【第八章:均衡の暗示】
「本当に申し訳ない。あなたたちを危険に巻き込むことになって……」
ジェラルドは、今日も夜遅くまでグレイスを見ていてくれるという書店主のチャールズとメリッサに頭を下げる。
「結局何ともなかったんですからお気になさらず。それより先生こそ気をつけてくださいよ」
「何があろうとお嬢ちゃんを守ってみせますわ、先生。この人が次に情けなく倒れたら、蹴飛ばしてでも起こしてやります」
店を閉めたあと駆けつけてくれた夫妻にグレイスを託し、ジェラルドとアリスは事務所を出た。
濃霧がロンドンの街を覆い、街灯の光が白い靄に滲んでぼんやりと浮かんでいる。人気のないアプローチを辿って、二人は再び大学のキャンパスへ足を踏み入れる。
石造りの建物が霧に溶け濡れた蔦が壁を這う姿は、まるで過去の亡魂が息を潜めているかのようだった。キャンパスは静寂に支配され、学生たちの喧騒は遠い記憶のように感じられた。
ジェラルドのコートのポケットで、銀の懐中時計が微かに脈打つ。霧が彼の意志に応じるように足元を這い、水晶の熱がその気配を警告していた。
アリスはランタンを手に、外出用のワンピースの上にショールを羽織り瞳に警戒の色を宿している。彼女の指先は冷たく、グレイスの封印の代償が彼女の体を蝕んでいることをジェラルドは痛いほど感じていた。
「ハリソン教授が鍵だ。奴が監査局とどう繋がっているのか、必ず突き止める」
ジェラルドの声は低く、霧の奥を見据える瞳には決意が宿っていた。アリスが小さく頷き、ランタンの光を掲げて廊下の奥を照らす。
「でも、教授がすでに逃げていたら? もし『仲間』なら、情報は陶に伝わってるでしょうしあり得るわ。研究室に何か手がかりが残っているといいけど……」
彼女の声には不安が滲み、頭痛を堪えるように額を軽く押さえた。
長い廊下の突き当たり、重いマホガニーのドアがハリソン教授の研究室を示していた。ジェラルドがドアノブに手をかけると簡単に回り、よく見ると錠が壊されていることがわかる。
ドアを押し開けると室内は荒れ果てていた。本棚の化学書が床に散乱し、ガラス瓶が割れて薬品の匂いが鼻をつく。机の上には書類が乱雑に広がり、誰かが急いで何かを探したような痕跡が残っていた。
「教授はもうここにはいない……。逃げたか、それとも連れ去られたか。」
ジェラルドが呟き、散らばった書類を拾い上げる。
そこには化学式や結晶のスケッチが描かれていたが、ロナルドの青い結晶に関する直接的な記述は見当たらない。
アリスが壁に触れ、「透視」を試みる。彼女の緑の瞳が一瞬光り、断片的な映像が脳裏を過った。──ハリソン教授が青い光の瓶を手に、黒いコートの男と話している姿。だが、男の顔は霧に隠れ、映像は途切れる。
頭痛が彼女を襲い、アリスは額を押さえて息を整えた。
「やっぱり教授は監査局と関わっていたわ。でも、詳細まではわからない……。ごめんなさい、私にはここまでが──」
彼女の声は掠れ、ジェラルドが心配そうに彼女の肩に手を置く。
「お前が謝ることなんて何もない。無理するな、アリス。少し休め」
そのとき、ジェラルドが教授の机の引き出しの違和感に気づいた。半分開いた引き出しの縦のサイズと内部の深さが違うように思える。考える前に手が伸びて引き出しを引き抜くと、僅かに残っていた中身をすべて取り出し、逆さにする。薄い偽装の底板と共に、古びた革装のノートが床に落ちた。引き出しの底が「隠し場所」になっていたのだ。
ノートの表紙には「霧と光の均衡」と文字が刻まれ、ページは黄ばんでいた。ジェラルドが開くと、細かい文字でびっしりと書き込まれた文章が現れる。
「『霧と光は均衡を保つことで世界を守る。だが、共鳴がその均衡を崩すとき、災いが訪れる。監査局は均衡の守護者として設立されたが、その理念は時と共に歪み……』」
ジェラルドがその文章を読み上げると、アリスが目を細めた。
「『共鳴』……。グレイスの力が鍵だということね。監査局の起源、……だけど今の監査局は別の目的を持っている可能性があるわ」
ジェラルドがノートを手にページをめくる。
「『均衡の祭壇はテムズ川の地下に眠る。霧と光の真実が隠されている』祭壇か……。これが次の手がかりだ」
彼の声に確信が宿るが、同時に新たな疑問が湧き上がる。
ハリソン教授がこのノートを残した意図は何か。監査局から逃げたのか、それとも別の目的があるのか。
その瞬間、ロンドン全体の霧が異常な動きを見せ始めた。
街灯の光が一斉に揺らめき、霧が青く輝く波となって広がっていく。市民の間で「霧が人を飲み込む」という噂が囁かれ、街がざわつき始める。ジェラルドの水晶が強く脈打ち、霧が彼の周りに不自然に集まった。
「この波動はおそらくグレイスだ……。『共鳴』が街全体に影響を与えている!」
ジェラルドの声に焦りが滲む。アリスがランタンを握り直し、急いで言う。
「事務所に戻らないと! グレイスが危ないわ」
二人が大学を後にして事務所へ急ぐ道中、街の異変はさらに顕著になっていた。馬車の車輪が石畳を叩く音が遠くに響き、市民が慌てて家路を急ぐ姿が見える。霧はまるで生き物のように渦巻き、青い光がその中に脈打っていた。
行く手を阻む霧を割り開くジェラルドの視界が歪み始める。
能力の代償が彼を苛むが、グレイスを守るためならどんな痛みでも耐えられるという決意が彼を突き動かしていた。
──一刻も早く、その無事を確かめたいと心が逸った。