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マンホールの蓋が重い金属音を立てて開いた。
朝の光が薄暗い縦穴に差し込み、錆びた鉄梯子を照らす。
「おーい、田中、準備できたか?」
地上から同僚の声が響く。
俺は、ヘルメットのライトを点灯させながら応えた。
「ああ、これから降りる」
今日の作業は下水管の老朽化調査。
この辺りは築五十年を超える古い管が多く、定期的な点検が欠かせない。
ただし、今回は通常の調査とは少し事情が違った。
「例の"アレ"の件、頼むぞ」
同僚の緊張した声が梯子を伝って降りてくる。
俺は苦笑いを浮かべながら、腰のポーチに手を当てた。
中にはきゅうりが三本。
それも、わざわざ朝採れの新鮮なやつを用意してきた。
──まさか令和の時代に、こんなもんが必要になるとはな。
◆
異常領域の発生から暫く。
当初は誰もが怪異の存在に怯え、遭遇すれば即座に霊捜を呼んでいた。
だが時間が経つにつれ、人々は気づき始めた。
すべての怪異が人間に害をなすわけではない、と。
むしろ、昔から同じ土地に住み着いている"先住民"のような存在もいる。
彼らは人間が勝手に作った下水道や地下鉄の中で、ひっそりと暮らしていた。
そして時折、人間の都合と彼らの生活圏が衝突する。
今回がまさにそれだった。
◆
鉄梯子を降りきると、コンクリートの通路に足がついた。
下水特有の臭いが鼻をつく。
だが慣れたもので、もう気にならない。
ヘッドライトの光が暗闇を切り裂きながら、俺は奥へと進んでいく。
やがて、管が大きく曲がる地点に差し掛かった。
設計図によれば、この先で複数の支管が合流している。
老朽化の報告があったのも、ちょうどこの辺りだ。
俺は立ち止まり、ポーチからきゅうりを一本取り出した。
「失礼します」
暗闇に向かって声をかける。
返事はない。
だが、水の流れる音に混じって、何かが動く気配がした。
「東京都水道局の田中と申します。本日は下水管の調査でお邪魔しております」
丁寧な口調を心がける。
相手が人間でないからといって、礼を欠いていいわけじゃない。
むしろ逆だ。
彼らの方が、俺たちよりずっと長くこの土地にいるのだから。
ちゃぷん、と水音がした。
そして、暗闇の奥から緑色の手がぬっと現れる。
水かきのついた、人間とは明らかに異なる手。
俺は緊張を押し殺しながら、きゅうりを差し出した。
「お納めください」
手がきゅうりを受け取ると、すぐに闇の中へ引っ込んだ。
ぼりぼりと、きゅうりを齧る音が響く。
やがて、水面から頭が浮かび上がった。
頭頂部に皿。
嘴のような口。
全身がつるんとした質感。
──河童だ
「ひさしぶりだな、人間」
河童の声は、意外にも流暢な日本語だった。
少し訛りがあるが、十分に意思疎通ができる。
「お変わりないようで何よりです」
俺は安堵の息をつく。
実はこの河童──自称カワ太郎とは、三ヶ月前にも顔を合わせている。
その時も下水管の修理で、彼の縄張りに立ち入る必要があった。
最初は随分と警戒されたが、きゅうりと丁寧な説明で何とか理解を得られた。
以来、この辺りの工事の際は必ず挨拶に来るようにしている。
「今日は何の用だ?」
カワ太郎が首を傾げる。
俺は腰の道具袋から、防水加工を施した図面を取り出した。
「この辺りの管が老朽化していまして。亀裂から汚水が漏れている可能性があるんです」
図面を見せながら説明する。
カワ太郎は興味深そうに覗き込んできた。
意外にも、彼は人間の文字が読めるらしい。
「ふむ、確かに最近、水の流れがおかしい」
「やはりそうですか」
「南の支管から、変な臭いの水が混じってくる。わしらにとっては死活問題だ」
カワ太郎の表情が険しくなる。
河童にとって、水質の悪化は生命に関わる。
彼らは水と共に生きる存在だからだ。
「申し訳ありません。早急に対処します」
俺は頭を下げた。
すると、カワ太郎が意外な提案をしてきた。
「ならば、わしが案内しよう」
「え?」
「お前たち人間には見つけにくい亀裂もある。わしなら水の流れでわかる」
◆
カワ太郎の後について、俺は下水道の奥へと進んだ。
彼は水中を自在に泳ぎ、時折顔を出しては方向を示してくれる。
「この先だ」
指差された場所は、設計図にない小さな空洞だった。
おそらく長年の浸食でできた天然の空間。
ライトで照らすと、壁面に大きな亀裂が走っているのが見えた。
「これは……かなり深刻ですね」
亀裂からは絶えず汚水が染み出し、壁を黒く変色させている。
このままでは地盤沈下の原因にもなりかねない。
俺は無線で地上に連絡を取った。
「大規模な補修が必要だ。至急、追加人員を」
作業の説明をしながら、ふとカワ太郎を見る。
彼は心配そうに亀裂を見つめていた。
「工事の間、そちらの生活に影響が出るかもしれません」
「仕方あるまい。だが──」
カワ太郎が振り返る。
「わしらの寝床を潰さんでくれ」
「もちろんです。施工計画を立てる際は、必ず相談します」
俺の言葉に、カワ太郎は満足そうに頷いた。
そして、ポーチに残る二本のきゅうりに目を向ける。
「ところで、それは……」
「ああ、どうぞ」
残りのきゅうりも差し出すと、カワ太郎は嬉しそうに受け取った。
「礼を言う。最近は良いきゅうりが手に入らんのだ」
「そうなんですか?」
「昔は上流から流れてくることもあったが、今は包装されたゴミばかりだ」
なるほど、と俺は納得する。
確かに最近は、きゅうりを丸ごと川に流す人なんていない。
「今度来る時は、もっと持ってきます」
「恩に着る」
カワ太郎が水に潜ろうとした時、俺は思い切って尋ねた。
「カワ太郎さんは、どのくらい前からここに?」
彼は水面から顔だけ出して答えた。
「江戸の頃からだ。まだこの辺りが田んぼだった時分から」
二百年以上。
その長さに、俺は言葉を失う。
「最初は綺麗な小川だった。それが暗渠になり、下水道になった。住みにくくはなったが、わしらも順応した」
カワ太郎の声には諦めとも受容ともつかない響きがあった。
「人間の都合で環境は変わる。だが、わしらも生きていかねばならん」
「……すみません」
「謝ることはない。お前さんのような理解ある人間もいる。それで十分だ」
カワ太郎は最後にこう付け加えた。
「共存というのは、完璧である必要はない。お互いに少しずつ譲り合えばいいのだ」
◆
地上に戻ると、同僚たちが心配そうに待っていた。
「どうだった?」
「問題なかった」
俺の報告に、彼らは安堵の表情を浮かべる。
「良かった。やっぱりまだ怖がる奴も多いからなあ」
「ああ。亀裂の場所も教えてもらった。明日から本格的な工事だ」
準備を進めながら、俺は思う。
最初は恐怖と混乱ばかりだった。
だが人間も怪異も、少しずつ変わってきている。
完全な理解は無理でも、最低限の敬意と配慮があれば共存は可能だ。
カワ太郎との奇妙な協力関係が、その証拠だった。
「なあ田中」
同僚の一人が声をかけてきた。
「ちょっと気になったんだけどさ──河童って、本当に尻子玉を抜くのか?」
「さあな。少なくともカワ太郎さんはそんなことしないみたいだけど」
「でも油断は禁物だろ?」
「そりゃそうだ。だからきゅうりを持っていく」
俺たちは顔を見合わせて笑った。
きゅうり一本で保たれる平和。
バカバカしいようで、案外これが一番確実な方法なのかもしれない。