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夢だ。
そう理解するまでに、数秒かかった。
体が浮いているような、それでいて地に足がついているような、不思議な感覚が全身を包んでいる。
目の前に広がるのは、見渡す限りの稲穂だった。
黄金色の絨毯──そう表現するしかない。
風が吹くたびに、さわさわと穂が揺れて、まるで波のように押し寄せてくる。
太陽の光を反射して、きらきらと輝く稲の海。
そのただなかで、ひとりの女の人が踊っていた。
白い巫女衣装が稲穂の金色に映えている。
袖が風に舞い、裾がふわりと広がる。
そして──
──穂よ、栄えよ、満てよ、穂、穂、穂……
声が聞こえるのだ。
遠く離れているはずなのに、その歌声は僕の耳にはっきりと届いた。
澄んだ声。
鈴の音のように清らかで、どこか懐かしい。
女の人は両手を天に向けて、ゆっくりと回転した。
白い衣装が円を描き、稲穂もそれに合わせて揺れる。
まるで稲穂が彼女の舞に応えているかのようだった。
僕は息を呑んで、その光景を見つめていた。
美しいという言葉では足りない。
神々しいというのも違う気がする。
ただ、目が離せなかった。
金色の世界の中で、僕はただただ女の人を見つめていた。
ふいに女の人がこちらを向く。
瞬間、僕の心臓が大きく跳ねた。
──きれいだ
息が止まるほど、美しい人だった。
長い黒髪が風になびき、白い肌が陽光に透けるように輝いている。
そして何より、その瞳。
血のように赤い瞳が、まっすぐに僕を見つめていた。
でも怖くない。
むしろ、吸い込まれそうなほど魅力的で──
「あ……」
僕は気づいた。
この人を、僕は知っている。
「お姉さん」だ。
十年前故郷の山で出会った、あのお姉さんだった。
お姉さんは僕に気づいて嬉しそうに笑った。
胸の奥がじんわりと熱くなる。
お姉さんはゆっくりと手招きをしてくれた。
細く白い指が、優しく僕を呼んでいる。
僕は吸い寄せられるように、一歩を踏み出した。
稲穂が足元でさらさらと音を立てる。
一歩、また一歩。
なぜだろう、走り出したいのに足が妙に重い。
ゆっくりとしか歩けない。
でも確実に、僕はお姉さんに近づいていく。
やがてお姉さんの前に立つ僕。
見上げると、やっぱり背が高い。
二メートルを優に超えるその身長は、子供の頃と変わらない。
いや、もしかしたら僕が成長した分、相対的には少し縮まったのかもしれない。
でも、やっぱり見上げる形になる。
「呼びつけてごめんなさい」
お姉さんの声は、歌うように優しかった。
「私はこれ以上そちらへいけないのです。今は、まだ」
その言葉の意味を考える前に、お姉さんは僕を抱きしめた。
ふわりと包み込まれる感覚。
白い巫女衣装の袖が、僕の体を覆う。
そして──
顔が、柔らかな胸に埋まった。
普通なら恥ずかしくて死にそうになる状況だ。
でも、不思議と恥ずかしさは感じなかった。
むしろ当然のことのように思えた。
──僕は弟なんだから、お姉さんに甘えても当然だ
そんな思いが、心の奥から湧き上がってくる。
温かい。
お姉さんの体温が、じんわりと僕に伝わってくる。
懐かしい匂いがした。
稲穂の香りと、何か甘い花のような香り。
そしてなんとなくお線香のような香りも混じっている。
「聖くん」
頭上からお姉さんの声が降ってきた。
「逢えてとてもとてもとてもとてもとてもとても嬉しい」
「とても」を六回も重ねるその言い方がなんだか可愛らしくて、僕は思わず笑みがこぼれた。
お姉さんの腕に、ぎゅうっと力が込められる。
より強く、より深く、僕を抱きしめてくれる。
まるでもう二度と離したくないとでも言うように。
僕もお姉さんを抱きしめ返した。
細い腰には確かな存在感があって、お姉さんが本当にここにいることを実感させてくれる。
このままずっとこうしていたい。
そんな気持ちが心の中に広がっていく。
でも聞きたいこともあった。
ずっと、ずっと聞きたかったこと。
「お姉さん」
僕は顔を上げて、お姉さんを見つめた。
赤い瞳と目が合う。
近くで見ると、その瞳の中にはいろんな色が混じっていることがわかった。
朱色、緋色、茜色、紅色──
さまざまな「赤」が複雑に絡み合って、宝石のような輝きを放っている。
「お姉さんの名前は、なんていうの?」
ずっと聞きたかった質問を、ついに口にした。
お姉さんは一瞬、驚いたような表情を見せた。
それから、ゆっくりと微笑んで──
唇が動いた。
「〇〇〇」
その瞬間──
世界が歪んだ。
黄金色の稲穂が、ぐにゃりと曲がる。
お姉さんの姿が、水に映った影のように揺らぐ。
声は聞こえたはずなのに、なぜか頭に入ってこない。
名前を聞いたはずなのに──
「あっ」
急激に意識が浮上していく感覚。
まるで深い水の底から、一気に水面へと引き上げられるような──
目を開けた。
天井が見える。
見慣れた自分の部屋の天井だった。
「……夢、か」
呟いて、ゆっくりと体を起こす。
パジャマが汗でじっとりと濡れていた。
窓から差し込む朝日が、カーテンの隙間から部屋を照らしている。
夢の感触はまだ鮮明に残っている。
稲穂の匂い、お姉さんの温もり、そしてあの優しい声──
「これ以上そちらへいけない……か」
お姉さんの言葉を反芻する。
どういう意味なんだろう。
「そちら」というのは、現実の世界のことなのか。
それとも、もっと別の何かを指しているのか。
「今は、まだ」という言葉も気になる。
いつかは来られるようになるということなのだろうか。
だとしたら僕はそれまで待てばいいのか?
いや、違う。
ふと、別の考えが頭をよぎった。
──僕から、お姉さんのところへ行けばいいんじゃないか
でも、どうやって?
そもそもお姉さんがいる場所はどこなんだろう。
夢の中? それとも──
頭を抱えて考え込む。
答えは出ない。
でもなんとなく分かりそうな気もしていた。
もう少しで、何か大切なことに気づけそうな──
「聖くん! 朝ごはんよ!」
階下から、悦子さんの声が聞こえてきた。
現実の音が、夢の残滓を押し流していく。
「はーい!」
返事をして、ベッドから降りる。
足が冷たい床についた瞬間、完全に現実に引き戻された。
でも──
──いつか、また会える
そんな確信めいたものを抱きながら、僕は階下へと降りていった。
朝食の匂いが階段を上ってくる。
味噌汁と焼き魚の香ばしい匂い。
日常のありふれた朝の風景。
でも僕の心はまだあの黄金色の稲穂の海を漂っていた。