで会話しながら、オータム──慧渡秋野は、にやりと笑った。やはり、腕は覆われている。


「全員始末していいのでしょう?」

「手早く夜海原を手に入れた後、でね。雪音を監視してる者もいるだろう? そううまくはいかない」

「ですが、時間はかかりませんよ。人質でも取れば、蓮は簡単に動けなくなります」

「その間君も動けなくなる。正面突破が一番簡単だよ」


 彼女は、自分の影が揺らめくのを感じた。動きたがっているのだ。


「ああ、飼い犬たちが暴れ出しそうです。色好い返事を持ち帰ります」

「頼んだよ」


 ヘッドセットの電源を落そうとした彼女を、


「ああ、そうだ」


 の声が呼び止める。


「八鷹蓮はスサノヲの断片を取り込んだ。今までとは馬力が違うと思う。出し惜しみをしてはいけないよ」

「ええ、重々承知しております……これは予行演習です。ご安心を」


 彼女の影から、十体ほどの犬型妖魔と、背丈が三メートル近い鬼のような妖魔が現れた。


「戴冠式の練習をするつもりで来たけれど……こうもピースが揃うとは。夜海原、貰っていくよ」

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