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【第六章:光と霧の境界】

 霧が濃いロンドンの朝、事務所の暖炉が赤々と燃えていた。

 窓の外では、街灯の光が白い靄に滲み、石畳に淡い影を投げる。

 昨夜の時計塔での攻防が、ジェラルド、アリス、グレイスの胸に重く残っていた。

 三人は事務所の古いオークの机を囲み、緊張が空気を重くしている。

 アリスがスケッチブックをそっと置き、疲れた緑の瞳を上げた。

「台座の紋様をどうにか思い出して描いたけど、こんなものが役に立つかどうかわからないわ」

 スケッチには、時計塔の石の台座に刻まれた複雑な線がペンで再現されていた。渦巻きと交差する幾何学模様が、まるで霧そのものが形を成したようだ。

 彼女の声は掠れ、額に汗が滲む。

 ジェラルドがスケッチを手に取り、暖炉の火に照らされた顔で目を細めた。銀の懐中時計がコートのポケットでかすかに脈打ち、霧の気配を伝える。

「無意味な紋様じゃない。鍵と同じだ。あの台座は教会にも時計塔にも関係ないんだからな。……あの塔の古さからして、後から置かれたものに違いない」

 彼の声は穏やかだが、言葉には探偵、……元刑事の確信が宿る。アリスが小さく頷き、肩の力を抜いた。

「これ、どこかで見た気がする……」

 グレイスが入っていた腕輪のひびを不思議そうに撫でながら、アリスが描いた紋様に目をやりふと口を開いた。

 その言葉にジェラルドが顔を上げ、スケッチブックを手に取る。

  描かれた紋様をじっと見つめた彼は呟いた。

「大学じゃないか!? ハリソン教授の研究室だ。彼の机の上の真鍮のベルにも何か紋様があった。やはりあの教授の挙動が引っ掛かる。あれは何か隠してるからじゃないか」

 ジェラルドは教授が会話中に目を逸らし、神経質にシャツの袖を弄っていた動作を思い返す。

「ベル、……そうかも」

 グレイスは自信なさ気だ。

「あのとき教授が、青い結晶の瓶を持って誰かと話してるらしいのを視たわ。その男も私たちの前に現れた男も顔は見えなかったから、監査局員かはわからない。でも教授が監査繋がっているいる可能性は十分あるんじゃない?」

 ジェラルドがスケッチを見つめ、記憶を辿ろうとしている。

 グレイスがジェラルドのコートを握り、不安げに尋ねる。

 窓の外で、霧が不自然に渦巻いた。街灯の光に黒い影が一瞬浮かび、すぐに消える。

「ただ、奴が監査局と関係があるならロナルドの机を徹底的に調べるんじゃないか? 俺たちに簡単に見せるとしてもそのあとだろう。──でも鍵は残っていた」

「お兄様、教授って悪い人?」

 グレイスがジェラルドを見上げて、不安気に尋ねる。

 ジェラルドは彼女の髪を撫で、穏やかに答えた。

「まだわからん。でも、真実を突き止めるよ」

 「遠くで何か光ってる気がする。でも怖いだけかも」

 その声は小さく、共鳴の力が揺らぐが、確信には至らない。金髪に結んだ赤いリボンが、彼女の不安を映すように揺れた。

 窓の外で霧が不自然に渦巻き、街灯に黒い影が一瞬浮かぶ。ジェラルドが水晶を握り、霧を操って探るが、影は消えた。

「監査局は諦めてない。結晶を今も狙ってる。封印がいつまで持つかだ」

 ジェラルドは立ち上がり、ポケットの水晶を握った。霧が彼の意志に応じて窓辺を這うが、影の気配は掴めない。

 アリスが低く警告した。

「監査局は諦めてない。それに奴らは何をするかわからないわ。もしグレイスが秘めたものを知ったら──」

 グレイスが腕輪を気にする仕草に、アリスが彼女をそっと抱きしめる。グレイスの金髪が頬に触れ、暖炉の温もりが二人を包んだ。

「大丈夫よ、グレイス。私たちがいる。いつもそばにいるから」

 事務所内の霧が一瞬青く光り、グレイスの「共鳴」が遠く塔に封印した結晶と反応した。彼女が驚いて腕輪を押さえると、ひびがわずかに広がるが、力は収まる。

 ジェラルドがグレイスの両肩に大きな手を置き、穏やかに言う。

「お前は弱くない。でも必ず俺たちが守る」

 暖炉の火が小さく揺れ、霧が窓ガラスを叩いた。グレイスがジェラルドのコートに顔を寄せ、囁く。

「ロナルドさんが守ろうとしたもの、私が守れる?」

 アリスが微笑み、彼女の手を握った。

「私たちが一緒に守るわ、グレイス。約束よ」

「今夜、大学へ忍び込む。ハリソン教授を追い詰める証拠を掴むんだ」

 監査局の影が迫る予感が、事務所を静かに包む。


 ──霧の奥で、青い光が一瞬揺らめいた気がした。


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