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風間ルック・バック 二

 暑中。中学最初の夏休みだったが、風間は力なく寝転んでいた。


(俺のせいだ)


 涙は出てこない。


(俺が、俺が!)





 梅雨も終わる頃、風間は委員会の用事で陽子だけを先に返した。なんてことのない通学路を歩き、見慣れた交差点に立った時、横断歩道の向こうにナイフを持った少年を見た。


 そっとスマートフォンに手を伸ばした時、気づく。丸眼鏡、陰気そうな雰囲気。


(こいつ、陽子のストーカーか!)


 信号が青になった瞬間、男は走り寄ってくる。刃先から血が滴り、白線に赤い汚れを作る。


「三影──」


 言い切る前に、白刃が風間の鼻先まで一寸という所を過ぎていった。


(速い! 霊力を使えるのか⁉)


 まだ、彼は好きに武器を使える立場ではない。肉弾戦でどうにかしなければならない現実に、舌打ち一つ。


 全身に霊力を流し、ナイフの動きを見切る。車に轢かれることのないよう、掴んだ左腕を強く引っ張る。


 バランスを崩して倒れた男に伸し掛かり、右肘を極めた。


「誰をやった!」

「ヘ、ヘヘヘ、言うもんかよ……へへ」


 騒ぎを見た誰かが通報し、すぐ警察が来た。最悪の事実が浮かび上がるまで、そう時間はかからなかった。


「死んだ……?」

「ええ。陽子さんは、あの男に乱暴された挙句、何度も刺され……と警察の方が」


 拘束させることもなく家に帰された彼に、使用人がそう告げた。


「嘘だ」

「本当でございます。救急隊が駆け付けた時には、息を引き取っておられたと……」


 離れにある風間の部屋に、シャープペンシルの落ちる音。


「殺せばよかった」


 言葉が精査されず、口から出る。


「あの男を殺せばよかった」

「風間様、そのようなことは……」

「俺のせいなんだ。俺が一人で帰したから! だったら、俺が男を地獄に叩き込まなきゃいけなかったんだ!」


 頭を抱え、蹲る。一晩中、泣き通した。


 明くる日、彼は秋野へ我武者羅に向かった。振り回した竹刀の一発も当たることはなく、ただ疲弊するだけだった。投げ飛ばされて、床に倒れる。


「風間。気持ちはわかる。だがね、それでは死んでしまうよ」

「女一人守れないです。死んだ方がマシですよ」

「君の力を必要とする人間が、この先何人も現れる。生きるんだ」

「俺に、何ができるって言うんです」


 吐き捨てるように言った彼に、秋野はそっと近づいて手を取った。


「今逃げれば、本当に何もできなかった人間として終わる。でもね、歩き出せば負けなかった人間になれる。君はどうしたい」


 秋野の目には、今までなかった影があった。露出した左手には大きな傷跡ができている。


「その傷、何があったんですか」

「先日の任務でね。千切れるところだった」


 ぶんぶんと振って見せる、秋野。


「ふとね、迷うんだ。私はこのまま一生を終えるのか、ってね」


 彼女は座り込み、どこか己を諦めたような表情になる。


「君は男だ。いずれ当主になれる。そうなったら……命の引き算をしないといけなくなる。わかるだろう?」

「引き算……」

「もしそうなったら、私を取り立てておくれよ。こき使われるのには飽きたからね」


 風間の竹刀を取り、彼女は片付けに向かう。


「一旦、頭を冷やすんだ。使鬼の練習は、その後でもいい」


 そして、夏休みが始まった。蝉が喧しく鳴くのを聞きながら、風間はエアコンの効いた離れで寝転がっていた。


(俺は、このままでいいんだろうか)


 歩き出したい。きっと、陽子も自分の死を望んでいないだろう、ということも、彼はわかっていた。だから、進まねばならない。


 だが、エネルギーが足りない。マジック・ポイントがなくなったまほうつかいのように、何もできない。


 むくり、体を起こして本棚に向かう。どの本を開いても、十文字だって読めやしない。


(外れている)


 己の心にあった、一つの鎹。相反する二つの心が常にあって、それを繋ぎとめていた鎹だ。その金具が外れたような感じがしていた。


 動きたい気持ちと、動きたくない気持ち。生きたい気持ちと、生きたくない気持ち。ぶつかり合うどころか、二つはどこまでも離れて心という器を破壊しようとしている。


 陽子の葬式には行けなかった。行ってしまえば、二度と戻らないことを再確認してしまうように思えたからだ。


 脚が動く。目的もなく外に出る。太陽が痛い。影は濃い。灼熱地獄をふらふらと。


 ふと、彼は止まった。道の向こうに見覚えのある顔があった。丸くてくりくりした目の持ち主だ。


「陽子……?」


 呟いて、駆け出す。そんなはずはない、と何度言い聞かせても止まれなかった。結果としては、別人だった。目の前で動かなくなった男を前に、その女性は困りながら微笑んでいた。


「すみません、亡くなった友人に似ていたもので……」

「陽子ちゃんですか?」

「……え?」

「親戚です。私、紫原木しばらきすみれと言います。もしかして、慧渡風間さん?」


 頷く。


「聞いていたんです。ボディーガードをしてくれてるって」

「そんな大層なものではないですよ」


 レースのついた日傘を差している菫と並んで、風間は歩き出した。


「随分と背が高いのですね」

「百九十あります」

「それは……不便もありましょう」

「そうですね。服を買う時に困ります」


 他愛ない会話をしながら歩いていると、立派な門構えの家の前に立つ。


「陽子ちゃんのことで、聞きたいことが」


 どんな誹りも受け入れる覚悟で、彼は門を潜った。


 客間に通される。畳の上のローテーブルには、冷たい茶が出された。


「なぜ、陽子ちゃんの葬儀に来なかったんですか」

「……まだ、受け入れ切れてないんです。彼女が──死んだことを」


 伏し目がちに答えた彼を、菫の厳しさを孕んだ目が射抜く。


「わかっています。俺の弱さです。でも、もしかしたら、もう一度会えるんじゃないか、と」

「会えません。陽子ちゃんは亡くなりました」


 震える風間の手に、涙が落ちた。


「こうして、ゆっくりと話す機会を設けませんか」

「……何故です」

「風間さんには時間が必要なのだと思います。そして、私にも」


 唐突に命が奪われた事実を、彼女もまたスティグマのように刻まれてしまっている──風間は、無言の内にそのことを理解した。


「ご厚意に、甘えさせてもらいます」


 そこから、静かな交流が始まった。週に二、三度、風間は紫原木家宅を訪れ、茶を共にするようになった。


 最初は、互いの知らない陽子の顔が、主な話題だった。風間は護身術を教えたこと、すぐに仲良くなる社交性のことを話した。菫は家族や親戚の前で見せるだらけた顔について話した。


 だが、段々と二人は自分のことについて話すようになっていく。夏が過ぎ、秋が来て、冬の訪れを感じるようになる頃には、もう、陽子のことは懐かしい話として語られるようになった。


「それでは、また」


 いつまで経っても敬語が抜けない風間を、菫が


「ええ。また会いましょうね」


 と敬語で見送った。


 彼は、自分の心の中で菫の占める割合が大きくなっているのを感じていた。陽子を忘れたわけではない。だが、その死ばかりを想っていたことが、既に過去になっていただけだ。


「ただいま帰りました」


 帰り着いても、出迎えがない。やけに静かだ。廊下を歩いていくと、慌てて使用人がやってきた。


「ご当主が、お待ちです」


 邸宅は二階建てである。当主である羽吉はねきちは、その二階の奥まった部屋で寝起きしている。


 軋む階段を上って、襖の前に跪く。


「おじい様、風間です」

「入れ」


 苛立ちを隠そうともしない、荒々しい声だった。


 慧渡羽吉。脇息に右肘を置き、指で扇を開いては畳んでいた。


「秋野が裏切りおった」

「……今、なんと」

「出ていったのだ。後を追わせておるが……そう捕まらんだろう」


 羽吉の額にはじっとりとした汗がある。その姿から、風間は使鬼の気配が弱まっているのを感じた。


「妖魔を、奪われたのですね」

「わかるか。──そうだ。脅されてな……幾らか持っていかれた。だが、二体特上級がおる。安心せい」


 何が安心か、と言い返したくなったが、そんなことをすればどれほど怒るか。風間は冷静だった。自分でも、驚くほどに。


 結局、秋野の行く先は杳として知れなかった。全国の霊災対策一課が動いたが、引っかからない。認識を阻害する妖魔も、その手の内にあるやも知れぬ、ということだけがわかった。


 そして、風間は特科に入った。いつか現れる、秋野に出奔の訳を聞くために。


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