目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

8.ダイバーシティ・ワンダフル(5)


     8.


 三階に到着した如月きさらぎ貴石きせき謳囲うたい姫子ひめこのふたりは、廊下を歩いてすぐのところにある教室に入った。

 その教室には机が一ヶ所にまとめられて、椅子は崩れない程度に積み上げられている。この教室は生徒数が多かった頃に三年生のもうひとつの教室として使われていた部屋である。今では使われておらず、空き教室になっている。それでも補修などをおこなうときに使われることもあるようで、教卓もあれば黒板にはチョークだって置いてあるし、いくつかの机と椅子も並べられている。鍵がかかっていなかったので、この部屋には簡単に入ることができた。

「ふーっ」

 と、如月は壁を背にして息を吐いた。

 ゆっくりと呼吸をしながら、乱れている呼吸を整える。

 三階に上がると生徒の姿が見当たらなかった。『犬』による騒ぎで下の階層に行っているのか、あるいはテスト期間だから学校には残っておらず早々に帰宅しているのか、はたまた図書室を活用しているのか……。

「如月くん……。その腕の怪我は、大丈夫なの?」

 すぐ近くにいる姫子が訊いてきた。

「そうですね、まあ……」

 切れているワイシャツの部分から傷口が見えている。出血によって傷口は具体的には見えないが、まだ血は止まっていないし、ワイシャツは赤く染まりつつある。指先まで血液が滴り落ちてくるくらいである(さすがに階段を駆け上がるときからは血痕を足跡として残さないようにズボンで拭いながら移動はした)。

「まあ、大丈夫だと思います」

 とは答えたものの、ずきずきと痛みは続く。

 如月の答えに釈然しゃくぜんとしていない様子の姫子ではあるが、大丈夫と返答されたものをそれ以上は追及できず、何か言いたそうだった言葉を呑み込んだ。

(さて、どうしたものか……)

 額の汗を拭いながら如月は考える。

 全速力で走ったからか、はたまたこの傷の痛みのせいか……。あるいは両方か。

 ひとまずこの場所に避難はしたものの、あの瀞峡どろきょうまもる吹抜ふきぬけみんかのふたりの狙いは如月貴石にあるはずだ。

『委員会』が駆けつけてくるというタイムリミットが設定された今、それを撤回して逃亡してくれていればいいのだけど、こういうものに限ってそう都合よくいかないものだ。

「あの、魔法って……いったい何なんですか?」

 姫子が訊ねてきた。

「ああ……」

『犬』を指して『ああいうのが魔法』とは言ったものの、姫子には何も説明していなかったことを思い出した。

「ええっと……魔法は、それこそあの『犬』の化け物みたいに変形したり、あの子供がしたようなことだったり、ああいう感じのもののことを言うんですよ」

 かなり曖昧な言い方になってしまった。

「触れただけで、その傷ができたような……ああいうもののこと?」

「そうですね」

 如月の腕にある、まだ血が止まらない、定規で引いたような一直線の傷口。

「あの男の子の魔法は、そういう魔法です」

「……あんまり、アニメとか漫画で見る魔法とイメージは違うね」

「そうですよね、それは僕も思いました。魔力とか、そういうのは関係ないんだなって。呪文を唱えることもなければ、杖を振るうこともないし、箒にだって乗らない――僕もあんまり詳しくないんですけど、魔法はある日突然使えるようになるらしいんですよ」

?」

 首を傾げるようにしたあとに姫子はその言葉の意味に気づき、

「え、如月くんは魔法が使えるわけじゃないの?」

 と言った。

「あ、はい。そうです」

「でも、『委員会』っていうのは、魔法を使って悪いことをしている人を捕まえるための警察みたいな組織なんだよね? そこは、魔法が使えなくても大丈夫なの? その……如月くんとあの先輩は、『委員会』のメンバーなんだよね?」

「ああ、いえ、違いますよ。蒔絵まきえさん――あの先輩は『委員会』の一員ですけど、僕は違います。僕は蒔絵さんにお世話になっているってだけですよ。ただ単に付き合いが長いだけです」

「付き合い、長いんだ」

「はい。僕が小学四年のときに知り合ったから、それからの――」

『それからの付き合いですよ』と如月が言い終わる前に言葉を切った。口元に人差し指を立てて姫子に合図を送る。

「(……? ど、どうしたの?)」

 と、姫子は小声で言う。

 わずかにだが、廊下のほうから足音が聞こえた――そんな気がした。

 ひたり、ひたり……と、足音を立てないようにしている、そんな音というか気配。あるいは、そもそも人間とは違う、気配のような足音。

「(……『犬』だ)」

 確固たる確証はないが、如月はそう断定した。






この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?