何でこんなことになるんだろう。
ネズミの鋭い牙に噛みつかれる寸前まで、かさねはそう思っていた。
――どうして私、大好きな魔術王のモンスターに襲われてるの?漫画のキャラクターがなんで実体化してるの?なんでそれを、猫山さんが持っていたの?
わからない。何もかも、何一つわからない。
確かなことは一つ。このままではきっと自分は、虎澤綾と同じようにこのモンスターにやられてしまうのだろうということだけ。指を噛み千切られる、では済まないかもしれない。だって、猫山瀬里奈は言ったのだ――かさねの口を封じろ、と。それはつまり、殺せという命令ではないのか?
――大好きな漫画のキャラの力を使って、気に入らない人をやっつけるなんて……そんなの間違ってる。いくら相手が悪人でも、こんなやり方なんておかしいよ……!
そもそも。キャラクターたちを、自分の正義を振りかざす道具にしていいとは思えない。
彼女に迎合すれば、襲われずに済んだのかもしれないが――だからといって、自分の意志は曲げたくない。曲げられない。それを捨てたらもう、大馬かさねという人間ではないからだ。
――死にたくない。私……!負けたくない、こんなところで!!
ギュッと目をつぶった、その瞬間だった。
『ならば呼べ、私の名前を!仮の主……貴女に私が力を貸そう!!』
それは、反射だった。本能的に理解出来たのだ――それが大好きな彼の声だと。
モンスターの牙が届く瞬間、かさねはポケットに手を突っ込んで叫んでいたのである。
「来て……流転の魔術師!!」
「!!」
瞼の裏で青い光が、弾けた。瀬里奈がたじろいた気配。かさねは恐る恐る目を開いて――そして言葉を失ったのである。
長い蒼い髪が、ローブがはためいている。
息を呑むほど美しい背中。荘厳な杖を携えた、魔術師。
「……ほ、本当に……貴方、なの?」
流転の魔術師。漫画そのままの姿で、アニメそのままの声で、モンスターが実体化していた。カードを掲げる、かさねの目の前で。彼は杖で、エレキテル・マウスの牙を防いでいるではないか。
「無事か、かさね」
彼はちらりと振り返り、かさねを見た。人には有り得ない美貌に見据えられ、どきりと心臓が跳ねる。見間違えるはずがない、推しの顔、声。
「いかにも、私が流転の魔術師。貴女を仮の主と認めし精霊」
「仮の主……?」
「貴女は私の手を拒まなかった。私の頼みを聞いてくれたとばかり思っていたが?」
「!」
まさか、とかさねは目を見開く。
『頼む。マスターを探すために……力を貸してくれ』
あの夢。
あれは夢などではなく、現実だったとでも言うのか?
確かに自分は、泣いている彼をなんとかしてあげたい、助けたいとそう思ったが。
「説明は後だ。まず、目の前の脅威をどうにかするのが先だろう」
「!!」
そうだ。今は詳しいことを聞いている場合ではない。混乱しているしいろいろ説明してほしい気持ちはあるが、とにかくにも猫山瀬里奈とエレキテル・マウスをどうにかしない限り自分たちの身が危険だ。
幸いなのは、ここが人気につかない校舎裏だということか。放課後なので校庭で遊んでいる生徒も少ない。今のところ騒ぎは誰にも気づかれていないようだった。
「……なるほど。まさか、貴女も選ばれた者だったなんてね」
ふん、と面白くなさそうに瀬里奈が鼻を鳴らす。
「残念極まりないわ。貴女と私が力を合わせれば、悪者をいくらでもやっつけられるのに。法が裁けないクズどもをざまぁしていくのは爽快でしょ?みんな、そういう話が大好きじゃない。貴女もなりたいんじゃなくて?正義の味方ってやつに」
「……それは違うよ」
かさねは首を横に振った。
「確かに嫌な人はたくさんいるし……虎澤さんには私も心底ムカついてたけどさ。だからって、暴力で解決していいなんてことにはならないんだよ!何より……私にとって正義が、誰かにとっては悪かもしれない。私や猫山さんにとって虎澤さんは嫌な奴だったかもしれないけど、虎澤さんのことが大事だった人もきっといるんだよ。正義の味方なんて、私はねりたくない。自分が正義だと思いこんで、誰かの正義を平気で踏みにじる人にはなりたくないよ!」
確かに、自分も過去には間違ったことをしたという自覚がある。
自分が正しいと思ったことをやった結果、誰かを傷つけてしまって後悔したこともある。でも、見失ってはいけないことは『自分にとって正しいことが、誰にとっても正しいこととは限らない』ということなのだ。
だからネットでも議論が巻き起こる。AとBの加害者のどっちの方が悪いのか?不倫した妻とされた夫のどちらに問題があったのか?介護していた祖母を殺した息子は正しかったのか?毒親を殺したとされている娘と息子は?障害のある子供を傷つけてしまった親は?
人を殺すことはいけない、傷つけることは罪とされていながら、それの正否を誰もが問いたがる。時にはあまりにも偏った意見が拡散されることもあるし、冤罪が生まれてしまうこともあるだろう。けれど、そういった意見が生まれることそのものを、他人が否定する権利などどこにもないのだ。むしろ、日本が自由な意見交換ができる国だからこそ議論が巻き起こっているとも言えるのだから。
個性がある限り、生きてきた環境が違う限り、正義が異なることなど当たり前。大切なのはその認識を常に忘れないことではなかろうか。
苛烈すぎる正義は時に、どんな巨悪より人を苦しめる。それを忘れてしまったら最後、己に全てのしっぺ返しが来るという現実を忘れてはいけないのである。
「私は私が正しいと思うことをしたい。でも、正義の味方になりたいわけじゃない。鬼の心に寄り添うこともできずに英雄になった桃太郎になんて、私はなりたくないもの……!」
言葉で止められるなら、それが一番だ。過去にガキ大将たちを叩きのめしてしまったかさねだからこそ思うのである。
だが、瀬里奈にはかさねの想いは通じなかったようだ。いかにもつまらなそうに肩を竦めたのみだった。
無理もない。今の彼女には、自分の我を通すだけの力がある。それを得てしまっている。無理矢理にでも正義を認めさせる方法があると知っている人間は、そう簡単に他人に懐柔などされまい。
「ほんと、石頭だわ」
瀬里奈は合図するように右手を上げた。
「予定変更。エレキテル・マウス。先にその目障りな魔術師をぶっ殺して」
「なっ」
「その『力』があるから、偉そうなことが言えるのよね。あんたを守ろうとしたその魔術師がぐちゃぐちゃにされたら、あんただって笑っていられなくなるでしょ?いい見せしめだわ!」
なんてことを、と思った瞬間エレキテル・マウスが跳んでいた。標的は、かさねの前に立つ魔術師だ。魔術師はすぐにステッキでマウスを振り払おうとするものの、いかんせんスピードで負けている。杖の一撃を交わして、マウスの鋭い牙が魔術師の左腕に噛み付いていた。
「ぐっ!」
しかもそれで終わらない。なんせ、エレキテル・マウスは雷属性。常に帯電している、危険な電気鼠なのだ。噛みつかれた瞬間、ばちばちばち、と青い火花が散った。傷の痛みに加えて電流を流される苦しみに、美貌の青年が悲鳴を上げる。
「る、流転さんっ!」
どうやらこの戦い、『魔術王』の漫画の世界の上での『攻撃力』より重要なものがあるらしい。実は、漫画の世界のカードゲームには、それぞれ攻撃力という数値が設定されている。1000ポイントの攻撃力を持つモンスターと1200ポイントの攻撃力を持つモンスターが戦えば後者が勝ち、1000ポイントのモンスターが破壊されるといった具合だ。
その理屈でいくと、記憶にある限りエレキテル・マウスの攻撃力は流転の魔術師より下のはず。カードバトルであったなら問答無用で返り討ちになっていたことだろう。しかし、今は流転が攻撃を仕掛けることもできず、向こうの牙を食らってしまった。スピードで優れば、攻撃力が低いモンスターでも刃を通すことができるということだ。
裏を返せば、こちらの攻撃を当てさえすればまず勝てる相手ということなのだが――。
「ぐうっ……!」
どうにかマウスを振り払うことができた魔術師。しかしローブのあちこちが焦げ、左腕からは痛々しく血が滲んでいる。どうやら魔法使いというジョブ上、どうしても機動力に関してはネズミに劣るということらしい。
「ふふふふ、上級モンスターの流転の魔術師が出てきたからどうしようかと思ったけど……反撃できないってならどうということもないわね」
瀬里奈は楽しげに命令を続ける。
「そのまま、その男を嬲り殺しにしなさい!ヒットアンドアウェイで少しずつ削っていけば、すぐに動けなくなるはずよ!最後に電撃でトドメをさしてやればいいわ!」
「ま、待って、やめて!」
かさねが叫ぶものの、マウスの動きはとまらない。再び流転の魔術師に襲いかかった。牙が彼の脇腹に食い込み、血を噴出させる。魔術師が杖で反撃するより前に後ろに跳んで攻撃を躱してくる。なんてすばしっこいのか。あっと思った時にはもう、今度は魔術師の右足に噛み付いているのだから。
「がああっ!」
痛みに悲鳴を上げ、ボロボロになっていく魔術師。なんとかしなければ、とかさねは混乱の中で思う。
そうだ、命令を下しているのは瀬里奈だ。彼女の動きを封じれば、この状況は打破出来るのではないか?
――だ、だめだ。いくら私の足が速くても……彼女のところに到達する前にネズミに邪魔されるのは目に見えてる!下手に飛び込んだら、流転さんの足を引っ張っちゃう……!
そのまま瀬里奈をぶっ飛ばしても意味はない。ならば他に何か打てる手はないのか?
今自由に動けるのも、考えることができるのも自分だけだ。ならば。
「!」
――本当に流転の魔術師が、『魔術王』のカードと同じ力を持ってるなら……!
いちかばちか。ネズミが流転の魔術師に飛びかかったその瞬間、かさねは走り出していた。いくらネズミとはいえ、空中で切り返しはできない。魔術師のところに飛んでいく途中で、かさねの方を襲うことはできないはずだ。
その隙に全速力で走る、走る。ネズミから距離を取り、瀬里奈の方へと。
「!……エレキテル・マウス!私を守りなさい!」
慌てた瀬里奈が命令を変える。思ったとおりだ。瀬里奈は成績優秀だが、体育だけは苦手な文学少女である。そして、かさねの噂も知っているはず。純粋に殴り合いの喧嘩になったら勝てる相手ではないとわかっているだろう。つまりかさねから実を守るために、マウスの力を借りたいと思うはずだ。
しかし、急な命令変更に対応できないのは人間もそれ以外も同じ。マウスの動きも一瞬軋む。慌てて地面に降り立ち、こちらに向けて駆け出そうとしてきたその瞬間、かさねは魔術師に指示を出していた。
「流転の魔術師、効果発動!『ホーリー・チェンジ』!」
「!!」
それは、漫画の中で幾度となく使われた流転の魔術師の力。マウスの連撃から逃れたこの隙ならば発動できるはず。
そう、『攻めの体制の敵を守りの体制にさせ、相手の攻撃を一ターン封じる』という魔法が!
「キ、キキキキキキキキキキ!」
マウスに降り注ぐ青い光。マウスの動きが止まり、さながらアルマジロのように丸まってしまう。
「ちょ、何してんのよあんた!」
瀬里奈が批難の声を上げるも、もう遅い。次の瞬間、彼女の体は宙を舞っていた――かさねの一本背負いが決まったがゆえに。
「馬鹿だね、あんた。……誰かに頼って運命を変えようとしたところで……自分自身は変えられないってのにさ」
どさっ!と花壇の上に投げ捨てられる少女。呻く彼女の手からこぼれ落ちたカードをかさねが拾うのと、流転の魔術師にがステッキを振り上げるのは同時だった。
ホーリー・マジック。魔術師の必殺技が、エレキテル・マウスを襲う。
「ギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャっ!!」
真っ白な聖なる光が、黄色のネズミ型モンスターに降り注いだ。光の中モンスターは絶叫し――そして、塵となって消えたのである。