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【第二章:石造りの迷宮】

 翌朝。

 濃霧のロンドンを三人は進んでいた。馬車が行き交う大通りを外れ、大学への石畳の道に入る。霧は街の輪郭を溶かし、まるで過去と現在を曖昧にする帳のようだった。

 アリスはグレイスの手を引き、ジェラルドはその先を歩いていた。霧は街の輪郭を溶かし、まるで過去と現在を曖昧にする帳のようだ。

 大学のキャンパスは広大で、石造りの建物が霧にぼんやりと浮かんでいた。長い廊下は静かで、磨かれた石の床が靴音を冷たく反響させる。

 グレイスがジェラルドのコートをぎゅっと掴み、「ここ、薄気味悪いね……」と震える。

 ジェラルドはコートのポケットで水晶を握り、霧を呼び寄せた。霧がまるで川の流れのように彼の足元を這い、道を切り開くようにうねった。

「グレイス、アリス。俺の近くにいろ」

 彼の声に霧が応え、柔らかな障壁となって三人を包む。視界の端が揺らぎ、額に冷や汗が滲んだ。霧を操る力は彼の心臓を重く締め付け、「家族」を守る決意を試すようだった。

「この霧、能力者の気配が強いわ」

 彼女が石造りの壁に触れると、霧が湖面のように揺らめき断片的な映像が浮かんだ。 

 ──ロナルドが青い結晶を握り、急いで廊下を走る姿。

 そこで頭痛が彼女を刺した。

「ロナルドはここで何か隠したわ」

 彼女の声が震え、封印の代償が身体を蝕む。

 グレイスがジェラルドのコートをぎゅっと掴み、震える声で囁いた。

「ここ、薄気味悪いね……。幽霊が出そう」

 左腕の腕輪が淡く光り、霧が彼女の不安に応じて黒く渦巻いた。ガラス窓が微かに震え、彼女の「共鳴」が周囲を揺さぶる。

「ねえ、怖いよ……」

 ジェラルドが彼女の頭を撫で、霧を操って渦を静めた。

「幽霊より人間のほうが怖いんだよ。俺たちがいるから大丈夫だ」

 霧が彼の意志に従い、まるで生き物のようにグレイスを包んだ。

 彼の声は優し気だが、瞳には警戒が宿る。アリスの長いスカートの裾が軽く翻り、足音が校舎に響いた。外出時は当然、いつものメイド服ではない。

 長い廊下は静かで、磨かれた石の床が靴音を冷たく反響させる。アリスが壁に触れると、霧が鏡のように揺らめき、誰かが書類を隠す映像が浮かんだ。頭痛が強まり、彼女は額を押さえた。

「ロナルドは光の能力者と関わってた……」

 アリスの「透視」は霧の残滓を読む力だ。霧の流れを追い続けていると、その利用の仕方が少しずつわかって来る。

 グレイスの「共鳴」の能力は他者の感情をも左右する。

 だがまだ幼い彼女はその力を完全には制御できない。そもそもグレイス自身が、己の能力を自覚してすらいないのだ。

 そのため、アリスがグレイスの力を抑えるために腕輪に呪文としての「霧の紋様」を刻んだのだ。少女の感情が高ぶると腕輪が共鳴して光り、霧を揺らす。

 ジェラルドの水晶が霧を安定させて彼女の能力を支えたが、それでも簡単なことではなかった。

 封印を保ち続けることで、結果としてアリスの「透視」は明らかに精度が落ち、反動の頭痛や眩暈が強くなってしまった。

 誰にも悟られぬように微笑みながら、それでもアリスは耐え続けている。明かせばグレイスの心を曇らせてしまうから──。

 大抵の能力者は、その力の源泉が物理的な鉱物や金属にあり、自然現象の能力者はごく希少だった。ジェラルドたちの霧をはじめ、光や風などだ。

 八年前、二十六歳だったジェラルドと十三歳のアリスもそうだった。孤独な二人だったからこそ惹かれ合い──。

「大丈夫か? アリス、今から無理するな」

 彼女を気遣いつつ、三人は目当ての研究室に辿り着く。ドアは重いマホガニー製で、表面に古い彫刻が施されていた。

 ジェラルドがノックすると鈍い音が廊下に響く。ドアが開き、五十代の男が現れた。ハリソン教授だ。白髪交じりの髪は乱れ、鋭い目つきが厳格な学者を思わせる。

「あなたがウィットモアか……。マシューから連絡は受けている」

「そうです。どうぞよろしくお願いします」

 教授は初めのうちは落ち着いていた。

「ロナルドの研究に関して、何を訊きたい?」

「青い光の結晶を知ってますね?」

「結晶?」

 探偵の質問に、彼の声が僅かに裏返った。

 教授の節くれだった指が無意識にシャツの袖口を撫で続けている。ジェラルドの水晶がポケットで脈打ち、霧が教授の足元で不自然に床を舐めた。

「ただの化学実験の一環だ。燃料の試作品さ。危険なものじゃない」

 その言葉には自信が溢れていたが、反して彼の目が揺れている。

 教授の机には目をやっただけで手を出すことはできず、アリスは研究室の壁に一瞬触れた。

 ──青く光る瓶を手にした教授の顔と、その前に立つ黒衣の男。それ以上追う前に頭痛が強まり、アリスは固く目を閉じて俯いた。

「教授、あなたは何か隠してますね。ロナルドの研究はただの化学じゃないでしょう」

 教授の机には書類やガラス瓶が乱雑に並び、埃と薬品の匂いが漂う。ジェラルドの水晶が熱を持ち、霧が教授の足元で不自然に蠢いた。

 ジェラルドが教授を見据え、続ける。

「彼の作業場を見せてください。それで十分です」

 教授は渋い顔で頷き、一行を広い研究室の奥へ案内した。

 天井が高く、窓は小さい。そこから霧に曇った光が差し込んでいた。

 個人ごとに与えられた机の上や棚には、それぞれ書類やガラス瓶に化学器具が乱雑に並び、埃と薬品の匂いが漂う。

 ロナルドの机は隅にあり、同じく書類が散乱していた。ジェラルドが調べ始めた机の手前では、学生が彼らの様子を窺うかのように立っていた。

 彼が水晶を握ると、霧が銀色の糸のようにうねり、教授の周りを包むように漂う。視界が揺らぎ汗が額を伝ったが、彼は密かな誓いを胸に霧を操り続ける。

 アリスは机の隣の棚へ手を伸ばし、ガラス瓶の一つに触れる。霧がスクリーンのように揺らめき、ロナルドが青い結晶の入った瓶を握り急いで去る姿が視えた。

 頭痛と共に眩暈が襲って来て、彼女は苦し気に息を吐く。

「……たぶんこの結晶が鍵よ」

「アリス!」

 頭痛と眩暈が彼女を襲い、膝が震える。机に手をついてようやく我が身を支えたアリスに、グレイスが彼女の手を握って叫んだ。

 その瞬間、グレイスの腕輪が青く光り霧が心臓の鼓動のように脈打った。少女の不安が霧を黒く染め、棚のガラス瓶が震えてひびが入る。

「大丈夫だ、グレイス」

 腕輪が少女の共鳴を抑え、霧が立ち消えるように静まった。

 アリスの囁きに、ジェラルドが死者の机の引き出しを開けて一本の真鍮の鍵を見つけた。表面には細かい紋様が刻まれ、冷たい光を放っている。

 ジェラルドの水晶が反応し、鍵から微かな霧が漏れた。この鍵にも術が掛けられているということだ。

「これはなんの鍵だ? 術が掛かってる」

 手に取ると、霧がジェラルドの指に纏わりつく。教授が目を逸らし、肩を竦めた。

「知らんよ、助手の私物なんぞ。もういいだろう? 出てってくれ」

 教授の強い声に驚いたのか、先程からいた学生が手にしていた書類を落とした。二十歳そこそこの青年だ。額に汗が滲み、紙を拾う手が震えていた。

「君は何か知ってるな?」

 ジェラルドの声に、彼は肩を震わせる。思わずと言った調子で書類を握りしめ、紙に皺が寄った。

「い、いえ。……ただ、ブラウン先生が言ってたんです。黒いコートの男が研究室に来て、『結晶を渡せ』って脅されたって……」

 部屋の温度が一段下がったような錯覚に襲われる。ジェラルドの水晶が強く脈打ち、霧が足元でざわめいた。

「黒いコートの男?」

 ジェラルドの声に学生は肩を震わせる。

 そこへ教授が苛立った声で割り込んだ。

「もういいだろう!  研究の邪魔だ。出て行け!」

 ジェラルドは鍵をポケットにしまい、指先に触れた水晶の熱を感じる。

「ご協力感謝しますよ、教授。また伺います」

 研究室を後にすると、霧はさらに濃くなっていた。

 廊下の窓から差し込む光は弱々しく、霧が分厚いガラスを白く染める。グレイスはジェラルドのコートを離さなかった。

「お前が見たものを繋ぎ合わせれば、きっと答えは近い」

 アリスに話し掛けたジェラルドの瞳は霧の向こうへ向けられていた。

 大学の建物を出ると霧がキャンパスを覆い、木々の枝が白い霧を纏わりつかせている。

 事務所への道は長く、霧はさらに濃くなった。ロナルドの鍵が、ジェラルドのポケットで冷たく光っていた。


 答えは、きっとこの先にある──。


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