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<15・Pool>

 すっ、と胸の奥から息を吸って、プールサイドを蹴る。

 両腕を揃え、体を水面へ滑り込むように突入させる。遠くで「飛び込みするなって言っただろ!」と先生の声が聞こえたがスルーだ。

 小学校一年生の時、かさねもトンカチだったというのは本当だが――かさねは生憎、李緒のように気弱な性格ではなかったのである。泳げないと親戚の子に馬鹿にされたのが悔しくて、スイミングスクールに通ってものすごく特訓したのだった。元々運動は嫌いじゃないし、泳げるようになるのは達成感がある。その結果、水に顔をつけるところから始まったかさねは、今では長々と潜水できるくらいには成長したというわけだ。

 具体的には、二十五メートルプールくらいならば最初から最後まで潜水で到達できる。平泳ぎの要領ですいすいとプールの底を進んでいくのは、ペンギンにでもなったようでなかなか楽しい。息が長く続くのは元々肺活量が多くて体が丈夫だったからというのもあるのだろうが。


――李緒も、プールが好きになるといいなあ。ちょっとでも泳げるようになったら、全然世界が変わるもんだし。


 遠くで、他の生徒たちの声が聞こえる。

 六年生にもなれば、低学年の頃のようにばしゃばしゃとした水遊びだけで終わるなんてこともない。そこそこ競泳用の訓練も増える。今は、二十五メートル泳げる子と泳げない子のグループに分かれて授業を受けている状態だった。

 李緒を説得し、プール問題を解決した数日後。かさねのクラスも無事プールの授業をすることができ、今に至るというわけである。泳げる組はひたすら二十五メートルを泳がせてもらっている。かさねからすれば、それくらいほったらかしにされた方がありがたい。純粋に今日のような蒸し暑い日は、ひたすら泳ぎ続けている方が楽しいからだ。

 今週の土曜日。李緒と、一緒にプールに行く約束をしている。彼も泳げるようになりたい気持ちが強まったらしく、一緒に市民プールに行って欲しいと頼まれたのだ。大したことをやったわけではないのに、随分懐かれてしまった印象である。元々子供は嫌いじゃないのでむしろ嬉しいくらいだけれど。


――考えることはたくさんあるけど……小学生だもん。遊ぶこととか、楽しいこととかもたくさんしてたいよね。正直ね。


 勢いよく体を浮上させ、る。ぷはっ!と水面の上に顔を出した時、こちらを覗きこんでいた先生と目があった。まだ若い、新人の女の先生だ。


「よ、良かった!浮き上がってこないから心配しちゃった」

「え」


 どうやら、かさねがあんまり長く潜水していたのでびっくりさせてしまったらしい。ご、ごめんなさい、ととっさに謝ってしまう。


「す、すみません!潜水好きなんです。二十五メートルくらいは普通にイケるから、つい」

「そうなの!?凄いなあ。わたしは全然むり。小学生なのにすごい泳げるのね」

「あ、ありがとうございます……!」

「先生、そいつは心配ないって!女ゴリラだし!」


 遠くで、後ろを通りがかった男子数人が余計なことを言う。「何をう!?」と拳を振り上げるかさね。


「お前ら、喧嘩売ってるのか?売ってるんだよな?おっけわかった、表に出ろこの野郎!」

「暴力反対!暴力反対ー!」

「誰のせいだ、誰の!」


 まったく、とかさねは思う。とりあえず、次に言ったら奴らはプールの中に投げ捨ててやろうと決める。どうせ、どいつもこいつもそこそこ程度には泳げる連中だ。不意打ちで投げ込まれても死にはしないだろう。


――こういうやり取りができるようになったのも、事件が解決した上、お巡りさんたちが協力してくれたおかげだってわかってるけどさあ。なーんか複雑!


 ちらりと更衣室の方を見る。当たり前だが今は、流転の魔術師のカードも着替えと一緒にしまわれている。それから、李緒から回収したフロマージュ、瀬里奈から回収したエレキテル・マウスのカードもだ。

 とりあえず気持ちが落ち着くまでと思って、警察の人も納得してもらった上で二人のカードは自分が持たせてもらっているが。あれを、そのうち彼らに返すべきなのかと少しばかり迷ってもいるのである。何故なら、カードの精霊の力を使えるのは、仮契約をした本人だけなのだから。どちらもカードも、李緒と瀬里奈にしか扱えない。そして、カードたちも本来はそれを望んでいるはずなのである。

 悪事に使われる可能性があることは、精霊たちもよく理解していたはず。

 それでも彼らは、この世界の人間たちに拾われ、仮契約を結ぶしかなかった。そうでもしなければ自らの意思で何一つできなかったがゆえに。元の世界に戻る方法を探すことも、他の仲間を見つけることも叶わなかったがゆえに。

 果たして、彼らは自分達がやらされたことをどう思っているのだろう。

 本当は、仮契約のマスターに何をしてほしいと願っているのだろう。

 自分はもう少し、流転の魔術師ともよく話すべきなのかもしれない。まだまだわかっていないこと、知らないことが多すぎるのだから。


「んしょっ」


 勢いをつけてプールサイドに這い上がったところで、ふとフェンス際に置かれているベンチが目に入った。

 かさねは目を見開く。パラソルの日陰を作ったその場所に、一人の少年が座っていることに気付いたからだ。


――あいつ、確か去年同じクラスだった……卯月螢うづきほたるじゃん。


 具合でも悪いのだろうか。体操着をしっかり着込んでベンチにじっと座っている。プールの授業は見学らしい――と思ったところで、そういえばとかさねは思い出した。

 去年も、彼はずっとそうだったような。体育の授業には参加するけれど、水泳だけは全て見学していた。男子だから、生理で入れないなんてこともないはずだし、そもそも全て見学というのが不思議なことである。水に反応するアレルギーがあるとか、そういう理由だろうか。

 極めて寡黙でクールな少年で、去年もさほど会話をした覚えがなかったのだが。


――え。


 その彼がこちらを見た。そして、少し視線をさ迷わせたあと、立ち上がってゆっくりとこちらに向かってくる。

 日焼けをしないような真っ白な肌、ボブカットくらいのやや長い黒髪がさらさらと風に靡く。ただ歩いてくるだけなのに、妙に様になっていた。美形ってなんだかズルい、と思ってしまう。彼のやや近寄りがたい雰囲気は、その小学生離れした美貌も原因だと知っている。


「おい」

「は、はい?」


 そして彼は、かさねにとんでもない爆弾発言を落としていくのだ。


「放課後、今使われていない花壇のところまで来い。お前が、エレキテル・マウスを倒した場所だ」

「!?」


――ちょ、ちょっと待ってなんでそれ知ってんの!?


 かさねは目玉をひんむくことになる。しかし、彼はすぐにベンチに戻っていってしまうし、内容が内容なだけにこの場で派手に言及するわけにもいかない。

 もやもやした気持ちのまま、謎は放課後に持ち越しとなったのだった。




 ***





――ひょっとして、卯月もカード持ってたりすんの?あの戦い、誰もいないと思ってたけどあいつが見てた?


 ぐるぐるぐるぐる。更衣室で着替えている間も思考が止まらない。ねえねえねえ、とタオルを体に巻いた江留が指で肩をつっついてきた。


「ねねねねねねねね!かさねちゃんってさあ、卯月クンと仲良しだったりするんか?」

「え?な、なんで?去年同じクラスだっただけだよ?」

「ほんまにぃ?随分真剣な顔でなんか話とったやないかあ!うちはばっちり見とったでぇ!」

「げ」


 どうやら、どこかで江留にあの会話を目撃されていたらしい。かさねが思わず呻くと、彼女はまるでスカートのようにタオルをひらひらさせながら「ええどすなあ!」とくるくる回ってみせたのだった。


「かさねちゃん知らんのお?卯月くんって言ったら、六年生の間ではちょっとしたアイドルなんやで?こっそりファンクラブもできてるくらいなんや、なんせあの、ジャネール事務所のタレントばりの美形やろ?イケメンちゅうより、繊細な美少年ってかんじのご尊顔やろぉ!?額縁に入れて飾りたい系女子が多いねん!」

「が、額縁に入れて飾りたい系女子!?」

「身長152cm、体重40kg、あんなに華奢でほっそりしとるけどかけっこと跳び箱、マット運動だと凄いんやて!あと、学校の成績もええんやで。水泳だけは、何らかの事情によりお休みさせてもろうてるみたいやけど……。好きなものはミカンとプリン、結構な甘党。でも辛いものも好きで、給食でタンタンメンが出た時は目を輝かせてたっちゅうデータがある!それからな……」

「待って待って待って待って!普通に怖いんですけどお!?」


 なんでそこまで知られてるの、とかさねはひっくり返った声を出す。確かに、ものすごい美形ではあるが。隠れファンがいてもおかしくはないと思っているが。


――そういえば去年あいつ、バレンタインチョコが机から溢れ出しそうになってたんだっけか……。


 モテる男も大変ですこと、と顔をひきつらせてしまう。

 同時に、江留の言葉で気づいた。どうして水泳だけ休むのか、その理由をファンクラブの子たちでさえ知らないということを。

 あんなに堂々と見学せてもらっているのだから、先生達は理解しているし、大人が納得できる事情があるのだろうが。


「とにかく、私は別にあの子と何か特別な関係があるとかじゃないから安心して!ちょっと訊きたいことがあるって言われただけだから!そしてその訊きたいことの内容も知らないから!」


 とにかく、無理やり話を終わらせようとかさねは着替えを進める。ズボンを履いてシャツを被った。実際、次の授業時間までさほど猶予もない。長々とお喋りしている余裕なんてないはずなのだ。

 というか、さっきから他の女子たちの視線が怖い。卯月、の名前が出ただけで明らかに数人が反応したのだ。


――なんだよもう、なんなんだよ!そんな甘い話じゃないから問題だっつのに!


 この後も休み時間になるたび、他のクラスメートたちから問い詰められることになるかさね。おかげでその日は放課後まで、げんなりさせられる羽目になるのだった。



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