「ひいっ、ひいっ、ひいいっ……!」
カードを握りしめたまま、男は逃げる、逃げる、逃げる。
思い出すのは五十三年の人生だ。本当にろくなことがなかった。女にモテていい思いをさせて貰うこともなければ、何かで人に褒められた記憶も殆どない。いつも誰かに虐められ、へらへらと笑いながら頭を下げて――そんなつまらない人生から、ようやくこのカードの力で脱却できると思っていたのに。
どうしてこんなことになるのだろう。
せっかく面白いショーが見られると思ったのに。忌々しいやつらを踏みにじり、逃げまどう姿を見物して悦に浸れるとばかり考えていたのに。
このカードで自分は、奪われる側から奪う側に回れるはずだったのに!
――あのクソガキとお巡りっ……余計な真似しやがって!俺のリザードマンを……ふざけんなよ!ふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなぁっ!
ビルのすき間を縫うように逃げていく。足を止める暇はなかった。多分、あいつらは自分を追ってくる。そうなったら今の自分の武器は、護身用に持っているこのナイフくらいなもの。精霊は一度完全に倒されてしまうと、早くても一日は復活することができないと知っている。今捕まったら、精霊の力で身を護ることができない。
どうにか、その一日をやり過ごさなければ。
大丈夫、自分はすぐにあの場を離れた。顔をはっきり見た人間はまだいないはずだ。
――畜生、畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生おおおおっ……!
小さな頃、健次郎はいじめられっ子だった。
ちょっと顔が不細工で、ちょっとチビで、ちょっと得意なことがなかったというだけだ。それなのに、クラスの女王様のような女子に「気持ち悪い」「ばい菌がうつりそう」なんて言われてしまったのが運の尽き。いつの間にか、クラス全員が己の敵に回っていた。先生さえ、外面がいい彼女の言葉と、口裏を合わせるクラスメートたちの方を信じた。自分は大人達にとっても嘘吐き、妄想癖、危ない人間扱い。どんなに無視されても、仲間外れにされても、自分を庇ってくれる人間は誰もいなかったのである。
何で自分ばかりこんな目に遭わなければいけないのか。
どうして己は、世界の底辺に貶められなければならなかったのか。
苛立ち、悩み、憤り。学校帰りにムカついて、公園の鳩に思い切り石を投た。小学校の二年生くらいだっただろうか。あれが、恐らく自分にとっての転機だった。たまたまその公園に他に人がいなかったこと。そして――石を投げた鳩の中に、たまたま鈍くさいやつがいたこと。
『ギイッ!』
『あ』
石は鳩の脳天を直撃した。正確に狙ったわけではなかったので、ようは偶然当たってしまっただけだったのだが。
目玉から血を流して倒れ、びくびくと痙攣する鳩。殺してしまったのかと思って慌てて近づいた健次郎は、その時死にかけの鳩と目があったのである。
それは、死にたくないと訴える者の目。命乞いをする者の目だった。そう、この鳩は――学校では虐められてばかり、誰かに希うばかりの立場であるはずの健次郎に命乞いをしていたのである。それは、己が弱者だと認めた者の目。血を這いつくばり、許しを請うみっともない者の目だった。
『は、ははっ……』
その時、健次郎の背筋を這い上がったのはまごうことなき喜悦。
この時初めて健次郎は気づいたのだ。自分は、学校では虐められてばかりであったけれど――でも実際のところ、世界の底辺ではなかったのだと。
己より下に存在するものが、まだまだたくさんいたのだと。
そしてそいつらの存在は、自分が一番最下層の存在ではないことを教えてくれ、満ち足りた気持ちを与えてくれることを。
『ははは、ははははは、はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!』
健次郎は鳩の傍で、足を踏み鳴らして嗤った。
地面が揺れるたび、鳩の目が怯えに染まるのが愉快で、近づく死から逃れたがっているのがあまりにも情けなくて。
『命乞いしろよお、バカ、バーカ!助けてくださいって顔をしろよ、俺に、この俺にぃぃぃいいいいいいいいいい!』
その後は、笑いながら鳩を嬲った。もしこの時人が現れて自分を止めていたら、あるいは叱っていたなら何かは変わっていたのだろうか。
まだ生きている状態のまま鳩の羽根をむしり、足を降り、眼玉をほじくった。どれほど痛みを与えられても、まだ生きたいと願っている――そう見える相手の目があまりにも哀れて面白くて、そして爽快だった。
自分より弱い者を見つけた瞬間、健次郎は己が最底辺ではないことを確認できたのである。その快楽を知ってしまったらもう、戻ることなどできなかった。
最初は鳩。
次は地域の猫。
拷問して殺し、殺しては埋め、また新しい標的を探す――そういうことを繰り返していれば必然とエスカレートしていくものだ。つまり、次は人間を傷つけてみたい、惨めな姿にしてやりたいという欲求である。
ただ、思うほど物事は簡単にはいかない。というのも、地元で虐殺を繰り返した結果、動物の死骸の一部が見つかって騒ぎになってしまったからだ。小学校も高学年以上になれば、ある程度ものの分別もつくようになる。もっと上手に死骸を隠すなり、誰にもバレない方法を見つけなければと思うようになった。それが、存外難しいことではあったのだが。
――上手に、上手に殺さないと。俺だとバレないように、それでいて……数を減らせるように。
たくさん殺すより、一匹を丁寧に嬲る方がいい。死骸の数が少なければ少ないほど、隠蔽の手間も減るのだから。
そして、小学校から中学校になり、高校生になっても男の世界が様変わりすることはなかった。一体何がいけないというのだろう。ちょっと嫌いな奴の悪口を言ったからだろうか?ムカつく女の靴箱にゴキブリを入れて笑ったのがいけなかったのだろうか?あるいは、ちょっと色気を振りまいて調子に乗ってるクラスメートどもの隠し撮り写真を掲示板に貼って、ざまあみろとやったのがいけなかったのか?女子どもに大人気のイケメンくんを、ちょっと階段から突き落としたりしたとか、あとはそれくらいのものではないか。
いずれにせよどれもこれも本当に悪いのは自分ではない。先に自分を見下して、嫌って、唾棄すべきイキモノのように扱った連中がいけないのではないか。
誰も彼も自分を冷たい目で見る。お前なんか、人間として価値のないゴミなのだと決めつけてくる。何故なのだ。この顔のせいか?チビなせいか?ほんの少し自分の思ったことを言っただけでやっただけで、他の奴らならば許されることが自分には許されないのか?
コンプレックスとストレスを解消するには、ひたすら動物たちを虐待する他なかった。
自宅近くでやるとバレる可能性があると気づいてからは、わざわざ遠い土地まで旅行に行ってその先で野良猫などを捕まえた。可愛がっていた地域猫なのに、と地元の人達が悲しんでいる様を見ると何故だか胸がすっとした。馬鹿にしていた人間にだって人権はある。奪われる痛みをお前らも思い知ればいいのだ、と。
そして。
面白くもない大学に通い、会社に行き、派遣社員として上司に怒鳴られていびられながらヘコヘコ頭を下げて暮らしていた時。そのカードは、健次郎の元に舞い降りたのである。
何かの漫画のカードとして、見たことがあるようなないような。
ボロアパートの部屋で、枕もとに置かれていたそれ。健次郎が名前を呼ぶと、カメレオンのような恐竜のような姿をしたその怪物は姿を現し、頼み事をしてきたのだった。
『元の世界に戻るため、力を貸してほしい。その代わり……お前の望みに出来る限り尽力することを誓おう』
『ほう、ほうほうほう?そうかそうか、じゃあ……俺の言う通りにしてもらおうか』
奴らがどういう存在なのかなんてどうでもいい。そして、奴らが元の世界に帰るとかマスターがどうなのとか、正直そんなことは知ったことではない。
健次郎は力を手に入れた。
それも、法律で裁かれない、健次郎が犯人だとバレることもない力である。
――直接俺の手で、獲物をバラバラにできなくてもいいんだ。そういう快感が欲しいんじゃねえ。
ただ、怯えて命乞いする目が見たい。
己より弱いやつがいると、そう実感できる感触がほしい。目の前で最下層の奴らがいびられて、苦しんで、怯えながら死んでいく姿が見られればそれでいい。
男はとある小学校に忍び込んだ。防犯カメラのようなものが一切ない、セキュリティガバガバのぼろっちい学校である。そこでは飼育小屋があり、兎が何匹か飼われていると知っていた。何を隠そう、健次郎の母校である。元々忌々しい、不愉快な記憶しかないこの学校。最初の標的は、この腐った学校に通う腐った生徒どもにしようと思っていた。まずは、とことん悲しませてやりたい。見知らぬ脅威が迫っている事実に、怯えさせてやりたい。
夜中の飼育小屋、鍵をペンチでこじ開けると、男はカードを掲げて精霊を呼び出したのである。
『来いよ……舞台怪人、リザード・マン!』
出現する、健次郎よりずっと大柄なカメレオンの怪人。スマホを取り出して様子を撮影しながら、健次郎は命令したのだった。
『その兎どもを、できるだけ丁寧に、楽しく、嬲り殺しにしてくれや。散々怯えさせて、逃げまどわせてくれ。自分達が弱者だと、カワイソーな底辺だと思い知るくらいによぉ……!』
リザード・マンは逆らわなかった。
言われるがまま長い舌を振り回し、兎を一匹ずつ殺して回ったのである。血まみれになる飼育小屋。逃げまどい、傷を負ってびくびくと痙攣する小さな体。白や灰色のふわふわの毛が血にまみれていく様を、助けてくれと訴えるような眼を向けてくるのを見て男は――下半身を滾らせていたのだった。
――ああ、きもちいい、キモチイイ!
自分はこれからはもう、誰からも縛られない。奪われないし、苦しめられることもない。
これならば人間相手だってきっと、バレることなく犯行に及べる。
――ふふふふふふ、ひゃはははははは、はははははははっはははははは、ははははははっははははははァッ!
動物を何匹かやったら、次の標的は人間だ。
自分がこんなに苦しくて退屈な日々を送っているのに、のうのうと笑いながら生活しているやつらを切り刻んでやる。
健次郎はそう決心し、犯行に及ぶことを決意したのだった。