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第17話「夢」

 ◆


 夢だ。


 そう理解するまでに、数秒かかった。


 体が浮いているような、それでいて地に足がついているような、不思議な感覚が全身を包んでいる。


 目の前に広がるのは、見渡す限りの稲穂だった。


 黄金色の絨毯──そう表現するしかない。


 風が吹くたびに、さわさわと穂が揺れて、まるで波のように押し寄せてくる。


 太陽の光を反射して、きらきらと輝く稲の海。


 そのただなかで、ひとりの女の人が踊っていた。


 白い巫女衣装が稲穂の金色に映えている。


 袖が風に舞い、裾がふわりと広がる。


 そして──


 ──穂よ、栄えよ、満てよ、穂、穂、穂……


 声が聞こえるのだ。


 遠く離れているはずなのに、その歌声は僕の耳にはっきりと届いた。


 澄んだ声。


 鈴の音のように清らかで、どこか懐かしい。


 女の人は両手を天に向けて、ゆっくりと回転した。


 白い衣装が円を描き、稲穂もそれに合わせて揺れる。


 まるで稲穂が彼女の舞に応えているかのようだった。


 僕は息を呑んで、その光景を見つめていた。


 美しいという言葉では足りない。


 神々しいというのも違う気がする。


 ただ、目が離せなかった。


 金色の世界の中で、僕はただただ女の人を見つめていた。


 ふいに女の人がこちらを向く。


 瞬間、僕の心臓が大きく跳ねた。


 ──きれいだ


 息が止まるほど、美しい人だった。


 長い黒髪が風になびき、白い肌が陽光に透けるように輝いている。


 そして何より、その瞳。


 血のように赤い瞳が、まっすぐに僕を見つめていた。


 でも怖くない。


 むしろ、吸い込まれそうなほど魅力的で──


「あ……」


 僕は気づいた。


 この人を、僕は知っている。


「お姉さん」だ。


 十年前故郷の山で出会った、あのお姉さんだった。


 お姉さんは僕に気づいて嬉しそうに笑った。


 胸の奥がじんわりと熱くなる。


 お姉さんはゆっくりと手招きをしてくれた。


 細く白い指が、優しく僕を呼んでいる。


 僕は吸い寄せられるように、一歩を踏み出した。


 稲穂が足元でさらさらと音を立てる。


 一歩、また一歩。


 なぜだろう、走り出したいのに足が妙に重い。


 ゆっくりとしか歩けない。


 でも確実に、僕はお姉さんに近づいていく。


 やがてお姉さんの前に立つ僕。


 見上げると、やっぱり背が高い。


 二メートルを優に超えるその身長は、子供の頃と変わらない。


 いや、もしかしたら僕が成長した分、相対的には少し縮まったのかもしれない。


 でも、やっぱり見上げる形になる。


「呼びつけてごめんなさい」


 お姉さんの声は、歌うように優しかった。


「私はこれ以上そちらへいけないのです。今は、まだ」


 その言葉の意味を考える前に、お姉さんは僕を抱きしめた。


 ふわりと包み込まれる感覚。


 白い巫女衣装の袖が、僕の体を覆う。


 そして──


 顔が、柔らかな胸に埋まった。


 普通なら恥ずかしくて死にそうになる状況だ。


 でも、不思議と恥ずかしさは感じなかった。


 むしろ当然のことのように思えた。


 ──僕は弟なんだから、お姉さんに甘えても当然だ


 そんな思いが、心の奥から湧き上がってくる。


 温かい。


 お姉さんの体温が、じんわりと僕に伝わってくる。


 懐かしい匂いがした。


 稲穂の香りと、何か甘い花のような香り。


 そしてなんとなくお線香のような香りも混じっている。


「聖くん」


 頭上からお姉さんの声が降ってきた。


「逢えてとてもとてもとてもとてもとてもとても嬉しい」


「とても」を六回も重ねるその言い方がなんだか可愛らしくて、僕は思わず笑みがこぼれた。


 お姉さんの腕に、ぎゅうっと力が込められる。


 より強く、より深く、僕を抱きしめてくれる。


 まるでもう二度と離したくないとでも言うように。


 僕もお姉さんを抱きしめ返した。


 細い腰には確かな存在感があって、お姉さんが本当にここにいることを実感させてくれる。


 このままずっとこうしていたい。


 そんな気持ちが心の中に広がっていく。


 でも聞きたいこともあった。


 ずっと、ずっと聞きたかったこと。


「お姉さん」


 僕は顔を上げて、お姉さんを見つめた。


 赤い瞳と目が合う。


 近くで見ると、その瞳の中にはいろんな色が混じっていることがわかった。


 朱色、緋色、茜色、紅色──


 さまざまな「赤」が複雑に絡み合って、宝石のような輝きを放っている。


「お姉さんの名前は、なんていうの?」


 ずっと聞きたかった質問を、ついに口にした。


 お姉さんは一瞬、驚いたような表情を見せた。


 それから、ゆっくりと微笑んで──


 唇が動いた。


「〇〇〇」


 その瞬間──


 世界が歪んだ。


 黄金色の稲穂が、ぐにゃりと曲がる。


 お姉さんの姿が、水に映った影のように揺らぐ。


 声は聞こえたはずなのに、なぜか頭に入ってこない。


 名前を聞いたはずなのに──


「あっ」


 急激に意識が浮上していく感覚。


 まるで深い水の底から、一気に水面へと引き上げられるような──


 目を開けた。


 天井が見える。


 見慣れた自分の部屋の天井だった。


「……夢、か」


 呟いて、ゆっくりと体を起こす。


 パジャマが汗でじっとりと濡れていた。


 窓から差し込む朝日が、カーテンの隙間から部屋を照らしている。


 夢の感触はまだ鮮明に残っている。


 稲穂の匂い、お姉さんの温もり、そしてあの優しい声──


「これ以上そちらへいけない……か」


 お姉さんの言葉を反芻する。


 どういう意味なんだろう。


「そちら」というのは、現実の世界のことなのか。


 それとも、もっと別の何かを指しているのか。


「今は、まだ」という言葉も気になる。


 いつかは来られるようになるということなのだろうか。


 だとしたら僕はそれまで待てばいいのか? 


 いや、違う。


 ふと、別の考えが頭をよぎった。


 ──僕から、お姉さんのところへ行けばいいんじゃないか


 でも、どうやって? 


 そもそもお姉さんがいる場所はどこなんだろう。


 夢の中? それとも──


 頭を抱えて考え込む。


 答えは出ない。


 でもなんとなく分かりそうな気もしていた。


 もう少しで、何か大切なことに気づけそうな──


「聖くん! 朝ごはんよ!」


 階下から、悦子さんの声が聞こえてきた。


 現実の音が、夢の残滓を押し流していく。


「はーい!」


 返事をして、ベッドから降りる。


 足が冷たい床についた瞬間、完全に現実に引き戻された。


 でも──


 ──いつか、また会える


 そんな確信めいたものを抱きながら、僕は階下へと降りていった。


 朝食の匂いが階段を上ってくる。


 味噌汁と焼き魚の香ばしい匂い。


 日常のありふれた朝の風景。


 でも僕の心はまだあの黄金色の稲穂の海を漂っていた。

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