まさかと思ったが、本当にまさかだったようだ。
プールに侵入してきていたのは――小さな男の子だった。見たところ、まだ一年生だろう。眼鏡をかけた少年は、鍵がかかった更衣室もフェンスも通り抜けてプールサイドに出現したのである。これには、傍にいた警察官も目を丸くしていた。
「な、なんで!?どうやって入ったんだ……!?」
「……っ」
直観。彼が困惑した隙をついて、かさねはフェンスに飛びついた。そしてそのまま勢いよく登っていく。
「あ、ちょ、ちょっと君!危ないだろ、降りなさい!」
「私を止めるより先に、お巡りさんも入る方法考えてよ!あの子、あのままにしておいていいわけ!?」
「……くっ!」
一理ある、と思ったのか。若いお巡りさんは困ったようにかさねと少年を見比べると、腹をくくった様子で自分もフェンスを登り始めた。フェンスや更衣室の鍵を借りてきていなかったのだろう。そして、ここで職員室に引き返して鍵を取りに行っていたら取り返しのつかないことになるかもしれない、と危惧したらしい。
こういう場合って、まず他のお巡りさんに応援を呼ぶべきじゃないのかな、とテレビで見た警察番組を思い返しながら思う。見たところかなり若い警察官であるようだし、テンパってそういうことがすっぽ抜けているのかもしれない。
――ていうか、このまま行くとあのお巡りさんが“魔法”を目撃する羽目になるよなこれ……!うう、これもう、後で口留めすること考えるしかないのかな。そんなことできるのか知らんけど!
幸い、ここのフェンスはネズミ返しの形式になっていない。上に有刺鉄線が張り巡らされているなんてこともない。足をかけて登っていけば、小学生のかさねでも乗り越えることは十分可能だった。
丁度てっぺんまで到着したあたりで異変が始まる。少年がきょろきょろと周囲を見回すと、すっと手を挙げたのである。
「……フロマージュ。あれ、ぶっ壊して」
「!」
ぴりぴりぴり、と肌に違和感を覚えた。何か、強い魔力を放つものがそこにいる。闇の中でよく見えない――そう思った次の瞬間、ぱりん!と何かが割れるような音がした。
次に、重たい金属が落下するような音。かさねは息を呑んだ。今、なんらかの方法でカメラが壊されたのだと。
――そうか、やっぱり……犯人は、防犯カメラの存在を知らなかったんだ。
焦る心を抑え、フェンスを降りていく。
――だからまず、真っ先にカメラを壊すことを選んだ。自分の目で見て、位置を確認しながら。……なるほど、懐中電灯をつけてなければ、暗闇の中でもろくに映らないと踏んでここまで入ってきたのか。
そんなに甘いものかな、とかさねは思う。カメラの映像は、カメラ本体を壊してもそれまでの分が記録されているはず。夜も撮影できるようなタイプのカメラなら尚更、暗闇の中でも映像を残せるようになっているような気がしてならない。
何にせよ、カメラを壊したなら彼は堂々と犯行に及ぶだろう。かさねがプールサイドに飛び降りた瞬間、ぽう、と薄水色の光が水辺に灯ったのだった。
丸い丸い、光。その正体が何なのかはわからない。いかんせんまだ距離がある。ただ、フロマージュと呼んでいたその名前には覚えがある。魔術王でとある女の子が使用した、水の妖精キャラだったのではなかったか。確か、その効果は――。
「今度もお願い、フロマージュ。プールの水を全部、なくしちゃって」
「よせ!」
いちかばちか。かさねはポケットに手を突っ込んだ。自分も一応学んでいる。万が一戦闘になったら人間である自分にも武器が必要だということは。ゆえに、ポケットにねじこんできていたのはたくさんの小石。道の途中で拾いながら歩いてきたのである。
これでも運動神経には自信がある。ソフトボールの授業で投手を務めたこともあるのだ。かさねの投球は正確に、薄青の光の方へ飛んでいった。さながら吸い込まれるかのように。
「ンギャッ!」
プールの水に対して魔法を使おうとしていた精霊は、予想外の攻撃に悲鳴を上げて水へ落下する。ここにきてやっと、プールサイドに自分以外の人間が侵入してきていたことに気付いたのだろう。手元でランタンをつけたところだった少年が、目を丸くしてかさねを見た。
「だ、誰……!?」
「それはこっちの台詞!君こそ誰なのさ!?プールの水に悪戯しようとしたのは君だったのか!?」
かさねが糾弾するように叫んだところで、警察官も追いついてくる。彼は目を白黒させて小さな男の子と、それからプールの上に堕ちた薄青の光を交互に見た。
「な、なんだあれは?一体君は何をしようとしてたんだ!?」
今、一番説明が欲しくてしかたないのは彼だろう。どうしたものか、とかさねが困り果てていると、意外にも少年が口を開いた。
「邪魔しないでお巡りさん。僕、すごい力持ってるんだから」
「すごい力?」
「そうだよ。すごい魔法の力がある、カードを託されたんだ。水の妖精の、フロマージュっていうんだよ。そのカードがあれば、水を自由に操れるんだ。プールの水をなくしちゃうくらい、簡単なことなんだから!」
「ま、魔法って……」
「信じらんない?信じられないよね、大人って、頭硬いもん。だから、実際に見せてあげる。僕の魔法の、すごいところ!」
フロマージュ、と少年が叫ぶ。すると、再び精霊は光を灯して浮かび上がった。今度は近くまで来たのでよく見える。光の中心に、さながらティンカーベルを彷彿されるような――ワンピースに、蝶々のような羽をくっつけた女の子がいることに。
くるん、くるん、と動き回るその妖精の顔は険しい。やっぱり石をぶつけられて怒っているらしい。
「よ、妖精?わ、私は夢を見てるのか?」
寝ぼけているのかも、とでも思ったのか。警察官は瞼をごしごしと何度も擦っている。やっぱりそういう反応だよね、としか言いようがない。かさねだって、魔術王の漫画を知っていなければ、そして二回目の遭遇でなければ目の前の光景を受け入れることなどできなかっただろうから。
が、現実を疑っている場合ではない。フロマージュがプールサイドの中心まで飛んでいき、両手を掲げて魔法を行使し始めたからだ。
プールの水が、凄まじい勢いで渦を巻く。そして、彼女が前に突き出した手に、どんどん吸い込まれて消え始めた。まずい、とかさねはもう一度ポケットに手を突っ込む。このままでは、また同じように水を吸いつくされてしまう。あの精霊の力ならば、吸い上げた水を再び戻すこともできるのかもしれないが、それには少年の説得が必要不可欠だろう。
妖精に石をぶち当てようと手を振りかぶった、その瞬間だった。
「がっ!?」
「き、君!?何をするんだっ!」
右手に走った灼熱。そして、お巡りさんの焦った声。何が起きたんだ、と思うのと少年の怒りに満ちた目が合うのは同時だった。その手には、木工用のカッターナイフが握られており、しかも僅かに血が滴っているではないか。
かさねは右手首を抑える。ぬるり、とした感触。血だ。
――カッターで、斬られた……!?あの子、カッター持ち歩いてたの!?
一年生の子供が、一体どうして。唖然として少年を見るかさね。彼は刃物を両手でしっかりと握りながら、自分も動揺したように体を震わせていた。
「邪魔しないでって言ってんじゃん!僕……僕は絶対、プールは嫌なの!絶対絶対絶対絶対、プールは中止になってくれなきゃ嫌なんだから!!」
「どうして、そこまで……!ていうか、いつもカッター持ち歩いてるの!?なんで!?」
「そうでもしなきゃ、ナメられるんだもん!怖いやつらに、また虐められる。そんなの嫌なんだから!」
いくら刃物を持ち歩いていたとて、実際に人を傷つける覚悟があるかどうかは別問題である。ましてや彼はまだ小学校一年生くらいの少年。本当に人を斬りつけたところで、自分が恐ろしいことをしてしまったという実感をやっと得ていてもおかしくはあるまい。
かたかたかた、とカッターを握る手が震えている。目に涙を溜め、怒りと悲しみがないまぜになった表情で叫ぶ、叫ぶ。
「ぼ、僕……全然泳げなくて。泳げないって言ったら、クラスの奴らに馬鹿にされて。ぷ、プールの授業始まったら、『ねっけつしどう』してやるって言われて、怖くて。お、溺れたら死んじゃうのに、想像するだけで怖くて、怖くて。だからプールの水がなくなれば、授業が中止になると思って。そ、そしたら、フロマージュが力を貸してくれるって言うから!」
そうこうしているうちに、精霊はほとんど水を吸いつくしてしまう。ちっ、とかさねは舌打ちをした。これでもう、彼を説得して水を戻して貰うしか方法がなくなってしまった、と。
いや、どっちみちそうするしかなかったとも言える。ここでどうにか少年の企みを阻止できたとて、二度目三度目と同じことをされたら結局元の木阿弥なのだから。
「落ち着きなさい、ぼうや……!」
お巡りさんが、必死で彼を説得しにかかる。
「まずは、その刃物を捨てよう?お姉さんにも怪我をさせてしまったじゃないか。危ないって自分でもわかってるだろ?カッターナイフは工作をするためのものであって、人と戦うためのものじゃない。自分も怪我をするかもしれない。だから、ね?」
「近づかないで!お巡りさんも、お姉さんも、どっか行ってよ!プールの水がなくなったら、もう僕だって此処に用はないんだから!」
「そういうわけにはいかない。君は人に怪我をさせてしまった。それを見ていた以上、私もこのまま君を放置することはできないんだ」
そりゃ、お巡りさんの立場としては彼を捕まえて、話を聴かなければいけないだろう。なんせ、傷害の現行犯なのだから。
男の子もようやく、自分がしたことの深刻さを理解し始めたのだろう。
「僕、このまま家に帰っちゃいけないの?ママに、全部言うの……!?」
こっそり一人でプールに侵入してきているあたり、彼も親に内緒で家を抜け出してきたタイプだろう。当然、親に自分の所業を知られるのは避けたいはずだ。
警察沙汰なんてことになったら、隠し通せない。パニックになった彼が取った手段は、一つだった。
「忘れて……!全部、全部見なかったことにして!フロマージュ!」
プールの水を吸いつくした妖精が、こちらを見た。
「忘れてくれないなら……フロマージュに頼んで、二人とも攻撃しちゃうんだから!」