ロンドンの街は今日も変わらず夕霧に沈んでいた。
街灯の灯りがぼんやりと滲み、歩道の石畳に長い影を落とす。市民は霧を避けるように家路を急ぎ、道路を馬車が行き交う。
事務所でグレイスはソファに身を縮め、毛布にくるまったまま震えていた。金髪が頬に張りつき、青い瞳に涙が溜まっている。
「怖かった……。怪物なの?」
ジェラルドが暖炉に火を入れて、部屋に温もりを加える。
「怪物じゃない、グレイス。人間だ。
穏やかに言ったジェラルドはソファに近づき、グレイスの肩に手を置く。大きな手は温かく彼女の恐怖を和らげた。
グレイスが震える声で言う。
「でもなんでロナルドさんは殺されちゃったの? 悪い人じゃなかったんだよね?」
「グレイス、悪い人じゃなくても知りすぎると危ないことがあるの。ロナルドは大切なものを守ろうとしたのよ」
アリスの声は温かく、少女に安寧を与える。グレイスが小さく頷いた。
「うん。……でもお兄様、約束して。危ないことしないでね」
グレイスの瞳がジェラルドを捉え、純粋な心配が滲むのにジェラルドが微笑んだ。
「ああ。約束するよ、グレイス。俺もアリスも、お前を守る」
そこへ依頼人だったマシューが慌てた風にやって来たのだ。
「ウィットモアさん、ロナルドの部屋を片付けていたらこんなものが! 引き出しの一番奥に押し込むみたいに入ってたんです」
やっと今日になって彼の部屋に入る許可が出た、というマシュー。
「どうせ特に調査すらしないのに、部屋は立ち入り禁止にして。
憤りを隠さない彼の古巣への苦言に、ジェラルドは思わず黙り込む。
おそらく監査局からの圧力が掛かったのだろう。内部から見ていた身でも、そういう点があるのは決して否定できないからだ。
事務所の暖炉の火が揺れる。マシューが持参したロナルドの丸められたメモを机に広げた。震える字で書かれた一文。
『遺産を守るのは光の能力者の使命だ。時計塔に。』
アリスが紙片に触れると、ロナルドが元教会の時計塔の資料を開き青い結晶の瓶を手にする姿が「透視」で捉えられた。
「彼はこのメモを他の誰にも見られないようにしたのよ。結晶を時計塔に隠すために」
眩暈と吐き気に耐え、彼女は机に手をついて苦し気に話す。
「どうかお願いします」
頭を下げたマシューが帰って行った後。
「監査局員か。……ロナルドは何か秘密を知ってたんだな。お前が見た結晶が意味を持つものなんだろう」
「ロナルドはきっと、監査局員からあの結晶を守ろうとしたのね。でも大きな代償を払ったわ。──生命の」
アリスの言葉に、ジェラルドがマシューから受け取ったメモを手に取りインクの滲みをじっと見つめる。
「この筆跡は追い詰められて書いたものだ。誰かに見つかる前に、結晶を隠したかったんだろう」
「メモはきっとマシューが見つけてくれると信じてたんじゃないかしら」
彼らには、親友としての強い絆があったのだ。
「時計塔か。ロナルドが命を賭けた秘密はそこにある」
ジェラルドがメモを見つめて呟いた。
「監査局に追われながら、結晶を隠すために使われていない時計塔を選んだ。鍵とメモを分散させたのは、追跡を遅らせるためだ」
「お兄様、時計塔って怖いところ?」
グレイスがソファから顔を出して囁く。
「怖くても行くさ。真実が待ってる」
ジェラルドが答えるのにアリスが言い添えた。
「グレイス、もう寝る時間よ」
素直に頷いた少女がソファから立ち上がり、奥の自宅部分へ向かった。床の木の板は古びており、彼女の小さな足音で軽く軋む。
寝室に続く扉が閉まる音が響き、事務所に静寂が戻った。
ジェラルドとアリスが机に向き合う。
「あの結晶、ただの光の遺産じゃないわ」
アリスの声には鋭い響きがあった。
「ロナルドが研究してたのは能力の遺産の核心だったんだろう」
ジェラルドが椅子に凭れ直し、銀の懐中時計を開く。かすかな霧が漏れ、室内の空気に溶けで行った。
「時計塔が次の手がかりね。明日の夜、行ってみる?」
「そうだな。だがハリソン教授の動きも調べたい。あいつは絶対に何か隠してる」
そのとき、アリスがジェラルドの手に触れた。彼女の指は冷たく、金の指輪が暖炉の光に光る。
「ジェラルド。……グレイスの腕輪は最近反応が強いわ。封印が持つかしら」
アリスの声には特別な不安が滲んでいる。ジェラルドは彼女の手を握り返した。
「アリス、お前が作って俺も支えた封印だ。グレイスの力は強いが、俺たちがいる。何があってもあの子を守るのが俺たちの使命だろ?」
アリスが小さく頷き、目を伏せる。
彼女の指を伝う冷たさに、ジェラルドはアリスの痛みを押し殺す姿を重ね、胸が締め付けられるのを抑えた。
ジェラルドは彼女の手を握り返した。
「アリス、お前が作って俺も支えた封印だ。グレイスの力は強いが、俺たちがいる。何があってもあの子を守るのが俺たちの使命だろ?」
七年前。
十四歳でグレイスを産んだ夜、霧が彼女の涙を隠した。ジェラルドもまた、同じ痛みを抱えている。あの日の約束が今も二人を繋いでいた。ジェラルドから贈られた金の指輪と共に。
アリスの、だけではない。アリスとの間に生まれた愛しい
若すぎる母に周囲は困惑した。結局、グレイスは当時四十代だったジェラルドの母が産んだ子、つまり彼の「妹」ということになったのだ。
存在そのものへの祝福としての「グレイス」と、森から派生した霧を纏う「シルヴィア」という名をつけたのが、二人が唯一「親として」できたことだ。
そしてアリスは「メイド」として二人と共に暮らすことになった。
能力を使うたびにアリスを襲う封印の代償である激しい痛みは、自らの命を削る覚悟でもあった。決して
ジェラルドがヤードを辞めたのも、アリスの妊娠がきっかけだ。
団体に属していては、いざという時に身動きが取れないかもしれない。噂になってからでは遅いのだ。
ジェラルドは身軽な個人となって愛する「家族」を守るため、天職だとさえ信じていた刑事の仕事にも未練など感じなかった。
己には、もっと大切なものがある。──刑事ではなくともできることはある、と。
結果的には親子として過ごすことはできなかったが、常にアリスとグレイスはジェラルドの家族で生命の根源だ。
ジェラルドの「霧の支配」は操作する類のものだが、アリスの「透視」は過去を視るものだ。同じ霧の能力者同士の子であるグレイスの力は二人よりさらに強大で、だからこそ本人の自覚のない今は封印が必須だった。
その夜、事務所の窓の外で霧が舞った。一瞬黒い影が街灯の光に浮かんだ気がしたが、すぐに消える。ジェラルドが窓に近づき、カーテンの裾を捲った。厚いガラスに付いた水滴が滑り落ち、霧の濃さを物語る。
「光の遺産か。ロナルドはいったい何をしたんだ?」
ジェラルドの呟きが部屋に響き、暖炉の火が静かに揺れた。霧はさらに濃くなり、街を飲み込んでいた。
──事件の真相は、まだ誰も知らない。