目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

<19・Leisure>

 李緒と一緒にプールに行くと約束した時、目的地は主に二つに一つだった。

 一つは市民プールA。主に屋外の大きなプールがあり、流れるプールや波のプールもあるので子供達に大人気。土日は家族連れでも賑わうところだ。

 もう一つは市民プールB。こちらは主に屋内のプールである。Aと比べて華やかさは少ないものの、ウォータースライダーのようなものもあるし、競泳用のプールもある。Aとは違う意味で楽しめるプールだった。

 狭いエリアになぜ市民プールが二つもあるのかと言われれば、それは獣埼町が数年前に合併したからに他ならない。元々三つの市だったのを一つにくっつけた結果、元々あった近距離の市民プールがそのまま残ったというわけだ。どちらも夏場は大変繁盛する。それでもかさねがBの方を選んだ理由は二つ。

 一つは、Aのプールの方がやや混雑する傾向にある上、泳ぎの練習ができる競泳プールが小さいこと。

 もう一つは天気だった。生憎、一緒に行こうと約束した土曜日は天気予報が曇。夕方には雨が降るかもしれないと言われている。屋外プールで雨に降られたら流石に寂しいし寒いだろう。かさねは雨が降っていてもそれはそれでと楽しめるタイプだが、今回は小さな子供が一緒なのだ。無茶をするわけにはいかない。


「驚いたわ。本当にあの子、プールに行くのね」


 かさねが李緒の家に迎えに行くと、李緒の母親に目をまんまるにされたのだった。


「子供二人だけで、本当に大丈夫?私達も一緒に行きましょうか?」

「大丈夫です、プールすぐそこなんで!」


 かさねは玄関の母親に笑顔で答える。実はもう一つ。市民プールBの方が、李緒の家に近いというのもあったのだった。

 というか、大通りに出て数十メートルほど真っすぐ歩けばついてしまう距離。小学生が小学生を連れていってもさほど問題ないだろうと判断したのはそこもあるのだ。


「ママ、一緒にこないでね。かさねちゃんと二人だけで練習するんだから」


 母親の後ろで、プールバックを持った李緒が頬を膨らませている。ほら本人もこう言ってるし、と言えば母親もどうにか引き下がることにしたようだった。小さな子供であっても、男の子は男の子だ。母親に、できることなら練習中の様子を見せたくはないのだろう。

 彼女もそれはわかっているのか、仕方ないわね、と苦笑いしている。


「かさねさん、よろしくね。うちの子、本当にプールが嫌いで……簡単な水遊びしかしたことなくて。だから驚いてるの、まさか自分で泳ぎの練習がしたいなんて言い出すとは思わなかったから」

「李緒くんも、男の子ですから。泳げるようになって、かっこいいところお母さんに見せたいんですよ、きっと」

「まあ」

「大丈夫です。常に私がついてますんで!それに、私はいつもあそこのプール行ってて慣れてるし」

「そうね。……じゃあ、お任せするわね」


 ここで母親が過保護なタイプだと少しやっかいだったのだが、幸いにしてそういうことはなかったらしい。彼女はひらひらと手を振って、かさねと李緒を送り出してくれた。

 今日の空はやや曇っているものの、蒸し暑さは健在である。水分補給はこまめにした方が良さそうだ。


「李緒くん、水筒持ってるよね?喉乾いたなーと思ったらすぐに飲むんだよ?」

「うん。あと、ちょっとだけお小遣い貰ったから、自販機で飲み物買えるよ!」

「偉い!」


 かさねは彼の手を引いて歩きながら、自分のお財布の中身を思い出したのだった。実は、お正月に貰ったお年玉の一部を貯金しないで取っておいたのである。特に欲しいものがなかったのと、いざという時のための資金のつもりだったのだが。


――一食、二人でランチするくらいのお金はあるかな。


 例のプールは、小さなカフェも併設されている。

 まだ一番の繁忙期ではないはずだ。混んでいなければ、帰りにそこで一緒にご飯かデザートでも食べて帰ろうかなと思っていた。あのカフェのアイスはなかなか美味しいのだ。




 ***





 泳げない、と一言で言ってもいろんなパターンがあるものである。

 二十五メートル泳ぎ切れないから泳げないと言っている人間もいるし、文字通り足を水につけるのも勘弁したいというタイプもいる。そう考えるならば、かさねに言わせれば李緒の泳げないレベルはさほど深刻ではないと言えた。というのも彼は、短時間ならば水に顔をつけることもでき、足がつくプールを歩くのだったら怖くはないというタイプだったからである。


「え、流れてるだけでいいの?」


 今まで、泳げないことのコンプレックスからプールに行くことさえほぼ断ってきたという李緒。そんな彼にかさねが言ったのは、「一緒に流れるプールで流れよう!」だった。


「そうそう。泳ぐのが気持ち良さそう、って思うところから始めればいいんだよ。浮き輪持ってきたんでしょ?」

「持ってきたけど……」

「ならそれに捕まって、一緒に何周か流れよう!気持ちいいよー」


 昔使っていた水着は小さくて入らなくなってしまったので、今は学校指定の紺色の水着しか持っていない。李緒もそれは同じようだった。幸いなことに、周囲を見回しても彼の同級生と思しき生徒はいないようだ。これなら、李緒が練習していても誰かに見つかって馬鹿にされるということはないだろう。

 この市民プールは、子供が多いということもあって子供向けプールがいくつも存在している。流れるプールもそのうちの一つ。流れがそこまできつくなく、かつその気になれば子供でもどうにか足がつくくらいの深さ。大人には少々物足りないかもしれないが、泳ぎの練習をするなら持って来いと言えるだろう。

 浮き輪に捕まって、ただひたすら流れつつ、時々ちょっとだけバタ足をする。流れるプールなので、流れに逆らわない方向ならば極めてスムーズに進むことができるはずだ。かさねが指示した通りバタ足をしてみた李緒は、すいすい進む体に驚いているようだった。


「す、進む!進むよ!」

「だろー?今日蒸し暑いし、水に浸かってるだけできもちいだろー?で、バタ足するとどんどん進んでく。楽しいでしょ?」

「う、うん!」

「私も一緒に泳いじゃうぞー!他の人にぶつからないように気を付けてねー!」


 慣れてきたら、泳ぎながら少しだけ顔を水につけてみる。浮き輪にしっかり捕まっていれば、沈むようなことはない。

 同時に、浮き輪につかまりながら、ひっくり返らずにバタ足する練習を行うというわけだ。やったことがある人ならわかるかもしれないが、浮き輪に捕まったままバランスを保って進むというのも案外コツがいるものなのである。

 かさねの個人的な経験から言わせてもらうと――先生たちはよくビート版から練習をさせたがるのだが、あれはちょっと難しいんじゃないかなと思うのだ。無論、最初は両脇に浮き輪をつけた練習もするのだろうが。

 というのも、ビート版に捕まってバタ足をするのは、泳げる人間であっても結構難しいからである。しかも、顔を上げたまま進むのは相当厳しい。水に顔をつけることそのものに抵抗がある段階だと、あれは逆効果なのではないかと思ってしまうのである。実際、幼い頃のかさねはそうだった。


『よし、かさね!流れるプールに行くぞ!』


 今やっている練習方法は、大好きなお父さんが教えてくれたもの。流れるプールに身を任せて、浮き輪に捕まってただただ流され続ける。時々流れに沿ってバタ足をすることで、泳げる楽しさや気持ちよさを実感するのだ。

 泳ぎの練習において、実のところどんな技術よりも大切なのは『泳ぐのが面白い』と思うこと。そして「水は怖くない!」と感じるようになることだと思っている。人が何かを練習する時、一番のハードルとなるのは恐怖心と徒労感なのだから。自分がやっていることは怖くないし、無駄でもない。そう信じることができるようになった時、人はぐんっと上達するものなのではなかろうか。


「そろそろ慣れてきたなら、一回じゃぶん、と沈んでみようか」


 李緒はまだ幼いし、そこまで体力もない。疲れ果ててしまわないうちに、別のプールへ移動する。頭まで水に浸かっても怖くない、むしろ面白いと思う次の練習だ。

 子供向けの浅い小さなプールへ移動。浮き輪をプールサイドに置いて、しっかりゴーグルを嵌めて、二人でざぶん!と潜ってみるのである。


「ん!」


 一度腹をくくれば、彼は強いタイプらしい。かさねの言う通り、五秒だけ潜ってみる。一緒に潜ったので、水の中でかさねと目が合った。


「ぷはっ……!かさねちゃんの顔がよく見えた!」

「おう、そうだろうとも!水の中の景色はどうだった?」

「青くて綺麗だった!あと、頭のてっぺんまで入るの気持ち良かったかも!」

「そーだろーそーだろー!よし、じゃあ次は水の中でジャンケンしてみようか。最初はグー、で!できる?」

「や、やってみる!」


 かさねの身長だとこの浅さのプールで潜るのは結構コツがいる。浮き上がらないように気をつけなきゃ、と思いつつ再び彼と一緒に潜った。

 水の中で目が合う。最初はグー、からのチョキ!向こうはグーのままだった。李緒の勝ちだ。


「だっはー、負けた!……ははは、水の中での景色って、全然違って面白いでしょ!」

「う、うん!面白い!」


 ゴーグルを外した李緒の顔は、心なしかキラキラしている。この子は飲み込みが早いし、本来の性格は結構前向きなんだなと実感した。そうでなければ、かさねが「一緒に泳ぎの練習をしよう」と誘ってもついてくることなどしなかっただろうが。

 沈むのが怖くなくなったら、次はウォータースライダーに行こうかな、と頭の中で予定を立てる。実のところ、今日は泳げるようになるところまで行く必要はないのだ。プールは面白い、怖いところではないと彼に理解してもらえればそれでいいのだから。

 誰だって、自分自身の速度がある。一気に階段を駆け上がろうとしたって疲れてしまうだけなのだ。

 心も体も、少しずつ成長していけばいいのである。その一歩が確実に、次の一歩を進む力になるのだから。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?