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<3・Accident>

 靴箱では、既に駆けつけてきていた先生たちが必死で叫んでいた。


「皆さん、教室に戻ってください!危ないので、こちらに近づかないでくださいー!」


 危ないってどういうこと?とかさねは江留と顔を見合わせる。不明瞭な説明をされては、かえって気になってしまうのが人間というものだ。同じことを考えている生徒は他にもいるようで、先生たちの意向に反して一向に人が捌けていく様子がない。


――何が起きたの?


 かさねは人ゴミのすき間から、そっと靴箱の方を覗いた。そこから見えたのは、泣いて地べたに座り込んでいる三人の女の子だ。女の先生が必死で彼女たちを慰めており、別の先生が携帯電話で救急車を呼んでいるのが伺える。

 理由は明らかだった。座り込んでいる女の子のうち、一人が手から血を流しているのだから。しかもかなりの出血で、靴箱の床に血痕が飛び散っている。変な動物に手を噛まれたらしい、とさっき男子は言っていたけれど――そう思いながら詳しく観察したかさねはぎょっとしてしまった。


「痛い、痛いよう、痛いよう……!」


 抑えている彼女の右手は――人差し指と親指がなくなっているではないか。しかも、近くに指らしきものが落ちている様子はない。

 どうやら泣いている女の子のうち、さほど傷がなさそうに見える二人は怪我をした少女の友達ということらしい。やや距離があるのと、俯いているので三人の顔がわからない。ただ、怪我をした少女は男子生徒いわく、うちのクラスの虎澤綾とらざわあやではないかというのだ。


――な、な、何が……!?


 男の先生の声が再び響き渡る。


「皆さん、教室に戻ってください!危ない動物が近くにいる可能性があります!戻ってくださーい!」


 動物。

 綾は、侵入してきた獣か何かに、指を噛み千切られたというのか?


――そ、そんなことある?小学生の指を噛み千切るほどの動物が、この近くをうろついてるっての……!?ここ東京なのに!?


 渋谷の一等地、というほどではないが。それでも山が近くにあるわけでもないそこそこ大きな街の一角だ。熊や猿が出たなんて話は今まで一度も聞いたことがない。ましてや、子供を襲うなんて前代未聞ではないか。

 この学校の近く、特に靴箱の付近にいるならなるほど、駆除するまで安全とは言えないだろう。とりあえず教室に戻って待機しておいてほしい、というのは至極真っ当な考えだ。


「も、戻るで、かさねちゃん。嫌な予感するわ」

「う、うん……」


 江留に促され、かさねはその場を後にしようとした。その時ふと、群衆から少し外れた場所で騒動を見ているひとりの少女に気付いたのである。眼鏡をかけた、おさげ髪の文学少女。彼女も、うちのクラスの生徒だ。


――あれは、猫山さん?


 かさねは思わずぎょっとしていた。

 クラスメートの猫山瀬里奈ねこやませりなは――血だらけで泣いている少女たちの姿を見て、明らかに楽しそうに笑っていたのだから。




 ***




 騒動もあってか、ホームルームはなかなか始まらなかった。一度担任の先生が教室に来たが、出席を取ることもせずにすぐに「状況がわかるまで皆さん待機していてください」とだけ指示していなくなってしまったためである。

 この様子だと、一時間目の授業は吹っ飛ぶかもしれない。勉強が苦手なかさねからすると(しかも一時間目は大嫌いな英語だ)不謹慎ながら嬉しいと思ってしまわなくもないのだが。


「一体何があったんだろうなあ?」

「さあ……?」


 そして、待機だの自習だの大人しくしてろだの、そう命じられたところで静かにしていられるとは限らないのが子供というものである。六年生なので下級生よりは自制がきくが、だとしてもまだまだ好奇心旺盛な子供であるのは間違いないのだから。

 案の定、教室は靴箱での騒動で持ち切りである。


「あたし、実はちょっとだけ見たんだよ。虎澤さんたちが、変な生き物に襲われるの!」


 女子生徒の一人が、そんなことを言っているのが聞こえた。


「なんかね、虎澤さんたちが登校してきてね?虎澤さんが上履き履き替えようと靴箱開けた瞬間……中から黄色いものが飛び出してきたの!」

「黄色いもの?ピカチュウかよ」

「マジで一瞬ピカチュウかと思った!けど、そんな可愛いもんじゃなかったって!だって、いきなり虎澤さんの手に噛みついたんだよ?で、すんごい悲鳴上がってた。指が、指が、って言ってたから多分食いちぎられたとかそんなんじゃないかな。こう、大きいネズミみたいなサイズだったと思うんだけど……そいつは虎澤さんが悲鳴上げて泣きだしたら、するっと靴箱の下に入って消えちゃったの」

「え、ってことはまだ学校の中にいんのか?」

「わかんない。先生達もすぐ駆けつけてきたし、人もいっぱい来ちゃったし……そこから先は何も見えなかったから」

「うわあ。よくわかんないけどこえー」

「本当にポケモンみたいなのがいたりして?」

「ポケモンはそんな狂暴じゃないでしょー?」

「いやいやそれ言ったらアルセウスのやつなんかさぁ……」


 段々、話が脇に逸れていってしまったようなので、そこでかさねは聞き耳を立てるのをやめた。某有名なゲームのマスコットに例えるなんて、少々不謹慎としか言いようがない。それに、怪我をしたであろう虎澤綾のことを、彼らがまったく心配していないのもなんだかなあ、といったかんじだ。

 まあ、一番彼女のことを気に掛けるであろう取り巻きの友人達は、一緒に救急車に乗せられてしまったようなので仕方ないのかもしれないが――。


「なんか、みんな呑気やな」


 同じことを思ったのだろう。苦い表情で江留が告げる。


「怪我したのが虎澤チャンやなかったら……もう少し心配したんかなあ」

「なんか、複雑だね……」

「せやな」


 自分達がこんな会話をするには理由がある。虎澤綾という人物が、ちょっとした問題児であったからだ。

 長い髪のてっぺんにお団子をまとめたような髪型の、とても可愛らしい顔立ちの少女。そこそこ裕福な家のお嬢様らしく、いつも綺麗な服を着て取り巻きを連れて歩いているタイプだった。お嬢様のような上品な喋り方をし、先生受けは悪くなかったようだが――実のところ、知っている人間は知っている。彼女がなかなか陰湿なタイプであるということを。

 表でいじめをするようなことはしない。しかし、SNSを使って、気に食わない生徒や先生の悪口を言いふらすことを繰り返すような少女だったのだ。元々、幼い頃からインターネットで、嫌いな芸能人やスポーツ選手を叩くのを趣味のようにしてきた経緯があるらしい。

 彼女の表の顔しか知らない者達は“品行方正な優等生”だと解釈し、裏まで知っている人間は嫌われないように距離を取る。そして、彼女と極めて親しい友人達は、女王様のごとく彼女を崇めて持ち上げる。ようは、そういう人間だったのである。きっと、相当恨みも買っていたことだろう。

 このまま教室からいなくなってくれた方がいい、その方がきっとクラスの雰囲気も良くなる――なんて。心の中でそう思っている生徒も少なくないのかもしれなかった。


「……確かに虎澤さんは、アレな人だったけど」


 気分が沈む。気づかなくても良い、人の暗黒面を見てしまった気分だ。


「だからって、あんな大怪我していい理由にはならないよ。怪我したの、右手だったっぽいじゃん?でもってちぎられた指が戻ってこなかったら、一生そのままでしょ。小学生の女の子が利き手そんなことになるなんて……いくらなんでもあんまりだよ」

「かさねちゃんは優しいなぁ」

「優しくないよ。でも。一人の人間としてさ、肯定していいこととダメなことってあるなって思うだけ。いくら悪い人で、仮に罰が必要なんだとしてもさ。その償い方っていうのは、一つじゃないわけでしょ?個人的には悪人は生きて反省することにこそ意味があると思ってるし……」

「なるほどねえ」


 因果応報と言ってしまえばそれまでなのかもしれないけれど。でも、それにしたって罰が少し過激すぎると思うのは、自分だけなのだろうか。しかも、それを周りが喜ぶというのが恐ろしいと感じてしまう。

 虎澤綾がやってきたことは、それほどまで忌み嫌われる行為だったのかもしれない。でも恐らく彼女が助長したのは、自分の行いが正義だと信じ込んでいたからこそではないだろうか。それこそ、ツイッターで不倫した芸能人を、みんながよってたかって叩くのと一緒だ。自分は悪を断罪している、正しいことをしていると思うからこそ彼らはその行為に罪悪感を感じない。時に行き過ぎるほど相手を追い詰めてしまうのである。――時にそれが、恐ろしい冤罪を生むにも関わらず。

 虎澤綾は酷いことをしたんだから、あんな目に遭っても同然だ、ざまあみろ。――そういうのをあっさり肯定できるようになってしまったら。盲目に正義を信じて人を傷つけてきた彼女と、一体何の違いがあるというのだろうか。


「虎澤さんの靴箱を開けた途端、動物が飛び出してきたってのが気になるんだよね。誰かが、虎澤さんが怪我をするように、変なもの仕込んだってことはないのかな」


 かさねが思わずつぶやくと、チョットマテ、と江留がストップをかけてきた。


「あんたまさか、その動物を捕まえようとか、犯人をどうにかしようとか思ってへんよな?やめときや、あんたが正義感強いタイプなのは知ってるけど、今回は笑えへんって」


 以前、かさねがいじめっこ男子たちと大ゲンカしてボコボコにしたことを知っているからだろう。江留は真剣そのものの顔で忠告してくる。


「相手がガキ大将なら喧嘩のしようもあるけど、危ない動物は小学生がどうにかできるもんやない。大人に任せとき。それに……前にガキ大将どもと喧嘩した時は、かさねちゃんも偉く先生に叱られる羽目になっとったやん。相手に問題があっても、怪我させたらかさねちゃんが悪いことになってまうんやで?」

「あのね、なんで喧嘩する前提なのさ」


 彼女の心配は、わからないでもない。それでもかさねは苦笑するしかなかった。すっかり自分のイメージが、拳で解決する系女子になってしまっているではないか。

 あの時は例外中の例外だ。あまりにも相手にムカついて手が出てしまっただけだというのに。


「最初から喧嘩するつもりじゃないって。ただ、真実が知りたいと思うだけ」


 かさねはちらり、と教室の隅を見る。

 窓際の一番後ろの席、猫山瀬里奈は何食わぬ顔で本を読み続けていた。



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