霧に覆われたロンドンでは街灯が白い靄に滲み、石畳に淡く反射していた。
事務所でジェラルドは銀の懐中時計を開き、蓋の裏に刻まれた「
「霧は呪いだ……」
内省する彼を、少女の声が現実に引き戻す。
「お兄様、また時計見てた!」
グレイス・シルヴィア・ウィットモア、七歳。絵本を抱える年の離れたジェラルドの「妹」は落ち着かない様子で、金髪に結んだ赤いリボンが揺れる。
左腕の銀の腕輪が淡く光り、霧が窓の外でざわめいた。少女は絵本をぎゅっと抱きしめ、『何か変な感じがする……』と呟く。
ジェラルドは彼女の髪を撫で、「俺がいるからな、グレイス」と答えた。
黒いメイド服を身に着けた金髪の女性、アリス・カークランドが書類を抱えて入ってくる。二十一歳の彼女の緑の瞳が窓の外を捉えた。
「ジェラルド、霧が重いわ。今夜、何かが起きる気がする」
「アリスも怖いの?」
グレイスの問いに、アリスは微笑んで首を振る。
「怖くないわ、グレイス。用心してるだけよ」
そのとき扉が激しくノックされ、暖炉の火が揺れて三人の影が踊る。
「開いている。どうぞ」
コートの裾が血と泥に濡れた若い男がよろめき入って来た。黒髪は乱れ、灰色のコートはボタンも留まっていない。顔は青褪め、目には恐怖の色が濃かった。
「ウィットモアさん、助けてください! 親友が殺されたんです!」
その男、マシュー・クロフトの声に部屋が凍った。彼は大学の化学の助手だという。
ジェラルドはソファを指し、「落ち着け。話してくれ」と低く言った。
アリスが無言で紅茶を用意し始める。
ソファの隅で絵本を抱えたグレイスに、マシューが目を向けた。
「お嬢さんですか?」
「いや、妹だ」
ジェラルドの答えに、マシューは「妹……?」と呟く。不自然な歳の差に、つい言葉が漏れたようだ。
一瞬の静けさは次の言葉で砕けた。
「昨夜、ロナルド、──僕の親友のロナルド・ブラウンがテムズ川沿いで……。今日、血だらけで倒れてたのが見つかったんです」
「警察には連絡したか?」
マシューが頷く。汗で濡れた髪が額に張り付き、顔はさらに青褪めていた。
「見つけた人がしたようです。連絡が来て駆けつけたら、胸の傷は普通の刃物じゃないみたいでした。でも『酔っ払いの喧嘩だ』って片付けられて。ロナルドはそんな奴じゃない! 酒も飲んでなかったはずだし、調べればすぐわかるのに」
憤懣やり方ない様子のマシュー。
「彼は誰かを傷つけるような人間じゃなかった。どんな時も僕を信じてくれたんだ。──能力者なんてもっといけ好かない人間だと思ってた僕の目を覚まさせてくれた。彼は本当に良い奴で……」
友のために涙を流す彼の姿に、生前のロナルドの輪郭が見えてくる気がする。
この社会には異能力者が少なからず存在するのだ。水晶はその媒介によく使われる。
「この傷……、光によるものよ」
アリスが預かったマシューのコートに触れると、彼女の「透視」が働く。
ロナルドの胸の傷跡が青白い光を帯びていた。
「光の傷?」
ジェラルドは「霧」の能力者で「霧の支配」の力を持つのだ。
「ロナルドに何があった? 知ってることを詳しく話せ」
マシューの声が震える。
「彼は最近、変な研究に巻き込まれてたようなんです」
「変な研究?」
マシューの言葉にジェラルドが尋ねる。ポケットの水晶が熱を持ち、霧が木張りの床を這った。
「青い光の結晶を研究してました。だけど最近様子がおかしくて、『異能監査局に狙われてる』って。……妙な手紙も来てたようです」
「監査局だと?」
ジェラルドの声が低く響く。
「その手紙は?」
「ロナルドが全部暖炉で燃やしてしまったんです。彼の部屋は警察が封鎖しててまだ入れません。ただ最近『時計塔が……』と、街外れの古い教会の鐘楼の資料を集めてたのは見ました」
マシューがそう口にして俯いた。
この街に教会は多く、古いまま放置されているのものも珍しくはない。時計塔を備えているのも。
「お兄様、ロナルドさんを助けられる?」
グレイスが小さな声で尋ねる。
「いや、彼はもう……。でも、真実で守れる。約束するよ」
嘘でも「死人を助ける」と言うことはできずに、ジェラルドは腕にしがみつく彼女の金髪に触れた。
事務所の灯りが揺れ、霧が窓の外で不穏な動きを見せる。光の能力者、ロナルドの死、青い結晶、敵──。
これはただの殺人ではない。探偵とその「家族」の戦いが始まった。