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9.


     9.


『犬』。

 如月きさらぎには『それ』を的確に表現できる言葉を持ち合わせてはいなかった。なので、見たものをありのまま、受けた印象をそのまま言葉にするとしたら『犬』だった。

 校舎の東側にある生徒玄関前にいる如月から見て、ちょうど反対側にいる『犬』。

 まじまじと凝視する――大きさは中型犬ほどのサイズで、全身が筋肉質、前足が肥大化していて、分厚くて鋭い爪があって、ゴールデンレトリバーみたいに耳は垂れ下がっている。

 目が、目がこちらを見ている。

 その『犬』と、目が合った。

(まずいっ――!)

 そう思ったときには遅かった。

 既にその『犬』は動き出していた。

 前足が中庭の芝生をえぐり散らかしながら、中庭を一直線に突っ切って向かってくる。

「…………っ! しなさん! 逃げてください!」

「えっ、え――うん! わかった!」

 一瞬戸惑った様子を見せていた品理だったが、中庭を突っ切って迫りつつある『犬』を見て、すぐに決心がついたみたいだった。

 品理はそのまま校門のほうに向かって走り出した。

 その様子を如月はしっかりと見届けている余裕はなかった。

 だんだんと『犬』が近づいてくる。

 如月はその場をあまり動かず、向かってくる『犬』の動きをじっと観察する。

「――――」

『犬』はその速度のまま、一気に跳躍ちょうやくした。

 飛びかかってきた

 肥大化した前足を、まるで腕のように振り上げた。

「くっ……!」

『犬』はその分厚くて鋭い爪を振り下ろした。

 これに合わせて、如月は『犬』のいる方向に飛び込んだ。

 跳び上がった『犬』の真下を通り抜けるようにして転がって、受け身を取って立ち上がる。

「はっ、はあっ!」

 その勢いを殺さないように一気に走る。

 如月はそのまま一度も『犬』のほうを振り返らず、生徒玄関に向かって駆け込んだ。

「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ――」

 全力で廊下を走る。

 後ろから追いかけてくる気配は、ない。

 それでも、足を止めることなく、廊下を走って、そのまま階段を駆け上がっていく。

(あの『犬』は――魔法だ)

 如月は断定する。

 すべての犬種を知っているわけではないが、あんな化け物みたいな犬がいるとは思えない。あの『犬』は魔法による何かだと決めつけていいはずだ。

 それに加納かのう美鈴みすずのこともある。

 あの死体と関係しているかわからないが、何かしらの関係を疑うには十分なタイミングだとは思う。

(品理さんのほうを狙っている可能性もあったけど、あの『犬』は僕に向かって一直線に突っ込んできた。たぶん――僕が狙われている)

 それがどうしてなのかわからない。

 単に『目が合った』からというのも考えられるが、ひとまず『犬』について考えることをストップする。

(まずは蒔絵まきえさんと合流しないと――)

 まだ学校に残っているだろうか。

 三年生である壮生そうせい蒔絵の教室は三階にある。

 階段を駆け上がる。

 二階から三階に差しかかったときだった。

「!」

 がしゃーん、と、ガラスの割れる音が聞こえた。

 思わず足を止めて、その場に屈み込んだ。階段の手摺てすりから恐る恐る下のフロアを見る。すると、ちょうど階段のところに謳囲うたい姫子ひめこがいた。

(謳囲さん……っ!)

『犬』は這うようにして階段を登ってきて、姫子の周りをうろうろとしている。

 特に興味を示していないところを見る限り、無差別に攻撃するつもりはないようだ。

(だったらそのあいだに蒔絵さんと合流しよう――)

 と、『犬』から目を離して、三階に意識を向けた。

 そのとき、強烈な視線を感じた。

 言い換えれば殺意のようなものだった。

「…………っ」

『犬』はこちらを見ていた。

 二階にいる『犬』に、見つかっていた。

 がちがちがちがち……と剥き出しになっていく牙は鍾乳洞しょうにゅうどうのように不揃いで禍々まがまがしい。ぐるる……という唸り声まで聞こえてくる。

 二階のフロアにいる『犬』と、階段の途中にいる如月。

 そのあいだに挟まれるようにして謳囲姫子がいる。

『犬』が跳躍し、姫子に飛びかかる。あくまで自分の進行方向にある障害物を排除するためだけと言わんばかりに――かぎづめのような前足を振り上げた。

 如月は階段を駆け下りて、その勢いのまま姫子の身体を突き飛ばした。

 ぎりぎりのところで鉤爪をかわした。

 床に激しく身体を打ちつけながら、如月は起き上がり、

「…………」

 と、『犬』を見る。

『犬』のほうも、如月のことをじっと睨みつけていた。


 こうして。

 如月貴石は『犬』と姫子のあいだに割って入ったのだった。




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