お手洗いに行くため、更衣室の入り口で螢に待っていて貰った時のことだ。
トイレを済ませた後、ペットボトルのお茶を飲むべくバッグを漁っていたかさねに、その声は聞こえてきたのだった。
「かさね、本当にいいのか?」
「!」
流転の魔術師の声。慌ててかさねは周囲を見回す。幸いにして、周りに他の利用者はいない。カードはポーチに入れてあるので彼の声が聞こえることはなんらおかしくないが、他の人に知られてしまうのは非常にまずいからだ。
「今、そばに誰もいないのだろう?私も音は聞こえるから把握している」
それに、と彼は続ける。
「私の声は、私が認めた者にしか聞こえない。現時点では、かさねにしか聞こえないはずだ。だから問題あるまい」
「それ聞いてないんだけど!?」
「……言ってなかったか?」
「言ってないです」
「そうか、それはすまなかった」
この人、実は天然キャラなのか。かさねは遠い目をしたくなる。いや、そういえば漫画でも、彼とマスターの星空少年が喋っている時の会話は結構天然入っていた気がしないでもないが。
「後で貴方とはちゃんと話そうと思ってたよ。今はその……後でいい?いつ人が来るかわからないから、流転さんを具現化できないし」
それに、魔術師の声は聞こえなくても、かさねの声は聞こえるのだ。このままの状態で目撃されると、更衣室で一人ぶつぶつ喋っている怪しい人と受け取られかねない気がしている。
「もちろん、わかっている。長話をするつもりはない」
流転の魔術師は、どこか寂しそうな声で告げた。
「ただ、一つだけ聞かせてほしい。……私達を保持していると、貴女が危険な目に遭うというのは本当なのか」
「!」
かさねは目を見開く。姿が見えなくても、息を呑んだ気配は伝わってきたのだろう。見えない空間の向こう、彼がため息をついたのがわかった。
「私達が干渉するのはマスターの選別のみ。私達の力はマスターを通じてでなければ使えないし、何もできない。ただ……無意識に同じカードの仲間を引き寄せているのでは?と言われてしまえば否定はできない。そして、我々の力を持てば……欲深な人間はそれを利用して犯罪に走ることが多いのも事実なんだろう」
「流転さん……」
「私は、仮契約に応じてくれ、マスターを探す手伝いをしてくれると言った貴女を尊敬している。感謝している。……まだ子供の貴女に、余計なものを背負わせたことへの罪悪感も。本当に申し訳なかったと思う。けして望んではいないのだ、貴女が傷つくことを」
彼は続けた。カード同士は、少しながら意思の疎通が図れるのだと。
はっきり言葉がわからなくても、相手の感情はおおよそ伝わってくるのだと。
「卯月螢が所持しているダークネス・メス・ドラゴンは……私にとってもライバルといっていい存在だ。極めて親しいという自負がある。だからこそ伝わってくる。彼は、卯月螢を傷つけてしまうことを、己がいるゆえの所業を悔やんでいた。六歳の子供に、なんてことをさせてしまっているのだろうと。……私は何もわかっていなかった。仮契約することの意味も、その重さも」
最近沈黙していることが多いと感じていたが、どうやら彼も彼でかなり思い悩んでいたということらしい。
そういえば、螢と話した時も不自然なほど黙りこくっていた。あれは、絶句していたということなのかもしれなかった。
「貴女が傷つくのは、見たくない」
魔術師ははっきりと告げた。
「だからもし、本当に危険な時は、私のことなどは……」
「……その様子だと、瀬里奈ちゃんとの会話も聞いてたでしょ。だから止めようとしてるんじゃないの?」
その彼の言葉を遮って、かさねは口を開く。
「私は、卯月くんとは違うよ。自己犠牲ってやつは好きじゃないんだ。だってさ、ヒーローが死んで世界が救われたって……それは、本当に世界を救ったことになるのかなって思うから。ヒーローが自分たちの代わりに命を落としたこと、苦しんだり悔やんだり傷ついたりっていうのをさ。それさえ防いで初めて、ヒーローは本当のヒーローたりうるんじゃないかなって」
理想論かもしれない。
でも、いつも思うのだ。漫画でもアニメでもそう。愛する人をかばって死ぬヒーロー、死ぬヒロイン。庇われた人間がどれほど己を責めるのか、死にたいほど後悔するのかどうしてわからないのだろうと。
命を守っても、心を守れなければ意味などないのではないかと。
「私は正義の味方になりたいわけじゃないけど、それでも思うんだ。……本物のヒーローは、愛する人の心をも守ってこそヒーローだって。だから、私は無茶なことなんかしないよ。自分が傷つくことで誰かを守ろうとしたりしない。どんな危険なことがあってもだ。……約束するよ、流転さん。私、本当に危なくなったらちゃんと逃げるから」
「かさね、でも私は……」
「迷惑なんて言わないで」
そうだ、螢に言った言葉は嘘ではない。
『いや、その。自分で語るのも恥ずかしいのでございますが、わたくし魔術王のかなりのオタクでございまして。……推しが出てくる同人誌も買ってるし際どい同人小説とかも読んじゃったりしてて、推しが目の前に現れてくれないかなぁとか随分長いこと妄想してまして、それで……』
もし、かさねの願いに流転の魔術師が引き寄せられたのだとしたら。自分の願いは「彼に会いたい」、それに尽きる。
それ以上のことなど望んではいない。望むべくもない。だって。
「だって私、大好きな貴方に会いたかったんだもの。それだけで今、すっごく幸せなんだもん。……頼むよ、流転さん。私に、その恩を返させてよ。ね?」
「…………」
困惑したように沈黙する流転の魔術師。彼すれば訳がわからない話だろう。きっと、自分は何もしてないのに、とでも思っているに違いない。
でも、それでもいいのだ。
大好きな漫画の、大好きな人に会えて、その人の役に立てる。こんな幸せなことなどない。かさねが幸せと言ったらもうそれが幸せなのだ。
――私は、大丈夫。
バッグの口を閉じて、かさねは心のなかで呟く。
――だってもう、自分の心で決めたから。
***
カフェ『コーリング』は、学生のお財布にも優しいランチを提供してくれていることで有名だった。
プールから上がってシャワーを浴び、着替えて髪の毛を乾かして。すぐ隣に併設されているコーリングの座席に李緒と座った途端、どっと気持ちの良い疲労が襲ってくる。不思議なものだ、泳いでいる間はまだまだイケると思っていたのに、水から上がったとたん疲れたような気がしてくるのだから。
「席空いてて良かった良かった。疲れたでしょ、李緒くん。好きなもの頼んでいいからね」
「そんなにお金あるの、かさねちゃん」
「お年玉を財布に入れっぱなしにして使ってなかったからね!ランチ代くらいは余裕よ!あ、でもステーキ頼むとかうな重頼むとかはやっぱりナシで……」
「ふふふっ……そんなのメニューにないじゃん」
どれにしようかなぁ、とメニューを開く李緒。良かったな、とかさねは心から安堵した。少年の顔が明るい。今日のプールが、彼にとって嫌なものでなかったという証拠だ。
いきなり泳ぎの練習を始めてしまったらこうはいかなかったかもしれない、と思う。やはり、父の方針は間違ってなかったのだと確信する。物事は、楽しいと思えば思うほど進歩できるものなのだから。
――うんうん、君もやっぱり、笑っていた方がいいよ。
『僕は悪くないもん!プールに入りたくないだけじゃん!それなのになんで邪魔するの!?邪魔しなかったら、お姉ちゃんだって怪我しないで済んだのにさ!!』
あの夜の李緒の顔を思い出す。
魔法によってプールを中止に追い込む、それ以外に方法はないと思いこんでいた少年の顔を。
追い詰められた人間は視野が狭くなるものだ。本当はもっと幸せになれる道があっても、それに気づくことができなかったり、ありえないと決めつけてしまったりする。世の中にはきっと、そういう人間が大勢いるのだろう。本当に己を不幸にしているのは己自身だと気づくこともないままに。
――そういう人間にカードが渡ったら……欲望のままに暴れることも少なくない。
そしてきっとかさねが知らないうちにそういう事件はたびたび起きていて、多くの人が巻き込まれて苦しんできたのだろう。
螢はそれを防ぐため、一人で戦ってきたのだ。
――私はあの子みたいにはなれない。でも……私なりの全力を尽くすことはできるはずだ。
今はそう信じるしかない。
例えどれほどこの先が、茨の道であったとしても。
「えっと、かさねちゃんお財布大丈夫なんだよね?」
「ん?」
「その、普通のハンバーグじゃなくて、チーズハンバーグにしてもいい?」
恐る恐る、といった様子で螢がメニューを指さしてくる。どうやら五十円高いチーズハンバーグを頼んでもいいものかと遠慮しているらしい。なんて謙虚な子なのか!とかさねは感動してしまった。以前江留と一緒にランチした時は、その月のお小遣いが壊滅するようなパフェを頼んでくれたというのに!
「き、君はいい子だぁ……!江留に爪の垢を煎じて飲ませたぁい……!」
「え、え?」
「い、いやなんでもないよ、こっちの話!」
どうしようもない感動で胸がいっぱいになる。かさねは全然OKだからねえ!とシャウトしつつジブンも注文を考えるのだった。
ミートパスタにするべきか、ペペロンチーノにするべきか。結局自分が迷うのはその程度の違いであったが。
――ダイエットの敵なのかもしれんが!運動の後に食べる飯はうんまい!!
迷った末、かさねが選んだのはミートパスタだった。たっぷりとした肉そぼろとトマトの甘みがたまらない。昔から大好きなメニューの一つである。
注文が来てから食べ終わるまでさほど時間はかからなかった。まだチーズハンバーグを半分しか食べていない李緒がぽかーんとしてしまうほどには。
「かさねちゃん、食べるの早いんだね……」
「あ、はははは……昔から大食いで早食いってよく言われるんだ。もっとゆっくりお淑やかに食べた方がいいとよく言われるんだけども」
誤魔化すように水を飲んで笑うかさね。気にしなくていいよ、と李緒は首を横に振った。
「あの、さ。かさねちゃん。僕ね……」
やがて彼は。ハンバーグを食べる手を止めて、改まったように口を開くのだった。
「かさねちゃんに、言いたくて。ありがとうと、それから……ごめんなさいを」