「どわっ!?」
次の瞬間、水飛沫が飛んだ。フロマージュがこちらに向けて水流をぶつけてきたのである。慌ててしゃがんだものの、すぐ真横のフェンスが嫌な音を立てて軋んだ。たかが水流と侮るなかれ、ぶつけられたらかなり痛いことになりそうだ。
「み、水?魔法?ま、まさか本当に……」
「お巡りさん逃げて!本当に怪我するかもだよ!!」
「ば、馬鹿言うな!君を置いて逃げられるか!!」
パニックになりかけているのは警察官も同じらしい。大混乱の彼に声をかけるかさねに、それでも慌てて返してくるお巡りさん。女の子を置いて逃げるわけにはいかない、という考えに至る時点でまだ彼は警察官としての職務を果たそうという意識があるようだ。――応援を呼ぶのはすっかり忘れているようだが。
――うう、逃げてくれた方がこっちとしても都合いいんだけどな!流転さんを出しづらいっ……!
向こうがカードの精霊を使ってきてる時点で、できればこっちも流転の魔術師の力を借りたい。が、かさねまでカードの力を使ったら、警察官に対して言い訳しなければならないことが増えてしまう。はっきり言って、かさねの今後のためにもとても面倒だ。状況は、瀬里奈と戦った時とは大きく異なるのだから。
――あんな風に水をバンバンにぶつけられたら、石投げて撃ち落とすのは無理くさい!
ズキッ、と右手首が痛む。出血も多くないし大した傷ではないだろうが、出来れば長引かせたくはなかった。万が一化膿でもしたら目も当てられないのだから。
とはいえ、相手も水流を吐き出してくるペースには限界があるようだ。大きな水柱を出せば、すぐに次は来ない。フロマージュの特性なのか、あるいは少年がまだフロマージュの力を扱いきれていないからなのか。
何にせよ、隙があるとしたらそこしかない。
「あの妖精をなんとかしないと……」
お巡りさんも、ようやく落ち着きを取り戻してきたらしい。妖精を睨みつけてつぶやく。
「プールの上に浮かんでたんじゃ、警棒は届かないし……」
「一応お尋ねしますけど、拳銃は?」
「そんな普段から携帯してるわけないだろ!ていうか、携帯してたところで簡単に発砲したら始末書じゃ済まないんだぞ!」
「ですよね!」
「そして何度も言うけど君はさっさと逃げてくれ頼むから!」
「それこっちのセリフなんですけど!」
なんだこのお巡りさん愉快な人だな、とは心の中だけで。まあ、逃げるだけなら自分も警察官も不可能ではないのだ、多分。
あの少年を確保して、二度とこんなことしないように説教しなければならないから面倒くさいだけで。
「僕に構わないでよ、もうほっといてよ!!」
再び水が飛んできた。躱したものの、飛沫がもろに顔に当たる。ぶえっ、と変な声が出た。塩素くさい水。どうやらプールの水を使っているらしい。お陰でこっちはずぶ濡れの酷い状態である。
これが強い水属性の精霊だったらこうはいかなかっただろうな、とどこか冷静な部分で思った。フロマージュは、魔術王のカードではけして強い方ではない。正確にはサポートカードとしては強力なものの、単体で強い火力を発揮するタイプではないのだ。それが幸いしたと言える。
とはいえ、こんな下級モンスターでさえプールの水を吸い上げたり蒸発させたりなんてことができてしまうのだ。充分すぎるほど脅威といえば脅威なのだが。
「僕は悪くないもん!プールに入りたくないだけじゃん!それなのになんで邪魔するの!?邪魔しなかったら、お姉ちゃんだって怪我しないで済んだのにさ!!」
「馬鹿言ってんじゃないよ!」
その言葉に、思わずかさねは吠えていた。プールサイドに落ちていた石を拾い直す。
「プールに入りたくない奴なんか、お前以外にもたくさんいるだろうけどさ!楽しみにしてる奴だっているんだよ。お前一人の都合に、他のみんなの気持ちまで巻き込むな!どうしても入りたくないなら休むなりなんなり他にも手はあっただろーが!」
「そ、そんなことしたら逃げたって言われるじゃん!」
「だったらそのいじめっ子どもの方をなんとかしろよ!自分でなんとかできないなら誰かに相談しろよ!お前、自分にできること全部やってから決断したのか?カードが手に入ったから……安易な方法が見つかったからそれに走っただけじゃないのか?それこそ、逃げなんじゃないのかよ!」
「う、うるさい!」
飛んでくる水柱。転がって避けつつ、石をフロマージュに投げつけた。すると、石が当たる寸前フロマージュの体が透けるようにして消えてしまう。どうやらこの妖精、自由に透明になることができるらしい。水の精霊らしいと言えばらしい能力だろう。
――そういえばこいつの能力って、一ターンに一度標的にされなくなるとかそんなんだったっけ?忠実に再現されてるわけか。
最初にぶち当てられたのは、不意打ちで効果が発動しなかったからということなのだろうと予測する。
多分前回プールに侵入した時も、この妖精の透明化能力を使ったとみえる。今回も、鍵のかかったプールに突然現れたように見えたのはつまりそういうことなのだろう。
「無駄だよ、フロマージュは水みたいに透明になれるんだから!どこにいるかなんてわからないでしょ!?それに、石をぶつけられたくらいじゃ大してダメージになんかならないんだからね!!」
「そうみたいだな」
「そうだよ、だから降参して!僕のこと見なかったことにするって約束して!」
「口約束しても意味なんかないんだけどねえ……」
落ち着け、と自分に言い聞かせる。水流のスピードは見切った。自分もお巡りさんも、フロマージュの攻撃を避けられないほどじゃない。そして恐らく攻撃が直撃しない限り、致命的なダメージには至らないはずだ。
――考えろ。お巡りさんの眼の前ってのを覚悟して流転の魔術師を呼び出しても……透明になられたら多分、フロマージュに攻撃は当たらない。あの透明化能力を阻止する方法はないのか?
少年を抑え込んでしまえばいいのかもしれないが、彼はカッターナイフを持っている。刺激したら振り回してくるかもしれない。出来れば避けたい。
かさねが考え込んだ時、ポケットの中から声がした。
「かさね、何故私を呼ばない?精霊が出たんだろう!?」
彼は焦ったようにかさねに呼びかけてくる。
「それに、貴女の血の気配がする。怪我をしたんじゃないのか!?」
「!!ちょっと待って、血の気配がわかるの!?」
「わかる。仮契約をしているからな。浮きが上がって見えるというか……」
これだ、とかさねは目を見開いた。右手を伝う己の血液。これが使えるのではないか。
成功させる鍵は、恐らく。
「お巡りさん!あの子を抑え込んでください!」
「!!」
かさねに頼まれた警察官が、驚いたように顔を上げる。
「さっきの妖精、あの子が操ってるみたいだし!」
『そうだよ。すごい魔法の力がある、カードを託されたんだ。水の妖精の、フロマージュっていうんだよ。そのカードがあれば、水を自由に操れるんだ。プールの水をなくしちゃうくらい、簡単なことなんだから!』
「あの子がカードを持ってるなら、それを取り上げれば妖精も消えるのかも……!」
「わ、わかった、やってみる!」
あの謎の精霊を直接叩くよりは、カッターを持っているだけの子供を抑え込む方が遥かに簡単だろう。荒事に対して訓練をしている警察官なら尚更に。
かさねの言葉を疑うこともなく、警察官は少年の方へ走っていく。
「や、やめろ!来るな、来るな、来るなーっ!!」
子供は後退りしながらカッターを振り回した。そしてマスターのピンチと気づいたからだろう、フロマージュの動きが止まる。彼女は慌てたように警察官の方を見て、彼に標的を変えようとした。
――思ったとおりだ!
カードの精霊にとって、マスターを傷つけられるというのはたまらない屈辱であるとみえる。あるいは、自分たちの存在が維持できなくなる死活問題なのかもしれない。
いずれにせよ、マスターが攻撃されそうになれば無視することができないのが彼ら、彼女らなのだ。瀬里奈の時と同じ。そちらに意識を取られれば、精霊はマスターを守りに行かなければならなくなるし、場合によってはマスターの方が精霊に防衛を頼むだろう。
つまりそこに、隙がある!
「どりゃぁぁぁっ!」
かさねはフロマージュに投擲した。しかも今度はただの石ではない――かさねの血をべったべたに塗りたくった石だ。
「きいっ!」
フロマージュに直撃し、彼女の体が一瞬揺らぐ。すぐに、身を守るため透明になっていく精霊。だが。
――やっぱりそうだ。フロマージュの体は水でてきてる!だから……!
今度は、前のようにうまくはいかない。何故ならば、体に混じってしまったからだ――かさねの血液が。
うっすら赤く染まった体は、僅かとはいえ視認できる。やはり見た目が透明になるだけの能力というわけだ。そして。
かさねの血が混じればそれが目印になると、ついさっき流転の魔術師が教えてくれた。
「来い!」
ポケットからカードを取り出し、その名を呼ぶ。
「降臨せよ、流転の魔術師!!」
光が走った。ぎょっとしたようにこちらを見る少年、そして警察官。警察官も、まさかかさねまでカードを出してくるとは思ってもみなかったのだろう。
現れたのは、藍色のローブに蒼い髪を持つ美しい魔術師の青年。彼はかさねの方を見て、青ざめた顔で叫ぶ。
「かさね!やっぱり怪我を……っ」
「軽傷、軽傷!それよりもあのフロマージュを撃って!プールの水、全部戻してもらわなきゃいけないから!」
「わ、わかった!」
流転の魔術師は少しばかり動揺した様子ではあったが、すぐにステッキを構えて力を集約させた。
「“ホーリー・マジック”!」
青い光が、薄赤に染まったフロマージュの方へと降り注ぐ。元の攻撃力が段違いなのだ。か弱い下級モンスターが、流転の魔術師の攻撃を防ぐことなど出来るはずがない。
「キイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ!」
甲高い悲鳴とともに、少女姿の精霊はプールの中に落下していったのだった。