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【第三章:影の足音】

 事務所への帰り道、ホルボーンの通りは霧に沈んでいた。

 街灯の光がぼんやりと滲み、濡れた石畳に淡い反射を投げる。路地の奥では時折馬車が走る音が聞こえるが、今は静寂が支配していた。

 グレイスがジェラルドのコートをぎゅっと掴み、震える声で言う。

「ねえ、お兄様。黒いコートの男がロナルドさんを殺したの?」

 彼女の大きな瞳が霧の奥を不安げに見つめた。左腕の腕輪が光り、霧が彼女の周りでざわめき始める。

 「共鳴」の力が漏れ、不安を増幅しているのだ。もし腕輪がなければ、この不安が広範囲に広がって多くの人間を巻き込んでしまう恐れがある。

 ジェラルドが穏やかに答えた。

「かもしれない、グレイス。だが証拠がないんだ」

 彼の声は落ち着いているが、瞳は霧を貫くように遠くを見据えていた。コートのポケットで水晶がまた熱を持つ。アリスがランタンを手に、冷静に口を開いた。

「ロナルドが持ち出したらしい結晶。……あの鍵と青い結晶がヒントよ」

 アリスの瞳が考え込むように細まり、手に持つランタンの光が霧に揺れる。

 彼女が屈んで石畳に触れると、誰かが急いで走る姿と青い光が一瞬輝く映像が浮かぶ。強い眩暈に襲われて、アリスは額を押さえた。

 「昔」はもっと鮮明に流れるように視えていた映像が、今はほとんどの場合、静止画がフラッシュバックのように浮かぶだけだ。苦痛とともに。

「この通りに最近、能力者がいたわ。『誰か』が近いかもしれない」

 そのとき、背後から不規則なリズムで近づく足音が霧を震わせた。

 振り返ったジェラルドの視線の先に、黒い影が現れる。ハットを目深に被り、ロングコートの裾がゆらりと揺れた。

 街灯にその目だけが光り、周囲を青白い光が取り巻いている。

「……監査局員だな? お前も『光』の能力者か」

 ジェラルドは低く唸り、ポケットから取り出した水晶を握った。

 霧が彼の周りに不自然に集い、生き物のように蠢き始める。ジェラルドの水晶がまるで心臓が鼓動するようになり、能力者の気配を警告するようだ。

「グレイス、アリス、下がって!」

 ジェラルドが指示を飛ばす。彼の瞳が光を宿し、指先から微かな霧が漏れ始めた。

 男は一瞬動きを止めてジェラルドを睨みつける。青白い光が彼の周りを取り巻き、光の能力者の気配を漂わせていた。

 ジェラルドの「霧の支配」の代償は視界の歪みだ。彼の目には男の姿が霧に揺れ、まるで幽霊のようにぼんやりと霞む。

 いきなりその光が刃のように形を変えてジェラルドを目掛けて飛んで来た。霧の障壁に阻まれた光が火花のように散る。

 一撃を躱された相手は、迷うように光を揺らめかせていた。

 そして再度放たれた光が、ジェラルドの障壁を破りコートを切り裂く。

「お兄様!」

 グレイスが叫び、ジェラルドのコートを握り締めた。霧の壁が厚くなり、光の刃を弾き返す。「共鳴」の力が無自覚のうちに漏れ出しているようだ。

 ジェラルドが前へと進むと、男の光が一瞬揺らぎ、まるで霧の奥に合図を送るように光が短く点滅した。男が踵を返して路地へと走り去り、霧がその背を飲み込む。

「待て!」

 グレイスの叫びが胸に刺さり、歪む視界を振り払うように、ジェラルドが霧を割って駆け出す。

「ジェラルド!」

 アリスがグレイスの手を取り、二人もその後に続いた。

 路地は細く、街灯もない。煉瓦の壁は黒く煤け、冷たい湿気が頬に張りついた。霧の層が足元を這い、足音だけが冷たく響く。角を曲がるたびに男の姿は影のように遠ざかった。

 アリスの手のランタンの光が弱々しく揺れる。グレイスの小さな靴が石畳を叩いて、スカートがふわりと広がった。

「お兄様、危ないよ! やめて!」

 グレイスの声が闇に吸い込まれる。アリスがランタンを掲げ、霧の奥を睨んだ。

 追っていた足音が止んだとき、突然霧の向こうに高い塀が現れた。

「ここで消えた……?」

 アリスがランタンを掲げ、周囲を見回した。光を従えた男の姿はどこにもない。


 遠く、馬車の車輪が石畳を叩く音が霧に吸い込まれて行った。


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