めかぶの転校は、一か月後だった。迂闊に力は使わない。見せびらかしもしない。誰も、信じてはならない。そう誓って、挨拶も最小限に留めた。
「なんか感じ悪いね」
囁く声が聞こえてきた。勝手に言っていればいい、と受け流す。一番端の席で授業を受ける。帰ろう、という時に担任に呼び出され、空き教室で面談をした。
「君が前にいた村の人から聞いたんだけど……お金を盗んだって噂、本当かい?」
「違います」
どうせこいつも同じだ──そう思って、それ以上の会話はしなかった。校門に差し掛かった時、これまた同じような同級生の女グループに絡まれた。三十人もいるゴミの名前も顔も覚えていないが、何となく見覚えがあった。
「ほら、あんた、お金出せるんでしょ? 出しなよ」
無視して、通り抜けようとする。肩を掴まれる。
「無視? 挨拶の時も思ったけど、もしかして訛ってるの隠したくて喋んないの?」
「離してくれませんか」
めかぶの腹の底で、何かが湧いた。燃え盛る炎のようであり、冷たく透き通った水のようでもあった。
そして、それは意地の悪い同級生たちにも伝わった。
「な、なに? 喧嘩すんの? 通報するよ?」
怯え始めた、自分より大きな同級生たち。
「離して、ください」
睨め付ければ、彼女らは踵を返した。
足を踏み鳴らすように歩き、少し離れた家へ。アパートの一室だ。
「ただいま」
力のない声で帰宅を告げた彼女を待っていたのは、冷たい汗を流す父だった。
「お父さん?」
「■■、落ち着いて聞くんだ。母さんとおばあちゃんが、死んだ」
頭のてっぺんから足の先まで、凍り付いたように動かなくなる。
「なんで?」
消え入りそうな声音は、最早吐息と区別がつかなかった。
「火事になったんだ。原因はわからないけど……」
「殺されたんだ」
自分が言おうとしていることを精査することもなく、彼女は口にした。
「きっと火を点けられたんだよ。おばあちゃんが料理に失敗するわけないもん」
「■■、そういうことは軽々しく言うんじゃない。とにかく、いろんな手続きは父さんがやるから、普通に生活しなさい」
普通。普通とは、なんだ。母親と祖母を喪って生活することが普通なはずがない。
「お葬式の準備は父さんが進める。決まったらまた言うから、特別なことはしなくていいよ」
固まっていた体が、漸く震え出した。
結局、火事の原因は放火によるものだと判明し、四年後の判決で無期懲役が言い渡された。だが、それでめかぶの心が晴れたわけではない。単純な、金を盗んだ一家が平然と暮らしているのがムカつく、という動機が、更なる影となった。
中学生三年になる頃、彼女は、札付きの不良となってしまった。喧嘩は日常茶飯事。手を出したが最後、勝てない。
無論、自分から喧嘩を仕掛けることはない。他人の悪行への介入や、反抗的な態度をとる彼女への制裁などが原因だ。
霊力操作を無意識的に習得した彼女が、ただの人間に負けるはずがなかった。ただ殴られた蹴られたではダメージが入らず、逆に殴られる方は通常の打撃を遥かに上回る攻撃を受ける。
卒業を間近に控えた冬。彼女の前に、“彼”が現れた。
「君が、■■ちゃんか」
オールバックで、百八十センチを超える背丈から見下ろしてくる、一見すると怪しい男。
「僕は鳳躍。スカウトに来た」
「モデルとか興味ないんで」
自転車を押して去ろうとした彼女だが、突如タイヤが回らなくなる。
「いやいや、もっと君に似合ったことだよ……特科に来ないか」
特科。名前は知っていた。
「君は霊力を扱える。独学でここまで制御できる人間は貴重だ。どうだい、君の力で、困ってる人を救わないか」
「信じられません」
その言葉に、躍は微笑む。続いて、警察手帳を出した。
「これでいいかな。S県警霊災対策一課第二小隊隊長、鳳躍。松雲学院高等部特科に、君を迎えたい」
「……父と話します」
「いや、話は通してある。君が頷くかどうかだ」
少し、めかぶは黙った。
「母と祖母は、悪意に殺されました。そういう人を、減らせますか」
「君が強くなれば、できるかもしれないね」
「どうすれば、強くなれますか」
「僕と一緒に来れば、幾らでも強くしてあげる」
俯く。
「……行きます」
ニヤリ、躍は口角を上げた。
「私、行きます。どんな修行だってします。だから、強くしてください」
「よし決まりだ! 安心して、ぜーんぶタダだから」
笑って場を明るくしようとする躍の素振りが、めかぶの心に却って影を落とした。
春が来て、桜が咲く頃。彼女の家を躍が訪れていた。
「ん~、名前変えようか」
と提案したのは躍。
「名前が知られすぎているからね。どうだ、氷川めかぶっていうのは」
「めかぶって……ふざけてるんですか?」
「マジマジ、大マジ。名は体を表すって言うだろ? ちょっと間抜けなくらいでちょうどいいんだから」
「間抜けになってほしいんですか?」
「僕かたっくるしいの嫌だもん。もう一人の一年は結構な堅物だからね、ちょっと緩いくらいでいいのさ」
ちらり、彼女は隣の父を見た。
「娘を、頼みます」
深く頭を下げた彼を見て、躍は少し真面目な顔をした。
「この先、■■──いや、めかぶは、いろんな壁にぶつかる。でも、死なせない。絶対にね」
そう言って、躍は立ち上がった。
「行くよ、氷川めかぶ」
めかぶは、大きな荷物を持って家を出た。
鳥居を潜り、女子寮へ。荷解きをしていると、来客があった。
「あなたが、氷川めかぶ様ですね?」
「はあ……」
冷たい空気を纏った、優し気な少女。
「私は紫雲院茉莉花。二年です」
「そうですか」
「手合わせ、願えますか?」
「はい?」
これまで生きていた十五年の中で、手合わせという言葉を聞いたのはこれが初めてだった。
「手合わせです。随分と喧嘩がお強いのでしょう? 実力のほどを見たいのです」
ふうわりとした雰囲気に見合わぬ、その闘志を秘めた瞳。
「怪我しても知りませんよ」
冷たく言っためかぶは、容易く床に転がった。
膂力には自信があった。だが、自分と茉莉花を隔てる氷の壁は砕けなかった。何度打っても、拳が冷えて血が出るばかり。今は、こうして寝転んでいる。
「霊力の操作に無駄が多いですね。独学……というより喧嘩殺法と申し上げるべきですか。入学式までに基礎的な肉体強化をお教えいたしますよ」
「……なぜ、私に構うんですか」
「異能の世界は残酷です。どんな才能も、運が少し悪いだけで潰れてしまう。しかし、実力があれば、その不運を跳ね返せる確率は上がる。あなたに、その才能を見出しました」
茉莉花は壁を消し、めかぶの手を掴む。還形術で元通りだ。
「私は紫雲院家……異能の世界において三つの指に入る家の人間です。受け継がれてきた氷の力も有している。言ってしまえば、持っている側なのですよ。だからこそ、この世界に踏み込んでくる者の未来を、拓きたい」
「人間は醜いものだと、私は知っています。少しの噂で、人を傷つけ、大事なものを奪い、剰え殺すもの。あなたもそうなのではないですか」
「好きにお思いになってください。私が口先で何を言ったとして、すぐに響くほど浅い闇ではないでしょうから」
体を起こしためかぶは、茉莉花と目が合った。
「めかぶ様、よろしいですか? あなたはこれから大勢の命を救うことになるのです。まず必要なのは、人を信じること。そのために、少しずつでも前に進まねばなりません」
細い涙が、めかぶの頬を流れて落ちた。
「私も、人の浅ましさは知っているつもりです。力を制御できず、何度も人を傷つけ、その度に衝突がありました。そして、多くの蔑視と敵意を受けました。それでも、仲間はいます。見つけることです」
茉莉花は立ち上がり、背を向けた。
その日から、短い春休みは特訓の日々となった。霊力による身体能力の向上を、より精確に。召喚できるものとそうでないものの条件を明確に。その日々の中で、めかぶは茉莉花のことをこう呼んだ。
「茉莉花姉さま!」
と。