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<8・Sin>

 数日後。

 指を噛みきられてしまったという、虎澤綾のその後のことが先生から知らされた。

 命に別状はなかったものの、やはり噛み切られてしまった指は元通りにならないという。人差し指と親指を失い、さらに中指にも甚大な損傷があるので元通り動くようにはならないだろうとのこと。果たして、教室でそれを聞いていた生徒たちはどう思ったのだろう。かさねの席は後ろの方なので、前を向いている猫山瀬里奈の顔を窺い知ることはできなかった。やっぱり「ざまあみろ」と、そういう感情なのだろうか。

 彼女は感染症の問題もあるため、まだ暫く入院するとのこと。

 それから取り巻きの少女二人も足を噛まれたり腕を噛まれたりしていたようだが。そちらは軽傷で、既に退院しているとのことである。ただ、学校に行くのが怖いと言って、二人とも休んでしまっている。――無理もない。あんなモンスターが突然靴箱の中から飛び出してきたのだ。また同じことが起きたら、と危惧してしまうのも仕方のないことだろう。

 そして、当然のことながら『黄色いネズミみたいな獣』は未だに見つかっていないとのこと。

 糞の形跡などもないことから、とっくに学校の外に逃げたと先生達は判断しているらしい。ただ、どこに逃げたのかまったくわからないので、暫く警察の人や自治体のひとが注意して見守るそうだ。


――本当のこと。話した方がいいのかもしれない。


 かさねは考える。

 自分と瀬里奈だけは、真実を知っている。虎澤綾に罪があったとて、それでも猫山瀬里奈がやったことは犯罪に他ならない。立派な傷害罪だ。いや、殺意があったと認められてしまえば殺人未遂を取られる可能性もあっただろう。無論十二歳なので実際に逮捕されることはなかったとしても、それ相応の罪を犯したことは言うまでもないことである。

 ゆえに、逮捕されずとも――真実を明かして、大人達にカウンセリングを受けさせるのが筋ではあるのかもしれない。彼女がこのまま無罪放免というのは筋が通らないことであるのかもしれない。本来なら彼女も、小学生とて一定の社会的制裁は受けるべきであるのかもしれない――だが。

 このような状況を招いたのは、クラスの問題を解決できなかった大人達の不甲斐なさが原因でもあると思うのだ。何より、魔術王のカードが具現化したなんて話、きっと彼らは信じないだろう。いや、実際に具現化させてしまえば信じて貰えるのかもしれないが、それはそれで今度は大パニックを招くのは必死だ。最終的には、かさねも瀬里奈もカードを取り上げられてしまうであろうということは想像に難くない。

 そうなれば。流転の魔術師たちの望み――この状況が起きた原因を突き止め、彼らを元のマスターの元へ返すということが叶わなくなってしまう。


――こういうのって、超能力問題と一緒なんだよなあ。


 はあ、と一時間目の授業を始めた先生の後ろ姿を見て思う。


――超能力なんて信じない、ていう人は。実際に超能力を見せても、暫くは「手品だ」「詐欺」だってごねて否定しまくる。で、信じたら信じたで今度は化け物扱いして大騒ぎするっつー。……どう転んでも、「超能力に理解を示して共存する」って方向には行かない、というね。


 愛がなければ見えない。そんな真実の言葉を言っていた人がいる。

 ようは、人間は都合の悪いことからは眼を背けるイキモノで、常に自分にとって都合の良い真実だけを求めているということだ。

 自分が好きな人がやった善行は目に入る。何故ならその人に対して愛があるから。

 でも自分が嫌いな人がやった善行は見なかったことにする。気づかない、あるいは「何か企んでいるに違いない」と決めつける。何故ならその人に愛がないから。

 平等に、客観的に、公平に。口で言うのは簡単だが、実際それができる人間なんて殆どいないのである。それこそかさねだって――今回被害にあったのが綾でなかったなら、もっと冷静さを欠いて瀬里奈に詰め寄っていたかもしれないのだ。そう、好きではない相手だったから、瀬里奈の正義もある程度認めることができたのかもしれない。――そう思うと、なんというか自己嫌悪で頭が痛くなってくる。


――……筋が通らないって言われるかもしれないけど。流転さんたちのためには……やっぱり黙っているしかないよね、これ。信じて、黙っていてくれる人にはいずれ話すかもしれないけど……先生たちはなぁ。


 ただ、自分一人だけでどこまでこの状況を改善できるかは怪しい。

 それとなくポケットに指を這わせながら、かさねはため息をついたのだった。




 ***




「なんかモヤモヤするわー」


 休み時間。

 はあああ、と机に突っ伏しながら江留が言った。


「結局、ナニが虎澤サンを襲ったかわからんままなんやろ?普通に怖いわ、それ。まあ、襲われたのがあの虎澤サンだったのは「ざまあ」って思わなくもないけどさあ」

「そんなこと言ったら駄目だよ。……虎澤さんがやったことには問題があったけど、それならそれで本人が反省しないと意味がないんだから。罰を受けるにしても、それ相応のやり方ってものがあるんだから」

「まるで、虎澤さんが天罰受けたって思ってるみたいやんな、かさねちゃん?なんか知っとるんか?」

「……別に、そういうわけじゃないけど」


 いけない、とかさねは口を噤む。ついつい、余計なことを言ってしまいそうになる。気を付けなければいけない。

 江留が信用ならない人間だと思っているわけではないが、いかんせん彼女は自分と同じで『魔術王』が好きすぎる人間だ。あの世界が実在して、カードたちが具現化しているなんて知ったら――喜びすぎて口が軽くなってしまうかもしれない。テンション上がるな、という方が無理なのだから。

 今はまだ、かさね自身も心の整理がついていないのだ。もう少し、もう少し考えてから江留に打ち明けようと考えていた。


――この学校だけで、二枚もカード保持者がいた。……他にもいたりするのかな、カード持っている人。




『……魔術王の漫画は私も読んでるから知ってる。あの世界に登場するカードだけで何万枚とあったはずよ。その一部であるとしても……カードが複数枚ばらまかれた可能性は、十分考えられると思わない?』




 瀬里奈の言葉が、耳の奥から離れない。




『魔術王のカードの力は魅力的だもの。……また何か、事件が起こるかもしれないわね。そのカードを拾う人間がいる限り』




 カードの力は魅力的。特に、悩んでいたり思いつめていたりする人間にとっては。

 いやむしろカードの方が、そういう人間をあえて選んでいるという可能性もあるのではないか。実際瀬里奈は、自分ではどうしようもない学校の状況を憂いていた。綾さえいなくなれば教室は平和になるはず、自分たちの悩みも解決できるはず、でもどうやって彼女を排除すればいいのかわからない――と。

 今回、瀬里奈が綾を殺さずに済んだのは運が良かっただけのような気がしてならないのだ。

 それこそ、本気で誰かを殺したい人間、消したい人間にカードが渡ってしまったら。

 それが、人間の法律では裁けない、簡単にはバレない力だとわかってしまったら。

 その誘惑を断ち切ることができる人間が、この世に何人いるだろう?


「モヤモヤすると言えばさあ」


 考え込んだかさねに何を思ったのか。江留がそれとなく、話題を切り替えてきた。


「うち、ものすごーく嫌なものがあんねん。プールっていうんやけどな?」

「あー、もうすぐプールの授業始まるもんね。江留、泳げないんだっけ。ていうか、体育全般苦手なんだろうけど」

「泳げない人間にとってプールの授業が天敵なのは、言うまでもないことだと思いますわ、ハイ」


 そう、今は五月の終わり。来月にはプールの授業が始まってしまうことになる。暑い日が続いているため、プールを楽しみにしている生徒も多い反面、カナヅチ勢にとっては憂鬱で仕方ないのだろう。


「寒い日であっても、雨じゃなかったら基本的にプールは実行されてまうねん。そりゃ、極端に気温が低かったら中止になるんやろーけど!」


 ぶうぶうと文句を垂れる江留。


「二十五メートルどころか十五メートル泳ぐのも苦行なのに、毎回泳力テストされるのほんまに苦痛でしかないわ!ついでに、男子と一緒に泳がないとあかんのもほんまに嫌や!人の水着姿にいちいちギャーギャー言ってくる馬鹿おるし!」

「まあ、セクハラしてくるやつは私が片っ端からプールに叩き落すから心配しないでよ」

「……しれっとアグレッシブな解決方法どうも。わかってたけど、なんだかんだ言ってかさねちゃんは脳筋やんな」

「口で言っても仕方ない馬鹿には暴力で解決するしかないから仕方ない」

「間違ってないけどすんごい割り切り方や……」


 過去の喧嘩を後悔はしているがそれはそれ、ぶっ飛ばした方が早いやつはそうするべきなのだ。

 特に、江留に対してどうこう言ってくる男子は水でもぶっかけて黙らせるに限るのである。大抵、彼女の胸が小学生のわりにデカいことが理由なのだから。変態死すべし慈悲はない。


「プール掃除もさせられるんやろし、ほんま憂鬱やわー」


 机の上にぐったりとつっぶして、江留はぼそりと言ったのだった。


「プールの水が急に干上がるとかして、中止になってくれへんかなー。あーいやだいやだ」

「あはは……」


 これが、洒落にならなかったのである。

 一週間後。プール開き当日になって、本当にそんなトラブルが起きてしまったのだから。

 いくら熱い日だったからといってありえない。一晩のうちに――プールの水が、全てなくなってしまうなんてことは。

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