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第15話「日常①(聖、茂、悦子)」

 ◆


 晩ご飯の匂いが廊下まで漂ってきた。


 今日は肉じゃがらしい。


「ただいま」


 玄関で声をかけると、キッチンから悦子さんの声が返ってきた。


「おかえり、聖くん。手洗いうがいしてきてね」


 いつもと変わらない、穏やかな声。


 リビングに入ると、茂さんがソファでタブレットを見ていた。


 仕事から帰ってきたばかりなのか、まだスーツ姿だ。


「聖、お帰り」


「ただいま帰りました」


 茂さんは霊異対策本部の技術部門で働いている。


 正確には民間企業からの出向らしいけど、詳しいことは教えてくれない。


 ──機密事項が多いんだろうな


 手を洗ってリビングに戻ると、悦子さんがお茶を持ってきてくれた。


「今日も遅かったのね。部活?」


「はい、オカ研で」


 そう答えると、悦子さんは少し困ったような顔をした。


 悦子さんは僕がオカルトに触れることに余りいい顔をしない。


 茂さんがタブレットから顔を上げる。


「聖、最近学校の周りで異常領域の発生が増えてるって話、知ってるか?」


 知ってるどころじゃない。


 実際に巻き込まれたなんて、とても言えない。


 心配をかけたくないのだ。


「先生もそう言ってました」


 茂さんは深いため息をついた。


「正直な話、今の状況はかなり異常なんだ。普通、異常領域ってのは特定の条件が揃った場所で発生するものなんだが……」


「茂さん」


 悦子さんが、たしなめるような声を出す。


 でも茂さんは首を振った。


「いや、聖ももう高校生だ。知っておいた方がいい」


 タブレットを操作して、地図アプリを開く。


 東京都内の地図に、赤い点がいくつも表示されていた。


「これが先月の異常領域発生地点。そしてこれが」


 画面が切り替わる。


 赤い点が、倍以上に増えていた。


「今月の発生地点だ」


 ゾッとした。


 地図上の赤い点は、まるで疫病みたいに広がっている。


「学区内だけでも五件。これは明らかに異常な増加率だ」


「何か原因があるんですか?」


 僕の質問に、茂さんは難しい顔をした。


「それが分かれば苦労しない。上層部も頭を抱えてる。だから聖。少しでもおかしいとおもったらすぐその場を離れるんだぞ。興味を持つのもだめだ。なるべく関心を持たず、静かにその場から離れる──分かったな?」


「はい」


 悦子さんがキッチンから声をかける。


「はい、ご飯できたわよ。続きは食べながらにしましょう」


 ◆


 食卓に並んだ肉じゃがは、いつも通り美味しそうだった。


 でも、今日はどこか味気なく感じる。


 ──本田君も、きっと家族と夕飯を食べるはずだったんだろうな


 箸が進まない僕を見て、悦子さんが心配そうに声をかけた。


「どうしたの? 体調でも悪い?」


「いえ、大丈夫です」


 慌てて肉じゃがを口に運ぶ。


 ほくほくのじゃがいもが、優しい味だった。


 そういえば、と僕はハザードマップの事を思い出した。


「部活で、その……ハザードマップを作る事になったんです。部長の提案で……」


「そうか。まあ悪いことじゃない。むしろ良い試みだと思う」


 意外な言葉だった。


 てっきり止められるかと思っていた。


「ただし」


 茂さんの表情が真剣になる。


「絶対に無理はするな。情報収集は安全な範囲で、だ」


「はい」


 心配は心を配ると書く。


 こういう風に、気を配ってもらえるのは素直に嬉しい。


 でも、だからこそ話せないことも多かった。


 ◆


 夕食後、自室で宿題をしているとノックの音がした。


「聖くん、ちょっといい?」


 悦子さんの声だ。


「どうぞ」


 ドアが開いて、悦子さんが入ってきた。


 手には湯気の立つマグカップ。


 ココアの甘い香りが漂う。


「勉強の邪魔しちゃってごめんなさい」


「いえ、ちょうど休憩しようと思ってたところです」


 悦子さんは、僕の勉強机の横にあるスツールに腰掛けた。


「最近、眠れてる?」


 唐突な質問に、僕は戸惑う。


「え、ええ。普通に」


「そう? なんだか最近、疲れた顔してるから」


 鋭い。


 確かに、ここ数日はよく夢を見る。


 お姉さんの夢。


 でも、それは言えない。


「クラスメイトが行方不明になったりして、みんなピリピリしてるんです」


 半分本当で、半分嘘。


 悦子さんは優しく頷いた。


「そうよね。大変な時期だもの」


 ココアを一口飲む。


 甘さがじんわりと体に染みる。


「聖くん」


 悦子さんが、真剣な表情で僕を見つめる。


「もし何かあったら、遠慮なく相談してね」


「はい」


「私たちは、聖くんのご両親から大切な息子さんを預かってるの。だから、聖くんの安全が一番大事」


 その言葉に胸が熱くなる。


 血は繋がっていないけれど、この人たちは本当に僕のことを心配してくれている。


「それに」


 悦子さんが、少し声を落とす。


「聖くんのお母様から、気をつけてほしいって言われてることがあるの」


 ──来た


「もし、聖くんの周りで不思議なことが起きたら、すぐに知らせてって」


 不思議なこと。


 漠然とした言い方だけど、母が何を心配しているのかは分かる。


「特に、誰かに呼ばれるような感覚があったら」


 ドキリとした。


 まさに、お姉さんのことじゃないか。


「大丈夫です。そんなこと、ありませんから」


 嘘をつくことに罪悪感がある。


 でも、悦子さんを心配させたくない。


 悦子さんはじっと僕を見つめていた。


 まるで嘘を見透かしているような目で。


 でも結局、それ以上は何も言わなかった。


「そう。それならいいけど」


 悦子さんが部屋を出て行った後、僕は深くため息をついた。


 ──みんな、僕のことを心配してくれている


 でも、本当のことは言えない。


 お姉さんのことも、異常領域で起きたことも。


 窓の外を見る。


 東京の夜景が、きらきらと輝いている。


 どこかで今も、誰かが異常領域に巻き込まれているかもしれない。


 そして僕は、また巻き込まれるかもしれない。


 ──でも、お姉さんがいれば


 その考えを振り払う。


 お姉さんに頼りっぱなしじゃダメだ。


 自分でも、何かできることを見つけないと。


 机に戻り、ノートを開く。


 だが余り集中できない。


「異能か……むん!」


 僕は目の前の消しゴムに向かって掌を向けた。


 浮遊するイメージ。


 まあ、結果はお察しだ。

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