数時間後、部屋のドアが開き、看護師が入ってきた。彼女は無言で陽介の様子をチェックし、点滴を交換した。
「凛さんはどうなってる?」
陽介が尋ねたが、看護師は答えなかった。しかし、彼女が去る際、小さな紙切れをそっと彼のベッドに置いていった。看護師が出て行った後、彼は何とか首を伸ばして紙を読んだ。
「今夜、救出あり。準備せよ。—同盟」
陽介は驚いた。同盟が救出に来るという。しかし、今の状況では何もできない。彼は体力を回復するために休息をとることにした。
夜になり、施設の照明が暗くなった。突然、警報が鳴り響いた。
「緊急事態発生。全職員は指定位置に集合せよ」
施設内が騒がしくなり、足音やドアの開閉音が聞こえた。数分後、陽介の部屋のドアが開いた。
「急いで」
入ってきたのは先ほどの看護師だった。彼女は素早く陽介の拘束を解いた。
「あなたは?」
「同盟の潜入工作員よ。早く」
彼女—実際には同盟のエージェント—は陽介を起こし、廊下に連れ出した。
「凛さんは?」
「別のチームが救出するわ。私たちは指定の出口へ向かうの」
二人は警備の薄い裏通路を通って進んだ。施設は広く、迷路のようだった。
「ここは政府の秘密研究所。適合者の研究や『キー』の分析を行っている」
エージェントは小声で説明した。彼らは慎重に進み、何度か警備員を避けながら進んだ。
「あとどれくらい?」
「もうすぐよ。でも……」
彼女は突然立ち止まった。前方に人影があった。それは佐藤だった。
「予想通りだな」
佐藤は冷静に言った。彼は増幅装置のようなものを手に持っていた。
「逃げて!」
エージェントは陽介を押して別の方向に逃がした。彼女自身は佐藤に立ち向かおうとしたが、佐藤の能力の前に動きを封じられた。
陽介は指示に従って逃げたが、どこに向かえばいいのか分からなかった。彼は直感に従って走り続けた。すると前方から人の声が聞こえてきた。
「陽介くん! こっち!」
その声は凛だった。彼女は別の同盟メンバーと共に、非常口の前に立っていた。
「凛さん!」
二人は再会し、すぐに脱出を始めた。非常口から外に出ると、待機していた車に飛び乗った。車は猛スピードで施設から離れていった。
「無事で良かった」
凛は安堵の表情を浮かべた。
「あなたも。でも、エージェントが捕まってしまった」
「彼女のことは心配しないで。彼女は特殊訓練を受けているから、簡単には情報を漏らさないわ」
車は都市の郊外へと向かった。安全な距離まで来ると、彼らは車を乗り換え、さらに移動を続けた。
「政府に捕まっている間、佐藤から色々聞いたよ」
陽介は同盟の真の目的について話した。凛は彼の話を黙って聞いていた。
「それで、本当なんですか? 同盟の目的は完全融合って……」
凛はしばらく黙っていたが、やがて静かに答えた。
「……一部は本当よ。同盟の上層部は確かに『完全融合』を目指している」
陽介は言葉を失った。佐藤が言っていたことは真実だったのか。
「でも、すべてのメンバーがその考えに賛同しているわけじゃない。私を含め、多くのメンバーは真実を明らかにし、より良い解決策を見つけることを目指しているわ」
「じゃあ、内部分裂があるということですか?」
「そう言えるわね。特に最近、意見の対立が強まっている」
凛は深刻な表情で続けた。
「『キー』の使い方についても意見が分かれている。一部は完全融合のために使うべきだと主張し、他は亀裂を完全に閉じるために使うべきだと考えている」
「あなたはどう思ってるんですか?」
「私は……分からないわ。父は『キー』を使って何かをしようとしていた。でも、それが何なのかは教えてくれなかった」
車は静かな郊外の一軒家に到着した。それは同盟の新たな隠れ家だった。
「ここで一旦落ち着きましょう。これからどうするか考える必要があるわ」
二人は家の中に入った。そこには他の同盟メンバーもいて、彼らの無事を祝った。しかし、陽介の心には迷いがあった。同盟と政府、どちらが正しいのか。そもそも「正しい」側はあるのか。
その夜、陽介は眠れずにいた。彼は「時の狭間」で手に入れたキーを見つめていた。青い光を放つ小さな水晶。これほど小さなものが、世界の運命を左右するなんて。
「眠れないの?」
凛が部屋に入ってきた。彼女は寝間着姿で、手にはお茶の入ったマグカップを持っていた。
「はい、色々と考えてました」
陽介はキーを手のひらに乗せ、凛に見せた。
「これが本当に世界を変えてしまうものなのか、想像できない」
凛はベッドの端に腰掛け、陽介にもマグカップを差し出した。
「私も眠れなくて。ハーブティーを入れたわ」
「ありがとう」
二人は静かにお茶を飲みながら、窓の外の星空を見つめた。
「凛さん、父親のことをもっと教えてくれませんか? 彼が何をしようとしていたのか、少しでも手がかりがあれば」
凛は深く息を吐き、マグカップを両手で包み込むように持った。
「父は長年、亀裂の研究をしていたわ。彼は政府のプロジェクトで働いていたけど、何かを発見して独立したの。彼の研究ノートによれば、亀裂は単なる偶然ではなく、意図的に作られたものだと考えていたみたい」
「意図的に? 誰が?」
「それは分からない。でも父は『創造者』という言葉をよく使っていたわ」
凛は遠い目をして続けた。
「父が最後に残したメッセージには、『7つのキーは扉を開くだけでなく、閉じることもできる。選択は使う者次第だ』と書かれていた」
「つまり、キーは両方の目的に使えるということですか?」
「そう思うわ。だからこそ、キーの使い方を決めるのは私たちなの」
二人は静かに考え込んだ。外では夜風が木々を揺らし、かすかな音を立てていた。
「もう少し休んだ方がいいわ。明日は重要な会議があるから」
凛は立ち上がり、部屋を出ようとした。
「凛さん」
陽介が呼び止めた。
「僕は……正しいことをしたいんだ。でも、何が正しいのか分からない」
凛は振り返り、優しく微笑んだ。
「私もよ。でも一緒に答えを見つけましょう」
彼女が去った後、陽介はようやく眠りについた。
翌朝、同盟の主要メンバーが集まり、今後の方針について話し合う会議が開かれた。陽介も招かれ、取得したキーについて報告することになった。
会議室には10人ほどが集まっていた。中央には大きなテーブルがあり、壁には複雑な図表や地図が貼られていた。
「全員揃ったようだな」
年配の男性が立ち上がった。彼が同盟のリーダー、高山だった。
「まずは遠野君の報告から聞こうか」
陽介は緊張しながら立ち上がり、「時の狭間」での経験と、キーの取得について詳細に報告した。彼は政府施設で佐藤から聞いた話も含め、すべてを正直に話した。
「同盟の一部が完全融合を目指しているという話も聞きました」
その言葉に会議室内が騒がしくなった。高山は手を上げて静かにするよう促した。
「確かにその通りだ。私たちの中には異なる意見がある。遠野君の正直な発言に感謝する」
高山は深刻な表情で続けた。
「私は創立当初から『真実の追求』を目的としてきた。しかし時間の経過と共に、一部のメンバーは『次の段階への進化』を主張するようになった」
「それは危険すぎるのでは?」
若いメンバーの一人が発言した。
「完全融合が何をもたらすのか、誰にも分からない」
「だからこそ、我々は慎重に判断しなければならない」
高山は穏やかだが、確固とした口調で言った。
「現在、我々は6つのキーを手に入れた。残るは1つのみだ。そして、その最後のキーの所在が判明した」
彼はスクリーンに地図を映し出した。そこには赤い点が一つ打たれていた。
「ここだ。『忘却の谷』と呼ばれる場所。ダンジョンの最深部に位置している」
「忘却の谷? 聞いたことがない」
凛が不思議そうに言った。
「一般の探索者には公開されていない特殊区域だ。政府も立ち入りを厳しく制限している」
高山は続けた。
「そこには最後のキーと共に、亀裂の真実に関する情報があると考えられている。霧島博士—凛の父親—の最後の研究拠点もそこにあった可能性が高い」
「父の研究拠点…」
凛は驚きの表情を浮かべた。
「しかし、『忘却の谷』へのアクセスは極めて困難だ。通常のルートでは辿り着けない」
高山はさらに別の地図を表示した。
「我々の情報によれば、ダンジョン8階に隠された通路がある。そこを通れば『忘却の谷』に到達できる」
「8階?」
陽介は驚いた。彼は7階までしか知らなかった。
「ダンジョンは公式には7階までとされているが、実際には8階、さらにはそれ以上の階層が存在する。政府はその存在を隠している」
高山は参加者全員を見回した。
「この任務は極めて危険だ。志願者を募りたい」
一瞬の沈黙の後、凛が立ち上がった。
「私が行きます。父の研究を見つける必要があります」
次に陽介も立ち上がった。
「僕も行きます。時間操作能力が役立つかもしれません」
さらに数人のメンバーが志願し、最終的に5人のチームが編成された。陽介、凛、ベテラン探索者の村田、技術専門家の佐々木、そして医療スタッフの中島だ。
「明日から準備を始め、3日後に出発する」
高山は厳かな表情で言った。
「この任務の成否が、我々の未来を決めるかもしれない」
会議の後、チームメンバーは詳細な計画を立てるために残った。地図や装備、通信手段など、あらゆる面での準備が必要だった。
「忘却の谷についての情報は限られている」
村田が資料を広げながら言った。彼は40代の男性で、ダンジョン探索の経験が豊富だった。
「環境は不安定で、強力な異形生物が出現するとの報告がある。さらに、精神に影響を与える特殊な場だとも言われている」
「精神に影響?」
陽介が尋ねた。
「そう。記憶の混乱や幻覚を引き起こすと言われている。だからこそ『忘却の谷』と呼ばれるんだ」
佐々木—30代前半の女性技術者—が通信機器を確認しながら加わった。
「通常の通信機器は機能しない可能性が高い。特殊な増幅装置を用意する必要があるわ」
中島—穏やかな表情の医療スタッフ—も準備リストを作成していた。
「精神安定剤と特殊な防護服も必要ね。通常の医療キットでは不十分かもしれない」
チームは徹底的な準備に取り掛かった。陽介と凛は特に、彼らの能力を最大限に活用するための特殊訓練を行った。
「あなたの時間操作能力は、忘却の谷では特に重要になるわ」
凛は訓練の合間に言った。
「谷の時間の流れが歪んでいるとすれば、あなたの能力で安定させることができるかもしれない」
「僕にそんなことができるかな」
「できるわ。あなたは思っている以上に可能性を秘めている」
訓練は厳しかったが、陽介の能力は確実に向上していた。彼は時間を止める持続時間を延ばし、より広い範囲に影響を与えられるようになった。
準備期間中、高山から呼び出しがあった。彼は陽介と二人きりで話したいと言った。
「遠野くん、私の部屋に来てくれないか」
陽介が高山の私室を訪れると、彼は窓辺に立ち、遠くを見つめていた。
「座りたまえ」
陽介が椅子に座ると、高山は振り返り、静かに話し始めた。
「君に特別にお願いがある」
「何でしょうか?」
「『忘却の谷』で最後のキーを手に入れた後、7つのキーをどう使うかは極めて重要な決断だ。その決断を下すのは、キーを持つ者たちだ」
高山は陽介の目をまっすぐ見つめた。
「私は君を信頼している。君は純粋な心を持ち、正しい判断ができる」
「でも、僕はまだ新参者です。そんな重大な判断を…」
「だからこそだ。君は先入観なく、真実を見ることができる」
高山は引き出しから古い封筒を取り出した。
「これは霧島博士が私に託したものだ。『全てのキーが揃った時、適切な人物に渡すように』と言われていた」
彼は封筒を陽介に手渡した。
「今、それを君に託す。中身は見ていない。必要な時が来るまで開けてはならない」
陽介は重い責任を感じながら、封筒を受け取った。
「どうして僕なんですか?」
「霧島博士は『時の守護者』が現れると予言していた。そして君の能力と性質は、その予言に一致している」
「時の守護者……」
陽介はその言葉を反芻した。彼にはそんな大役は務まらないと思ったが、高山の信頼に応えたいという気持ちもあった。
「分かりました。責任を持って預かります」
高山は安堵した様子で微笑んだ。
「ありがとう。そして、これは凛にも内緒にしておいてくれ。時が来るまでは」
陽介は封筒を大切に内ポケットにしまい、部屋を後にした。