雪国の晴れ間は、白い雪の上に光が差し込むとキラキラと輝きはじめ、まるで雪原に宝石が散りばめられている様でとても美しい。
けれども、晴れているからと言って暖かいわけではなく――なんなら晴れた日の朝は一層空気が冷え込み、煌めく雪景色を見ながら「綺麗だな」なんて言っている輩はよっぽどの大物か
「さむーい……!」
暖炉用の薪を取りに来たアイリスは生まれも育ちも
こんな朝は生姜と砂糖たっぷりのミルクティーを飲むに限る。
「ん……?」
白い息を吐きながら薪を抱えて自宅である宿屋の玄関前まで来たところで、アイリスは違和感を覚えた。
宿屋の敷地の入口付近にこんもりと不自然に雪が積もっている。まるで雪の下になにか埋まっているように――
「!!」
アイリスは一気に青ざめると、持っていた薪を放り投げてその雪の塊に駆け寄った。ちらりと見えた、雪からはみ出ていたものは確かに
「ちょっと……!! 貴方大丈夫!?」
雪の下から出てきたのは、旅人姿の青年だった。
宿の前で力尽きたのか、うつ伏せで倒れ込みその上に雪が積もっている。昨日の夕方、ここには何もなかったから、昨日の夜から朝の間にここで行き倒れたらしい。もし、彼が一晩中ここで倒れていたのだとしたら、もう彼は……
真冬のこの地の夜がどうなるかは幼い子供でもわかりきっている。アイリスは青年の運命を思って絶望的な気持ちになった。
――が、予想に反して倒れた死体――いや、青年は震える手でアイリスの手をがしりと掴んだ。そしてうわ言のように何かを呟く。
「ぅ……すぃ……た……」
「え!? 何!?」
名も知らぬ青年とは言え、彼のこの世最後の言葉かと思うとアイリスは泣きそうになりながら耳を澄ます。
青年は雪に埋まっていた割に血色のいい顔で、
「……おなか……すいた……」
と呟くとガックリと倒れ込んだ。
「……は?」
真っ白な雪に覆われた冬の朝。
国境を越えた峠の麓にある宿『
***** *****
「いやぁ……大変だったわねぇ……寒かったでしょう?」
「何から何までお世話になってしまって……申し訳ないです」
あ、このシチュー美味しいです。と、目の前の青年は鶏ときのこのミルク煮を幸せそうに頬張っている。
「アイリス、なにぼおっとしてるの。ヴァルさんにお茶を入れてきて頂戴」
「……はぁい」
返事をして厨房に向かったものの何だか腑に落ちない。
アイリスの家でもあるここ、『雪花亭』の前で行倒れていた青年、名をヴァル・ノクスと名乗った。
雪に埋もれて倒れていたので、アイリスはてっきり彼がもう儚くなっているものと思ったが、暖かい室内に入れると意識はなんとかあったため話を聞くと空腹で倒れただけらしい。
慌てて朝食に用意していた食事を与えると、みるみるうちに元気を取り戻していった。
アイリスはグラグラと煮え立ったお茶をカップに淹れて、食堂に戻ると無愛想にヴァルの前においた。
「……どうぞ。熱いですから」
ヴァルはアイリスの方を見ると有難うとにっこり笑ってお茶に口をつけ、アチッと舌を出した。
ヴァルと名乗った青年は癖のある長い黒髪をゆるく編み、
目はどちらかといえばタレ目がちで、旅人の格好をしていなければ到底旅人には見えない。そんなに筋肉質にも見えないし、役者か何かと言ったほうがしっくり来る優男だ。
宿を守るアイリスの母親は人がいいので、倒れていたヴァルをこれは大変! と色々介抱したが、雪の日にあんなところで倒れているなんて怪しいことこの上ない。
アイリスはフーフーとお茶を冷ましているヴァルの前に腰掛けると、じっとヴァルの顔を見た。
「……なんであんなところで倒れていたんですか」
一歩間違えたら死にますよ? と呆れた声を出したアイリスに、ヴァルは嬉しそうに眉を下げる。
「心配してくれたんだね。有難う。いやぁ、俺もまさか倒れるとは思ってなくて」
別に心配したわけではないのだが。彼を訝しんでいたせいで気がついていなかったがよくよく見るとヴァルは目鼻立ちは整っているし、この辺では見ないような美男子だ。 アイリスはどこを見ていいかわからず、赤面して目を逸らせた。
「この時期の夜に移動するなんて自殺行為です。そんな事、子どもだって知ってますよ」
一体何処に行こうと思っていたんです?
素朴な疑問に、ヴァルはお茶を飲みながらのんびりと答えた。
「いや、何ていうか、氷の国って呼ばれてるクリュスランツェを見てみたくてね。アルカーナの方から王都を目指して旅をしてきたんだけど」
家族には「春になってから行けばいい」と散々言われたらしい。
良かった、どうやらご家族はまともな人達らしい。彼の家族の言う通り、アイリスの住むクリュスランツェは大陸の北に位置しており、冬季の気候が大変に厳しい。
王都の周りは冬になると氷に包まれてしまう。クリュスランツェの南に位置するお隣の国、アルカーナ王国と我が国の境目に峠があるのだが、冬季は雪が深く遭難の恐れがあるためよっぽどのない限り冬の峠越えは誰もしない。旅行や行商の者も皆、温かな春になってから峠を越えるのだ。
アイリスの家は宿を営んでいて、峠を越えた麓にあり、アルカーナ王国の方からやってきた旅人の初めての中継地となる。
ただ、冬季は峠を越えてくる者もめったにいないので、宿はほぼ開店休業状態だ。そのため、父は現在アルカーナ王国の方へ出稼ぎに出ており、宿は母とアイリスで回しているのである。
「……だって氷の王国を見に行くのに、春になってからじゃ氷が見られないじゃない? 思い立ったが吉日。今行っちゃえーってさ。俺、寒いのには強いんだ」
アイリスは思いっきり眉をしかめた。
(え。この人馬鹿なの?)
強いも何も、人間自然には勝てないのだ。実際に遭難しかけて死にそうになっていたではないか。なんなら助かったのだって奇跡に近い。
アイリスの言いたいことが伝わったのか、ヴァルは慌てて取り繕った。
「途中まで問題なく峠は越えてこられたんだよ!? ただ、途中で食料と路銀の入ったカバンを川に落としちゃってさ」
休憩しようと荷物をおいた場所の雪が崩れ、転がって荷物が川に落ちてしまったらしい。
「飛び込んで取りに行こうかとも思ったんだけど……」
「飛び込む気だったの!? 死にますよ!?」
氷点下の気温の中、川に飛び込むなんてとんでもない。アイリスは目を剥いて突っ込んだ。
ヴァルは驚愕に目を剥くアイリスなどお構いなしにのほほんと続ける。
「うん。流石にちょっと寒そうだなぁ……と思ってやめたんだよね」
冬の川に飛び込むなど、ちょっと……では済まされない。
「寒さは大丈夫だったんだけど、荷物を落としたのが朝食前でさ。周りは雪で食べれそうなものはなにもないし、とにかくお腹が空いてお腹が空いて……」
何とか民家のあるところまで来られたんだけど、あそこで力尽きちゃったよね。あはは。と笑うヴァルに、アイリスは目眩がした。
(こ、この人、よく今まで死なずに生きてこられたよね!?)
アイリスは目眩を覚えた頭を抑えながら「とりあえず温かくしてお腹いっぱい食べて下さい」と食事を促した。
ヴァルはそんなアイリスに「有難う。君のおかげだよ」とやっとぬるくなったお茶をすする。そしてお茶を綺麗に飲み干すと眉を下げ、「ちょっといいにくいんだけど……」と彼と出会ってから初めて申し訳無さそうに言った。
「……そんなわけだからね、色々ご馳走になっちゃったけど……俺、今無一文なんだよね」
困ったなぁ、という割にはあまり困っていなさそうな彼の顔を見て、アイリスは盛大に溜息をついた。