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<13・Courage>

「あ、あああ……!」


 自分の精霊がやられたと知って、絶望した顔になる少年。ただ、フロマージュは完全な戦闘不能にはなっていないようだ。水が僅かに残ったプールの中で、ぴちゃぴちゃと魚のように跳ねているのだから。もう大きな魔法を使うのは難しそうだったが。


「ひょっとして手加減してくれた?」


 かさねが見ると、ああ、と頷く流転の魔術師。


「何やら、この精霊にはこの後まだ仕事があるようだったからな。完全に戦闘不能にしてしまうと、復活まで少しばかり時間がかかる。それは好ましくないのだろう?」

「そうだね。というか、ひょっとして私達のやりとり聞こえてたとか?」

「音だけだがな。……だから、貴女が怪我をしたことに気付くのも遅れたわけだが」

「ごめんて。ほんと全然大した怪我じゃないから心配しないで、ね?」

「むう……」


 不満そうに眉間に皺を寄せる彼。なんだかちょっとかわいい、なんてことを思ってしまう。自分よりずっと年上の見た目の美青年に、こんなことを言うのもなんではあるけれど。


「くそっ……くそ!離せってば、この!」


 そして、警察官はちゃんと仕事をしてくれていたようだった。少年からカッターナイフを取り上げ、さらに彼が身動きできないように後ろ手で拘束している。まだ華奢な、小学一年生相当の男の子だ。成人男性の警官が押さえつけるのに大きな力は要らないのだろう。

 かさねはつかつかと少年の元に歩み寄ると、しゃがみこんで彼に視線を合わせる。


「とりあえず、自己紹介しようか。私の名前は大馬かさね。六年生。君はなんていうのかな?」

「……っ」

「君も、私達を説得したいんでしょ。だったら、まず目を見てちゃんとお話ししよう。全てはそれからだよ」


 本人からすれば、自分が何者かであるかバレないままの方が都合が良いはずである。とはいえ、このまま黙っていたところで交番に連れていかれてしまっては同じこと。馬鹿なわけではなさそうだし、それくらい考えられる頭はあるだろう。

 ちらり、と魔術師の方を見る。彼は頷いて、プールの中へ降りていった。フロマージュを見張っていてくれ、という意図は伝わったらしい。彼の特殊能力ならば、万が一再びフロマージュが攻撃しようとしてきても、無理やり守備体制にして黙らせることができるだろう。ふわふわ飛んで逃げ回られていた時ならばまだしも、今ならば満身創痍。元気な状態の流転の魔術師に、初動で勝てるとは思えない。


「……犬養李緒いぬかいりお。一年生」


 少年は渋々と言った様子で、名前を名乗った。


「お姉さんに……怪我させたのは、謝ります。ごめんなさい。でも……でも僕、どうしてプールにだけは参加したくないんだ。でも、休みたいって言っても、きっと先生やお母さんは聞いてくれないから……」

「休みたいのは、泳げないからと……それでいじめっ子たちに虐められるから?」

「うん」


 こくり、と頷く彼。


「僕、ちっちゃな頃に浮き輪から空気が抜けて海で溺れそうになったことがあって……それから、水が怖くなっちゃって。泳ごうとすると、足が竦むんだ。どうすればいいのか全然わかんないんだ。一応、足がつくところなら歩くことはできるんだけど……でも、歩いてるだけじゃ馬鹿にされるし。僕が泳げるように指導してやる、って煩く言ってくる奴もいて、それがなんか嫌で。いじめられそうで」

「その、指導するって言ってきた子たち、他にもイジワルしたの?普段から悪口言ってくる子たちだとか?」

「そういうわけじゃないんだけど。僕は泳げないし、泳ぎたくないのに泳げるようにしてやるってしつこくて」

「……そっか」


 うーんこれは、とかさねは天を仰ぐ。丁度、奇麗な満月が目に入った。ナイター設備のないプールで、ちょっとしたランタンや懐中電灯の明かりだけで普通に動き回れたのは今夜が明るい月夜あったからというのが大きい。

 なんというか、自然の力は偉大なものである。こんな言い方もおかしいかもしれないけれど。


――いじめっ子、だと思ってたけど。これ、その子たちに本当に悪意があるかどうかが怪しいなあ。


 泳げるようにしてやる、と言っている子らは、完全に善意である可能性が出て来た。本人たちの話を聴かないといかんともしがたいが、普段から悪口を言ってきたり暴力をふるってくるタイプでないのなら、「泳げる方が楽しいから、その楽しさを教えてやりたい」と思って行動している可能性がありそうだ。

 勿論、善意だからといって何をしてもいいなんてことにはならない。人が本気で嫌がっていることは無理強いしてはいけないと、誰かが教えてやるべきではあるのだが。


――もちろん、本当に嫌がらせしてきている可能性もあるっちゃあるし、本人たちと直接話をしない限りなんとも言えないけど。


 とりあえず、一つ大きな誤解を解いておこうと決める。


「あのね、李緒くん。実は学校のプールって、足つくんだよ?」

「え」

「特に、一年生とか、低学年の子が使う時はかなり水深浅くするんじゃないかなあ。だから、入るだけなら君も怖くないと思うんだけど……」

「そ、そうなの?」

「うん」


 知らなかったらしい少年は、眼を真ん丸にする。この事実だけで一気に心理的ハードルが下がった、と気づいた。さらに畳みかけるべく、かさねは話を続ける。


「それと、最初から泳げる人なんて誰もいないよ。私も、君くらいの年の時はほとんど泳げなかったもの。つまり、一年生で既に泳げる子って、実はそんなに多くないんじゃないかなあっていうか。……泳げない子の方が、多分多いくらいだよ?スイミングスクールに行っているとか、田舎で泳ぎ習ったって子くらいだと思うんだけど、泳げるの」


 一人だけ泳げなかったら恥ずかしいだろうが、まず間違いなくそんなことはあるまい。

 そもそも泳げる子も泳げない子も、最初は水の中を歩くとか、浮き輪を使うとか、プールサイドの淵でバタ足するくらいからスタートするはずだ。いきなり二十五メートル泳げ、なんて無茶振りは絶対言ってはこないだろう。


「それに、みんなで練習するから……子供達同士で泳ぎが得意な子が苦手な子に教えるってシーンは多分ないんじゃないかなあ。というか、危ないからさせられないと思う。プールって昔から事故が多くて、先生達も神経尖らせてるはずだからね」

「そうなのかな……」

「何なら、私から君の担任の先生に言っておくよ。李緒くんが泳ぐのを凄く怖がっているのと、他の子に指導するって言われて怯えてるって話。先生が注意して君の事見てたら、怖い子たちもより君に近づけなくなると思うんだけど、どう?何組で、担任の先生が誰なのか教えて貰ってもいい?」

「……」


 そこまで言うと、少年は唇を噛んで俯いた。彼の手を拘束している警察官が「だ、大丈夫か?」と慌てた声を出す。立場上、ここで手を離せないのが辛いところではあるのだろう。


「……僕、一組なんだ。先生は、辰木たつき先生で」


 辰木先生。あー、とかさねはその顔を思い浮かべて納得してしまった。超熱血の男の先生だ。三十代後半くらい、先生たちの中では若い方である。以前、かさねも担任になってもらったことがあるからわかる。良くも悪くも、竹を割ったようなさっぱりした性格なのだ。

 そして、体育の授業への熱意が凄まじかったという記憶がある。水泳の授業においてもきっと気合が入っていて、生徒たちにもそういう話をしょっちゅうしていたのだろう。


「あの先生、体育がすっごく得意だし、大好きだもんね。……プール入りたくないって、言える気配じゃなかったか」

「うん……」


 そして、その辰木先生は――軽く調べたところによれば、最初にプールの水が抜かれていた日、夜遅い時間まで学校に残っていた一人だったはず。なんらかの理由でそれを知った李緒が、その辰木先生にプールの水がなくなった罪をおっかぶせてしまおうとしたであろうことは想像に難くない。


「先生があんなかんじだから、クラスもプールの授業楽しみにしてる子が多くて。僕、その雰囲気が凄い嫌で。……先生が、プールの水を抜いた犯人だって疑われたら、少しはましになるかと思ったんだけど。でも、カメラがあるって知らなくて、結局曖昧になっちゃって」


 これが、小学校一年生の男の子だったのが幸いだったのかもしれないと思う。もう少し年が上の子なら、もっと念入りに、厄介な計画を立てていたかもしれなかったのだから。

 いや、もちろんこんな子が、怖がってカッターを持って夜中に出歩く時点で世も末だとは思うけれども。


「……そうならなくて、本当に良かった。プールの水って、めっちゃお金かかってるんだよ。それを弁償することになったら、辰木先生本当に困ったんじゃないかな。確かあの先生、ぼっろいアパートに住んでるって言ってたから、お金全然ないよ。借金しないと無理だったかもしれない」

「え……」

「それに、クビになっちゃった可能性もあるかも。……そうなったら、李緒くん、きっと後悔したと思うんだ。だって教室の雰囲気を変えたかっただけで、先生が憎かったわけじゃないでしょ?」

「……うん」


 自分がやったことが、想像以上にまずいことだったとようやく気付いたのだろう。李緒は泣きそうな顔でうつむいた。


「あの先生脳筋系だけど、悪い人じゃないよ。きちんと話せばわかってくれると思う。ていうかね、私聞いたことがあるんだ。辰木先生、子供の頃は泳げなかったし、かけっこでもいっつもびりだったって。……だからこそ、運動が苦手な子の気持ちもわかるし、そういう子たちが運動が好きになれるようにしたいって、それで先生を目指したんだって」


 だからさ、と少年の目を見てかさねは続ける。


「私から、言ってみるよ。李緒くんが本当に悩んでるんだってこと。……それとも、李緒くんから言ってみる?勇気、出してみる?」

「……わかって、くれるかな」

「うん、きっと。私と一緒に行くっていうのでもいいよ」


 彼の丸い頭を優しく撫でる。すると、ついにこらえきれなくなったのか、少年の大きな瞳からぽろりと涙が零れ落ちたのだった。


「……ごめんなさい。プールの水、返します。もう、こういうこと、しません。ごめんなさい。本当にごめんなさい」

「うん、うん。大丈夫。君は勇気あるコだ!」


 後ろのお巡りさんが、説明してほしそうな顔をしているが――少しばかり、後回しにさせてもらおうと思う。

 今はとりあえず、この小さな少年を泣き止ませる方が先決であるのだから。


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