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河野美雪は霊異捜査局渋谷分局の資料室で、透明なケースに収められた小石を見つめていた。
ただの石ころ。
路地の隅に転がっていたという、何の変哲もない小石だ。
「先日の異常領域から回収したものです」
技術班の若手が説明する。
「街の外れの路地で発生した異常領域。現場には特に目立った痕跡はありませんでしたが、念のため周辺の物品をいくつか回収しました」
美雪は眉をひそめた。
一見すると、ただの石。
だが、そこには確かに濃密な霊的残滓がこびりついている。
美雪の異能がそれを感じ取っていた。
「河野さん、準備はいいかい?」
同僚の声に振り返ると、観察記録用のカメラを手にした面々が待機している。
美雪は小さく頷いた。
念視──ヴィジョンと呼ばれる異能。
物体に残された霊的残滓から、過去の光景や感情を読み取る能力だ。
たとえそれが道端の石ころであろうと、強烈な霊的事象の近くにあったものならば、その波動は物体に刻まれる。
恐怖、歓喜、絶望──そして時には、人ならざるものの気配までも。
美雪はケースを開け、素手で石に触れた。
瞬間、意識が肉体から剥離するような浮遊感が全身を包む。
現実の資料室が薄れ、別の光景が網膜の裏側に浮かび上がってくる。
一面の黄金。
見渡す限りの稲穂が、風に揺れている。
波のように押し寄せる黄金色の海。
太陽の光を反射して、きらきらと輝いている。
美雪は息を呑んだ。
この光景は明らかに現実ではない。
東京のど真ん中に、こんな広大な稲田など存在しない。
稲穂の中で何かが動いている。
それは人影に見えるが、姿は判然としない。
──もっとよく視なければ
そう精神力を集中した時であった。
美雪の全身が総毛立った。
“何か”は“女のようなモノ”だと分かった。
しかし尋常のモノではない。
腐肉が垂れ下がり、眼窩には蛆が湧いている。
白い巫女衣装とみられる衣服は血と膿で汚れ、髪の毛は抜け落ちて頭蓋骨が露出していた。
踊るたびに、腐った肉片が飛び散っている。
そして美雪は視た。
中学生か高校生らしき少年が、その化け物に向かって歩いていくのを。
少年の顔には恍惚とした表情が浮かんでいる。
まるで天使を見るような、純粋な憧憬の眼差し。
化け物が少年を抱きしめた。
腐った腕が少年の体を包み込む。
少年は幸せそうに、その胸に顔を埋めている。
──おぞましい
なぜこの少年は、あんな化け物に抱かれて平気なのか。
なぜ恐怖を感じないのか。
『ぽ』
突如、美雪の耳元で声が響いた。
文字にすれば間の抜けた音。
しかし美雪の魂は、その一音に込められた底知れぬ敵意を感じ取った。
──見るな
──これ以上踏み込むな
──さもなくば
恐怖が背骨を駆け上がる。
美雪は慌てて意識を引き戻そうとした。
念視からの離脱──接続を切る。
普段なら造作もない動作が、なぜか上手くいかない。
まるで見えない手に意識を掴まれているような──
『ぽぽぽ』
声が近づいてくる。
稲穂の海が赤く染まり始めた。
まるで血の色の様だ。
美雪は必死に目を閉じ、現実への帰還を試みる。
資料室の蛍光灯の白い光を思い出せ。
同僚たちの声を。
コーヒーの匂いを。
ようやく、意識が肉体に戻ってきた。
「河野さん!」
誰かが叫んでいる。
「救護班を呼べ! 早く!」
なぜそんなに慌てているのだろう。
美雪は手の甲で顔を拭った。
べっとりと、赤い液体が付着している。
血だ。
視界が赤く染まっていたのは、自分の目から血が流れていたからだと気づく。
そして──
ぽろり。
何かが頬を滑り落ちた。
床に転がったそれを見て、美雪は声にならない悲鳴を上げた。
自分の眼球だった。
そして──……
◆
病室の天井の染み。
美雪は片目だけでそれを数えながら、ぼんやりと時を過ごしている。
左目には眼帯。
もう片方は奇跡的に無事だったが、医師からは「しばらく念視は控えるように」と厳命されていた。
ノックの音がして、ドアが開く。
「河野さん、調子はどう?」
渋谷分局の上司、黒木課長が見舞いに来た。
美雪は力なく微笑む。
「まあ、なんとか」
黒木は病室の椅子に腰を下ろし、真剣な表情で美雪を見つめた。
「君が念視で見たものについて、聞かせてもらえるかな」
美雪は少しの間、黙っていた。
それから、ゆっくりと首を横に振る。
「覚えていないんです」
「覚えていない?」
黒木の声に、わずかな疑念が滲む。
「はい。接続を切ろうとした時のことは覚えていますが、何を見たのかは……」
美雪は視線を落とした。
黒木はしばらく美雪を見つめていた。
病室に重い沈黙が降りる。
やがて、黒木が口を開いた。
「口に出す必要はない」
美雪がわずかに肩を震わせる。
「君は何かを見た。しかし、それを話したくないのか?」
美雪は答えない。
ただ、じっとシーツを見つめている。
黒木はさらに続けた。
「それとも──話せないのか?」
その言葉に、美雪の体がぴくりと反応した。
一瞬だけ美雪は顔を上げ、黒木と視線を合わせた。
しかしすぐに美雪は視線を逸らし、再びうつむいた。
黒木は小さく息を吐いた。
「……分かった」
立ち上がり、ドアに向かう黒木。
その背中に、美雪がぽつりと呟いた。
「すみません」
黒木は振り返らずに答えた。
「謝る必要はない。君の身の安全が最優先だ」
ドアが閉まる音が、病室に響いた。
美雪は震える手で眼帯に触れた。
『ぽ』
今でも耳の奥に、あの声がこびりついている。
話せない。
話してはいけない。
あれは、人間が知るべきではない領域の何かだった。
もし話せば──
──
◆
退院の日はあいにくの雨だった。
美雪は段ボール箱に私物を詰め込みながら、これが最後だと理解していた。
霊異捜査局渋谷分局。
三年間勤めた職場に、もう戻ることはない。
「本当にいいの?」
同僚の山田が心配そうに尋ねる。
美雪は力なく笑った。
「もう、無理なんです」
念視能力自体は失われていない。
だがあの日以来、何かに触れるたびに『ぽ』という声が聞こえるような気がして、能力を使うことができなくなった。
トラウマ、と医師は診断した。
時間が解決してくれるかもしれない、とも。
だが美雪には分かっていた。
どれだけ時間が経とうとも、もう二度と自分は現場復帰ができないだろうという事を。
「お世話になりました」
深々と頭を下げ、美雪は局を後にした。
雨に濡れながら歩く帰り道。
『ぽ』
雨風に紛れて、あの声が聞こえた気がした。
美雪は震える手で傘を握りしめ、雨の中を歩きつづけた。