目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

閑話①「怪異行:水道局員・田中の場合」

 ◆


 マンホールの蓋が重い金属音を立てて開いた。


 朝の光が薄暗い縦穴に差し込み、錆びた鉄梯子を照らす。


「おーい、田中、準備できたか?」


 地上から同僚の声が響く。


 俺は、ヘルメットのライトを点灯させながら応えた。


「ああ、これから降りる」


 今日の作業は下水管の老朽化調査。


 この辺りは築五十年を超える古い管が多く、定期的な点検が欠かせない。


 ただし、今回は通常の調査とは少し事情が違った。


「例の"アレ"の件、頼むぞ」


 同僚の緊張した声が梯子を伝って降りてくる。


 俺は苦笑いを浮かべながら、腰のポーチに手を当てた。


 中にはきゅうりが三本。


 それも、わざわざ朝採れの新鮮なやつを用意してきた。


 ──まさか令和の時代に、こんなもんが必要になるとはな。


 ◆


 異常領域の発生から暫く。


 当初は誰もが怪異の存在に怯え、遭遇すれば即座に霊捜を呼んでいた。


 だが時間が経つにつれ、人々は気づき始めた。


 すべての怪異が人間に害をなすわけではない、と。


 むしろ、昔から同じ土地に住み着いている"先住民"のような存在もいる。


 彼らは人間が勝手に作った下水道や地下鉄の中で、ひっそりと暮らしていた。


 そして時折、人間の都合と彼らの生活圏が衝突する。


 今回がまさにそれだった。


 ◆


 鉄梯子を降りきると、コンクリートの通路に足がついた。


 下水特有の臭いが鼻をつく。


 だが慣れたもので、もう気にならない。


 ヘッドライトの光が暗闇を切り裂きながら、俺は奥へと進んでいく。


 やがて、管が大きく曲がる地点に差し掛かった。


 設計図によれば、この先で複数の支管が合流している。


 老朽化の報告があったのも、ちょうどこの辺りだ。


 俺は立ち止まり、ポーチからきゅうりを一本取り出した。


「失礼します」


 暗闇に向かって声をかける。


 返事はない。


 だが、水の流れる音に混じって、何かが動く気配がした。


「東京都水道局の田中と申します。本日は下水管の調査でお邪魔しております」


 丁寧な口調を心がける。


 相手が人間でないからといって、礼を欠いていいわけじゃない。


 むしろ逆だ。


 彼らの方が、俺たちよりずっと長くこの土地にいるのだから。


 ちゃぷん、と水音がした。


 そして、暗闇の奥から緑色の手がぬっと現れる。


 水かきのついた、人間とは明らかに異なる手。


 俺は緊張を押し殺しながら、きゅうりを差し出した。


「お納めください」


 手がきゅうりを受け取ると、すぐに闇の中へ引っ込んだ。


 ぼりぼりと、きゅうりを齧る音が響く。


 やがて、水面から頭が浮かび上がった。


 頭頂部に皿。


 嘴のような口。


 全身がつるんとした質感。


 ──河童だ


「ひさしぶりだな、人間」


 河童の声は、意外にも流暢な日本語だった。


 少し訛りがあるが、十分に意思疎通ができる。


「お変わりないようで何よりです」


 俺は安堵の息をつく。


 実はこの河童──自称カワ太郎とは、三ヶ月前にも顔を合わせている。


 その時も下水管の修理で、彼の縄張りに立ち入る必要があった。


 最初は随分と警戒されたが、きゅうりと丁寧な説明で何とか理解を得られた。


 以来、この辺りの工事の際は必ず挨拶に来るようにしている。


「今日は何の用だ?」


 カワ太郎が首を傾げる。


 俺は腰の道具袋から、防水加工を施した図面を取り出した。


「この辺りの管が老朽化していまして。亀裂から汚水が漏れている可能性があるんです」


 図面を見せながら説明する。


 カワ太郎は興味深そうに覗き込んできた。


 意外にも、彼は人間の文字が読めるらしい。


「ふむ、確かに最近、水の流れがおかしい」


「やはりそうですか」


「南の支管から、変な臭いの水が混じってくる。わしらにとっては死活問題だ」


 カワ太郎の表情が険しくなる。


 河童にとって、水質の悪化は生命に関わる。


 彼らは水と共に生きる存在だからだ。


「申し訳ありません。早急に対処します」


 俺は頭を下げた。


 すると、カワ太郎が意外な提案をしてきた。


「ならば、わしが案内しよう」


「え?」


「お前たち人間には見つけにくい亀裂もある。わしなら水の流れでわかる」


 ◆


 カワ太郎の後について、俺は下水道の奥へと進んだ。


 彼は水中を自在に泳ぎ、時折顔を出しては方向を示してくれる。


「この先だ」


 指差された場所は、設計図にない小さな空洞だった。


 おそらく長年の浸食でできた天然の空間。


 ライトで照らすと、壁面に大きな亀裂が走っているのが見えた。


「これは……かなり深刻ですね」


 亀裂からは絶えず汚水が染み出し、壁を黒く変色させている。


 このままでは地盤沈下の原因にもなりかねない。


 俺は無線で地上に連絡を取った。


「大規模な補修が必要だ。至急、追加人員を」


 作業の説明をしながら、ふとカワ太郎を見る。


 彼は心配そうに亀裂を見つめていた。


「工事の間、そちらの生活に影響が出るかもしれません」


「仕方あるまい。だが──」


 カワ太郎が振り返る。


「わしらの寝床を潰さんでくれ」


「もちろんです。施工計画を立てる際は、必ず相談します」


 俺の言葉に、カワ太郎は満足そうに頷いた。


 そして、ポーチに残る二本のきゅうりに目を向ける。


「ところで、それは……」


「ああ、どうぞ」


 残りのきゅうりも差し出すと、カワ太郎は嬉しそうに受け取った。


「礼を言う。最近は良いきゅうりが手に入らんのだ」


「そうなんですか?」


「昔は上流から流れてくることもあったが、今は包装されたゴミばかりだ」


 なるほど、と俺は納得する。


 確かに最近は、きゅうりを丸ごと川に流す人なんていない。


「今度来る時は、もっと持ってきます」


「恩に着る」


 カワ太郎が水に潜ろうとした時、俺は思い切って尋ねた。


「カワ太郎さんは、どのくらい前からここに?」


 彼は水面から顔だけ出して答えた。


「江戸の頃からだ。まだこの辺りが田んぼだった時分から」


 二百年以上。


 その長さに、俺は言葉を失う。


「最初は綺麗な小川だった。それが暗渠になり、下水道になった。住みにくくはなったが、わしらも順応した」


 カワ太郎の声には諦めとも受容ともつかない響きがあった。


「人間の都合で環境は変わる。だが、わしらも生きていかねばならん」


「……すみません」


「謝ることはない。お前さんのような理解ある人間もいる。それで十分だ」


 カワ太郎は最後にこう付け加えた。


「共存というのは、完璧である必要はない。お互いに少しずつ譲り合えばいいのだ」


 ◆


 地上に戻ると、同僚たちが心配そうに待っていた。


「どうだった?」


「問題なかった」


 俺の報告に、彼らは安堵の表情を浮かべる。


「良かった。やっぱりまだ怖がる奴も多いからなあ」


「ああ。亀裂の場所も教えてもらった。明日から本格的な工事だ」


 準備を進めながら、俺は思う。


 最初は恐怖と混乱ばかりだった。


 だが人間も怪異も、少しずつ変わってきている。


 完全な理解は無理でも、最低限の敬意と配慮があれば共存は可能だ。


 カワ太郎との奇妙な協力関係が、その証拠だった。


「なあ田中」


 同僚の一人が声をかけてきた。


「ちょっと気になったんだけどさ──河童って、本当に尻子玉を抜くのか?」


「さあな。少なくともカワ太郎さんはそんなことしないみたいだけど」


「でも油断は禁物だろ?」


「そりゃそうだ。だからきゅうりを持っていく」


 俺たちは顔を見合わせて笑った。


 きゅうり一本で保たれる平和。


 バカバカしいようで、案外これが一番確実な方法なのかもしれない。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?