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<21・Escape>

 本人もきっと、ずっとタイミングを逃していたのだろう。

 人間、一番勇気がいる瞬間は大人も子供も同じだ。己の過ちを認めることができず、道を誤り続ける人間が大人であってもなんと多いことか。


「李緒くん……」


 だから、かさねは純粋の感動した。

 この子は七歳で、ちゃんとそれを認める勇気のある人間だったということに。


「……うまく言えないんだけど」


 彼は視線をさ迷わせながら言う。


「僕、一番嫌なことはプールじゃなかったんだなって……あとで、気づいたんだ」

「うん」

「……自分が、かっこ悪いって思われるのが嫌で。それで、人に馬鹿にされたり、嫌われるのがイヤだったんだなって。そういうのが、全然わかってなくて。怖いことから逃げたって、嫌なことから逃げたって、本当はキリなんかなかったのに」

「それは違うよ。嫌なことから逃げたいって思うのは誰だってそうだし、逃げる方がいいこともあるんだから」

「そうかな。逃げるのはいけないって先生とかママやパパも言うよ」


 こういうのが誤解なんだろうなあ、とかさねは思う。

 いや、親や教師が言う「逃げるな」というのが間違っているという意味ではないのだ。ただ、幼い子供であればあるほど、それを大人が思うよりずっと極端に捉えてしまうというだけで。

 何故ならば。


「人生で一度も逃げたことがない人なんて、いると思う?」


 かさねは割りばしを箸袋にしまいながら言う。昔からパスタはフォークよりお箸で食べる派だった。


「嫌なことから逃げたいと思うのは、何もおかしなことじゃないんだよ。誰だってそうだもん。私だって逃げたいと思うことはいくらでもあるし、怖いことはたくさんあるよ。……逃げるなって大人は言うけど、逃げずにはいられない時だって……あるよね。子供だって大人だってあって当たり前だよね。そして、逃げていい時だって、私はあると思ってるよ。だって、いつか立ち上がる力になるなら……逃げた時間だって絶対無駄じゃないんだもん」


 現実逃避という言葉がある。

 受験が嫌だ、テストが嫌だ、学校が嫌だ、会社が嫌だ、人付き合いが嫌だ。そういうものから少しだけ逃れて、好きなテレビを見たりお菓子を食べたり。その結果、気持ちが切り替えられて頑張れるようになる人は少なくない。それは紛れもない事実だ。

 ならば、辛い現実から一時逃げた瞬間は、責められるべきものなのだろうか。それはきっと違う。

 人は時に、逃げることだって必要なのだ。上手に逃げながら頑張るのが人間として当たり前のことなのではなかろうか。むしろ、それができない人間ほど責任感に押しつぶされて、自分で自分を殺してしまう瞬間が来るように思えるのである。


「むしろ、『逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ』って自分に言い聞かせ続けないといけない人の方が私は心配かな。……親が超のつく毒親だったらともかく、そうでないなら……大抵の親は子供が死んだら悲しむもんでしょ。逃げないように逃げないようにって自分を追い詰めちゃう人が、最後にどうしようもなくなって命を絶ってしまうんじゃないのかな。そうなるくらいなら、学校やめるなり会社やめるなりした方が千倍マシだと思うけどね。それこそ、誰かに逃げだって言われたとしてもだよ」

「そう、なのかな」

「そうだよ。大事なのは……君が言った通り、本当に嫌なことはどれなのか、本当に逃げたいと思ったことはなんなのかを落ち着いて見つめ直すことだったと思う。本当に嫌なことはプールじゃなかったって、自分で気づけたんだから君は偉いよ。自分が間違えたことをしたって、人にちゃんと謝れる人間は大人だって少ないんだから」

「そんなこと、ないよ。かさねちゃんが、僕をプールに連れてきてくれたからだよ」


 少年は恥ずかしそうに俯く。


「今日、かさねちゃんと一緒に泳いだら……思ったより全然プールって怖くなかったし、結構楽しくて。僕が嫌だったの、プールじゃなかったんだなって気づいたんだ。だから……プールを中止にしたって、本当はそれで解決することじゃなかったんだなって」


 そう。彼はプールではなく、誰かに馬鹿にされたり嫌われることが嫌だったわけで。

 ならば仮に水泳の授業が一切なくなったところで、別のことで揶揄われるようならば問題は何も解決しないのである。本当にするべきは、苦手な子供達への対応や、先生の理解を得ることだったのだ。

 そして、苦手な子供達や先生がいるからといって、その人達をこの世から消せばそれで終わりになるはずもない。




『虎澤さんがいなくなったら、取り巻きの子たちがいじめの主犯になるかもしれない。あるいは、虎澤さんがいたことで大人しくしてた別の人がいじめっ子になるかもしれない。いじめはなくても、別の問題が浮上するかもしれない。……そういう人達を気に入らないからで消していったら、それって結局独裁者と同じ。最後は独りぼっちになっちゃうんだよ』




 それは、かさねに瀬里奈が言った事だ。

 気に入らない人間をえんえんと消していったら、結局最後は独りぼっちになるだけ。

 現実に“独裁者スイッチ”はない。一度消した人間は、けして戻ってくることはないのだから。


「どうすればいいのかわからなくなったら、人に相談すればいい。先生だって、君が思ってるほど頭が固いわけじゃないし……私だって、頭悪いけど話くらいは聞けるしさ。……それこそ、カードの力を使うのだって、誰かに相談してから決めるようにしたっていいんだよ。人間、一人で背負える量なんか限界があるんだし」

「……うん。それに……何かを背負っているのは、僕だけじゃないよね。みんな、みんな何か背負って、頑張ろうとしてるんだよね。……先生だってそれは同じ。僕、もう少しでそんな先生達に、取り返しのつかない迷惑をかけることだった。プールを楽しみにしてる子たちにも。本当に、ごめんなさいかさねちゃん。怪我、治ったみたいで本当に良かった」

「あははは、かさね様は丈夫だけが取り柄ですからね!心配ご無用です!」


 くい!と腕を持ち上げて見せる。本当に大した傷ではなかった。良ーくみると白い痕が残っているがそれだけである。もとより、けして深い傷ではなかったから尚更に。


「今日、連れてきてくれて本当にありがとう」


 彼はぱく、とハンバーグを食べつつ告げる。


「次は、本格的に泳ぎの練習したいな。僕も、かさねちゃんみたいに長くもぐったり、浮き輪なしで泳げるようになりたい」

「おお、いいじゃんいいじゃん!まだまだ夏は長いし、また連れてきてあげるよ」

「ほんと?嬉しい!かさねちゃんの方が、パパより教えるのうまいし」

「そ、そう?」

「それからね」


 彼はちらり、とかさねの持っているトートバッグを見た。何を見ているのか、本能的に察してかさねははっとする。

 彼も、カードに選ばれた人間の一人。李緒が持っていたフロマージュはかさねが一時的に預かっているが――それでも、なんとなく気配を察知することはできるのだろうか。


「僕、かさねちゃんの力になりたい。フロマージュ、返してもらうこと、できる?もう、変な使い方しないから」

「……李緒くん」


 彼を信じていないわけではない。しかし、かさねはすぐにその言葉にうんと頷くことはできなかった。もし、螢と話す前だったなら違ったかもしれないが。


「私、カードの事件を解決してきたって子と話をしたんだ。……カードの精霊を使って、悪いことをする人がたくさんいるんだって。それを、頑張って解決してきたっていうその男の子は……李緒くんと同じくらいの年の時に精霊と出会って、一人で戦ってきたって言ってたんだ。で、こうも教えてくれた。カードとカードは引き合う。精霊を持っている人の近くには同じく精霊を持ってる人が近づいてくる。そして……その中には、悪い人もたくさんいるって」


 自分は覚悟を決めたが、李緒は違うだろう。何より、彼は螢の話を直接聞いていないし、彼の凄惨な体験も知らない。あの、惨たらしい傷跡のことも。


「その子は、戦う中でたくさん大怪我をしてきたって言ってた。……カードを使って悪い事をする人の中には大人もいるし、本当に残酷な人もいる。いくらカードの精霊が力を貸してくれるからといっても、私たちは子供でしかない。傷を治す、都合の良い魔法もない。私が言いたいことは、わかるよね?」

「フロマージュを持ってたら、僕も巻き込まれるかもしれないってこと?」

「そう。私は……その子を助けるって決めたから、多少覚悟はしてるけど。君はまだそうじゃない。私は、李緒くんにそんな怖い戦いに巻き込まれてほしくないし、怪我もしてほしくない。……李緒くんは、それでもフロマージュを返してほしい?危ない目に遭うかもしれないとわかっていても?」

「…………」


 李緒は、動揺したように黙り込んだ。

 カードを持っている人間と人間は引き合う。かさねと李緒が出会っている以上、その可能性には思い至っていたはずだ。でも、彼は精々プールの水を抜いてやろうと思って精霊の力を使ったのみ。大きな犯罪をしようなんて思ったことはなかったはずだ。ならば、想像つかなくてもおかしくはあるまい――カードの力を使うことで、もっと大きくて恐ろしい犯罪にも加担できてしまうということには。

 そして、そんな奴も世の中にはいるということは。




『犯人は……幼い男の子に性的欲求を覚える変態野郎だった。そいつがカードの力を使って、次々異空間の子供を拉致していたんだ』




 世界はけして優しくない。綺麗なものでもない。

 目の前の、無垢な少年が考えているよりもずっと。


「……僕、僕は」


 フロマージュのカードも、念のため持ってきてはいる。かさねのバッグに入っていることは察しているのだろう。彼はちらちらとそしらに視線を投げながら考え込んでいる。

 じっくりと悩めばいい、とかさねは思った。自分達にはまだ、その時間が用意されている。焦って結論を出す必要などない。彼はかさねよりずっと小さくて、まだまだひ弱な子供であるのもまた事実なのだから。

 そう、その時だった。


「きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 え、とかさねは顔を上げる。

 店の前から、凄まじい悲鳴。まさか、と思った瞬間、とんでもない光景が目に入ってくるのだ。

 窓の向こうに存在するとんでもないもの。それは。


――ここで来るのかよ……!


「李緒くん、ちょっとここで待ってて!あ、あと私のバッグ見てて」

「え、ええ!?」


 かさねはポケットのカードとスマホだけ持って飛び出した。自分にしかできないことがそこにあると、そう信じて。


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