翌日の夕暮れ。
街灯が点灯し始め、淡い光が霧に滲んで街並みがぼんやりと浮かぶ。
アリスはランタンを持ち、ストライプのワンピースの上にショールを羽織っていた。彼女の瞳は冷静だが、グレイスへの心配が滲む。
グレイスは髪の赤いリボンを結び直し、左腕の腕輪を気にするように触っていた。彼女の小さな靴が事務所の床を叩く音が、いつもより力強い。
事務所を出る前、ジェラルドはコートのポケットに鍵を入れ、銀の懐中時計を手に持った。
ホルボーンの裏通りから離れ、ジェラルドとアリスにグレイスは街の外れにある古い元教会の時計塔を目指す。
馬車が石畳を走る音が遠くに響き、テムズ川から船の汽笛がかすかに届いた。
「ロナルドのメモが本物なら、時計塔に何かがあるわ。慎重に行きましょう」
時計塔への道は狭く、濡れた石畳が苔で滑りやすい。霧が足元に這い、ランタンの光が弱々しく揺れた。
塔の入り口は重い鉄の扉で錆びた鎖が半ば外れ、隙間から冷たい風が漏れる。グレイスがジェラルドのコートを握る手に力がこもり、リボンで結わえた髪が波打った。
時計塔は遥か遠い昔は聖なる祈りの場だったが、今は放置され錆びた針が空を指したまま止まっている。霧に包まれた塔は、まるで街の番人のように不気味にそびえていた。基部は石造りで蔦が絡まり、湿った苔が緑の模様を描く。
辿り着いた時計塔の内部は薄暗く、床には埃が厚く積もっていて所々に新しい足跡が残っていた。
「ほんとに幽霊がいそう。お兄様、ちゃんと守ってよ!」
「約束しただろ、グレイス。必ず守る」
ジェラルドの声は落ち着いており、強い瞳が扉を見据える。
アリスがランタンを掲げて扉に触れると、ロナルドが鍵を開けて急いで中へ入る映像が一瞬浮かんで消えた。頭痛が走り、アリスは歯を食いしばる。
「鍵は掛かってないわ。ロナルドがここに来たのよ」
塔の扉を開けた瞬間、空気の密度が変わった。埃と霧が入り混じった匂いが鼻腔を刺す。まるで時間が止まった空間に踏み込んだようだった。
グレイスがジェラルドのコートを握り、「ここ怖いよ……」と震える。
「怖いかもしれないけど答えはそこにある。グレイス、俺とアリスが一緒だ。平気だろ?」
ジェラルドが先に進み、続くアリスがランタンを高く掲げた。
塔の内部はやはり石造りの螺旋階段が上に伸びていた。その階段の下に小さな鉄の箱が埋め込まれている。金庫のようなものだろうか。
表面は錆びているが、鍵穴は磨かれたように光っていた。そこだけが「現役」のように。
鍵穴はロナルドの残した鍵にぴったりの大きさに見えた。
「待って、ジェラルド。その鍵には光の術が掛かってる。そのまま回したらロックされて二度と開かないかもしれないわ」
アリスの声にジェラルドが鍵を差し込もうとしていた動きを止めた。
彼女が鉄の扉に触れると、ロナルドが何かを唱える姿が浮かぶ。「呪文」の音にならない音を、苦しげに息を漏らしながらアリスが復唱した。今度ばかりは「透視」を途切れさせずに。
「鍵を差して。私が今の呪文を唱えれば開くはずよ」
ジェラルドの手で差し込まれた鍵に、アリスが先程の意味のわからない「呪文」を繰り返す。その声が途切れた瞬間、ジェラルドが鍵をゆっくり回すとカチリと音が響き箱が開いた。
中には青い光を放つ結晶が入った小さなガラス瓶と丸めた紙片が入っていた。結晶の光は流れ込んだ霧と響き合い、まるで生きているように蠢いている。
アリスが瓶に触れると、ロナルドがそれを手にした姿が浮かんだがそれだけだ。続けざまの「透視」に、強い眩暈と嘔吐感に襲われ足元がふらつく。
「この結晶が光の遺産なのね」
ジェラルドが紙片を慎重に広げると、インクが滲んだ震える字で書かれた一文。
『遺産は歯車とともに封印を。』
「歯車、……時計塔の歯車なら一番上にあるんじゃない?」
アリスの呟きにジェラルドが頷き、三人は螺旋階段を登り始めた。
足を進めるたびに石を踏む重い音が響く。階段には壁から剥がれた漆喰が散乱し、霧が窓の隙間から忍び込んで来ていた。
グレイスの小さな靴が階段を叩き、鈍い反響が闇に吸い込まれて行くようだ。
螺旋階段を踏んで時計塔の最上部に辿り着くと、そこは円形の部屋だった。
部屋の隅には時計の大きな歯車が残されている。長年放置された証に油がこびりつき、鉄と油の匂いが立ち込めていた。
中央に置かれた石の台座は表面に紋様が刻まれている。ロナルドが遺した鍵の紋様と同じ……。
ジェラルドが水晶を掲げて霧を操ると、台座が光り始めた。
「ここだ。封印するのは!」
視界が霞んで見えないジェラルドに変わり、アリスが受け取ったガラス瓶を手に台座に近づいた。
青い結晶の光が彼女の緑の瞳に映っている。
「ロナルドはここで結晶を封印しようとしたんだわ。監査局員から守るために」
おそらくは、彼自身で封印するつもりだったができなかったのだろう。塔の下に隠すのが精一杯だったのではないか。
そして逃げ切れずに捕まって……。
そのとき、階段の下から足音が響いた。石を打つ音が小刻みに続き、誰かがこの部屋を目指している。ジェラルドが水晶を握り、霧を障壁に変えた。
「誰だ?」
ジェラルドの声が部屋に響くが返事はない。足音が速くなり、グレイスが小さな悲鳴を上げる。
「アリス、ランタンを」
ジェラルドが階段に向かうと、足音が近づいて霧の向こう側に人影が現れた。黒いコートにハットを被った男だ。
青白い光を身に纏わせているが、顔は影に隠れ目だけが青い光を放っている。
「結晶を渡せ。光の遺産は我々のものだ」
男の声が低く響く。ジェラルドが水晶を掲げると、霧が動き出した。部屋の空気が重くなる。
「ロナルドを殺したのはお前か? どちらにしても仲間だろう!?」
ジェラルドの声に男が笑う。
霧が彼を取り巻くが、その壁を切り裂くように光の刃が三人に向かって来た。ジェラルドが霧を操り、障壁で刃を弾く。額に汗が滲み、視界が不鮮明になる。
「ジェラルド、少しだけ時間を稼いで! 封印を完成させるわ!」
叫んだアリスが、ガラス瓶から取り出した青い結晶を台座の窪みに押し込んだ。彼女の瞳が光を捉え、監査局員の攻撃の刃が一瞬途切れるのを見るが、頭痛に「呪文」を唱え直す。
「アリス、頑張って!」
グレイスがアリスのスカートを握り締め、腕輪を押さえる手が震えた。
腕輪が熱を持ち、胸の奥で何かざわめく感覚に彼女が目を瞑る。霧の壁が厚くなり、光の刃を弾き返した。
……腕輪にひびが「共鳴」共鳴」の力が目覚める。そのひびは、まるで光の結晶が反応したかのように広がった。
グレイスが呼んだ不自然なほどの霧が室内に渦巻き、台座の光が増幅された。刻まれた紋様が端から青い光を放ち始める。塔に絡まる蔦のように。
「できた……!」
アリスが呟いたその瞬間、霧が爆ぜて男の笑い声が響いた。
「封印は遅い。光は我々のものだ。『光の遺産』は能力者の力を暴走させ、──社会の均衡を崩す」
男がジェラルドの張った霧の障壁の向こうで一瞬強い光を放つと、溶けるように消えた。ジェラルドは息を整え霧を鎮めると、額の汗を拭いぼやけた視界を振り払う。
「あの自信、……奴らは諦めない」
ジェラルドが呟き、三人は急いで階段を下りて時計塔を後にする。霧はさらに濃くなっていた。
「あいつの言い様からしても、封印は一時的なものよ。監査局員の目的を解かないと」
「お兄様、約束を守ってくれてありがとう。……でも、敵が追いかけてくるよね?」
アリスの言葉にグレイスがジェラルドのコートに顔を埋め、小さな声で言う。
「来ても俺たちがいるさ」
彼女の震える声に、ジェラルドは監査局への怒りが霧のように胸に広がるのを感じた。この幼い、大切な存在を脅かす敵を許すわけにはいかない。
「来ても俺たちがいるさ」
ジェラルドの手がグレイスの頭を撫で、彼女を宥める。
アリスが屈んでランタンを地面に置き、「呪文」を思い出すように顔を顰めた。
そのままジェラルドのコートとアリスのスカートを握り締めて離さないグレイスを気遣いつつ事務所に戻ると、火を入れた暖炉から暖気が室内に広がる。
奥の寝室でグレイスを寝かせてから、アリスが机にスケッチブックを広げてペンで紋様を描き始めた。
「この紋様が遺産の鍵よ。ハリソン教授も監査局員と繋がってるかもしれないわ。……『仲間』とは限らないけど」
「ロナルドの光の遺産は必ず守る。『無駄死に』には決してさせない」
三人の「霧」ではないが、同様に数少ない「光」の能力者。
窓の外で霧が揺れ、黒い影が一瞬街灯に浮かんだ。
異能力者たちの戦いは、始まったばかりだった──。