風間はペンを置いた。任務を終え戻ってきて、まずやることは手紙を書くことだった。だが、行き詰って、文章が浮かばなくなる。椅子の上で、目を閉じてみた。封筒には、紫原木菫という名前が。
◆
以前書いたように、慧渡家はM市に古くより住まう名家である。平安の時代、各地より集められた異能者が己が強さを競い合った、禍討の儀で四位になってしまったが、それでも格は高い。
M市はHを九十度横に倒した形をしている。慧渡家の屋敷は、縦棒の北端に位置していた。そこで、一つの命が産まれた。
「あなた、名前は決めた?」
「風間。僕の間と、風だ」
そう言ったのは、
次男の子とはいえ、宗家に男児が誕生した事実は、慧渡家の親戚中に知れ渡った。代わる代わるM市の屋敷を訪れては、風間を祝福して去っていく。その記憶は、彼には当然ない。
五歳。風間は秋野に師事した。とは言っても自主的なものではなく、宗家嫡男としての義務だった。
「感じるよ、風間には使鬼が受け継がれている」
「なんで?」
「使鬼持ち同士は、相手の中に力が宿っているかを感じ取ることができる。この感覚に、間違いはないんだ」
まだまだ小さい甥の前にしゃがみ込んで、彼女はその手を握った。
「君に一つ、妖魔を渡すよう頼まれている。力を受け継ぐ覚悟はあるかい?」
覚悟という言葉の意味を、風間は知らない。だが、頷いた。
「三影犬。江戸時代の初めに手に入ったという妖魔だ。上手く使うんだよ」
彼は、影が重くなったように感じた。
「出してごらん」
「どうすれば……」
「名前を呼ぶんだ。三影犬、とね」
「さんえーけん!」
影が蠢いて、三匹の犬が呼び出される。炎のように輪郭は揺らめいていて、不定形だ。
「それをうまく使って、強くなるんだ。いいね?」
またも、彼は頷いた。
そこから、鍛錬の日々が始まった。時に刀を振り、時に新たな妖魔を貸し出される。
はっきり言って、小学校では彼は浮いていた。自分が強者であることへの驕り。事実、喧嘩をして負けることはないが、それ以上に家に染み付いた特権階級という高慢な感情に染まっていたのだ。
いや、家の、というより秋野の、というべきか。持つ者。守る側。命を取捨選択できる強さ。そういう自惚れを持った秋野の下にいる故に、風間にもそれが伝染してしまった。
そんな彼は、母に呼び出された。朱鷺はいつも奥の座敷にいる。
「母様、いかがしましたか」
「学校から連絡がありました。使鬼の力を使って、他の子を脅かしているそうですね」
「僕は上に立つ人間です」
「それは傲慢と言うのですよ。間史人さんは、力を自分のために使うことはありません。あなたもそのような人間にならなければいけないのです」
不服。子供にはわからない論理だった。強ければいいじゃないか、と。
「今すぐに受け入れろ、とは言いません。ですが、約束をしてもらいます。あなたの力は、誰かのために使うのだと」
そっと、朱鷺は小指を差し出した。それに風間は小指を絡ませ、確と結んだ。
「あなたはこの先、大勢の人の命を救うのです。しっかりと、自分を律しなさいな」
朱鷺は、幼子には難しい言葉を使う。そのせいで風間には半分も伝わらない。しかし、彼は感情を理解した。
そのことを、秋野に話した。
「義姉さんはそういう所があるね。自分を制御しろ、誰かのために戦え。そればっかりじゃつまらないだろう? もっと自由になっていい」
「自由……」
犬を嗾け、的を破壊する。和弓を引く。刀の使い方を覚える。人の殴り方を知る。背もぐんぐん伸びていく風間は、あっという間に強くなった。小学校を卒業する頃には、もう背丈は百八十センチを超えていたのだ。
「ねえ、風間くん」
中学初日、隣になった女子に話しかけられた。丸っこい目が随分と愛らしく、女慣れなど全くしてない風間はそれだけで顔を赤くした。
「風間くんってさ、喧嘩強いんでしょ」
小学校の内から霊力操作を叩き込まれた彼は、当たり前のように強かった。気に入らない人間は叩き潰し、カーストの一番高いところでふんぞり返っていた。
「別に……なんでもいいだろ」
「護身術みたいなの教えてよ。クラスの男子全員のしたんでしょ?」
「特別な訓練を受けてるんだ。ほいほい話すわけにはいかない」
「いいじゃん、ちょっとくらい」
ずいずいと顔を近づけてくる彼女に負けて、風間は首を縦に振った。
「あたし陽子。よろしくね」
放課後、体育館の裏で二人は特訓を始めた。しかし、風間も馬鹿ではない。霊力操作を多少扱えるようにするだけだ。いざという時に生存確率を少しだけ上げるような、たったそれだけ。
「しかし、なんで護身術なんだ」
「ストーカーいるんだよね。ほら、あたし可愛いから」
「一緒に帰ってやろうか」
拳に霊力を流す程度のことはできるようになった陽子は、その一言を聞いて微笑んだ。
「好きなの? あたしのこと」
「別に。ただ、困ってるって知ってて何もしないのは気分が悪い」
陽子が、彼の手を取る。
「じゃ、これからあたしをエスコートしてよね、ナイトさん」
夕暮れの道を、二人で歩く。彼の霊力探知は、常に背後に着く男を捉えていた。道路のミラーで見れば、丸眼鏡をかけた陰気そうな男。だが、関わらない方が安全だろう、どうせ何もできやしない、と判断してそれは告げなかった。
名家の跡取りとして、そして将来特科に入ることを前提として、彼は中学に松雲を選んだ。高い学費は異能者として一般家庭とは比べ物にならない稼ぎを得ている父が苦も無く払い、受験勉強もとびっきりいい家庭教師がついていた。
「風間くんはさ、ボンボンなんだよね」
「まあ……そうなるか」
「慧渡家って有名だもん。お金持ちで、不思議な力がある。風間くんもそうなんでしょ?」
「そうだな。見るか?」
「え! 見たい見たい!」
人の目が少ない通りに入って、彼はそっと呟く。三影犬、と。
「すっごーい! 触っていい?」
「好きにしろ」
ふわふわな手触りを期待した彼女は、液体のような感触が伝わってきたことに顔を渋くした。
「なんか違う」
「そもそも妖魔だ。普通の犬じゃない」
呆れ気味に犬を消し、大通りに出た。やはり、いる。
「どうしたの?」
「気にするな」
そういう日々が、二か月ほど続いた。傍から見れば付き合っているようでさえあったろう。実際、風間はそういう気分にもなっていた。
「特科って知ってる?」
「ああ。俺は特科に行く」
「大学は?」
「それから考える」
淡々とした受け答えを聞き、夕陽は特に理由もなく風間の背中を叩いた。
「あたしは普通科行くからさ、卒業するまで一杯思い出作ろうよ」
「いつでも会えるだろ。この街から出るわけでもない」
「ちえっ。連れないの」
笑い合った。幸せだった。風間も周囲に馴染んできた。家に帰った後も、遅くまで陽子と話すことがあった。
「女に現を抜かしているんじゃないかい?」
だが、少し弱くなった。秋野の竹刀に打たれ、彼は腰を抜かす。
「青春は大事さ。でも、君は強くならなきゃならない。だろう?」
「……わかってます、叔母さん」
何のために、という問いは彼の中になかった。使鬼を継ぐ者として、血に相応しくあるために──それだけだった。
ある日、梅雨が終わりに差し掛かり、夏が始まろうという頃。風間は委員会のことで少し残ることになった。
「陽子。先に帰っててくれ」
教室を出る前に、彼はそう言った。
「はいはーい。風間くんも、暗いところは気を付けなよ」
何でもない会話だった。意識もしていなかった。だが、これが、二人の交わした最後の言葉だった。風間の人生を決定づける、一つの出来事が起こり、彼女を奪ってしまった。