負傷している螢は言わずもがなだが、かさねもついでに病院へ運ばれることとなってしまった。無傷だと主張したが、“念のため”ということらしい。無論、本当に一切怪我などしていないので、検査だけですぐに帰ることができたわけだが。螢はしばらく入院らしい。本人も“大したことないのに”とぼやいてはいたが。
警察官が直接状況を見ていること。
現場にいたのがかさね、螢という小学生であったこと。
それを配慮され、二人とも今日は家に帰して貰えることとなった。あの後、カフェに置き去りにしてしまった李緒はお母さんが迎えにきてくれたらしい。本当に申し訳ないことをしてしまったと心から反省している。彼女は信頼して、かさねに李緒を預けてくれたはずだというのに。
そんなわけで、翌日李緒の家に、お詫びのお菓子を持って尋ねることとなったのだが、李緒の母親はかさねを一切叱らなかった。どうやら、李緒からある程度説明を受けたらしい。彼女の中でかさねは“無責任に息子を置き去りにした小学生”ではなく、“息子を守るため飛び出していった勇敢な女の子”とでもなっているようだった。
『謝らないでね、かさねちゃん。変な人が暴れて大変だったって聞いてるわ。かさねちゃんは、うちの子を助けようとして一人で飛び出していったんでしょう?すっごく勇敢だと思うの。貴女も無事で、本当に良かったわ』
その言葉に、かさねはなんと言えばいいかわからなくなってしまった。
結局、自分はそこまで役に立てていたとは言えない。怪物を倒したのは鳩ヶ谷巡査だし、犯人たちの動きを止めたのも螢の功績。自分は飛び込んでいったものの、人に怪我をさせただけで、犠牲者を減らすことさえできなかったのだから。
しかし、少なくとも李緒にとってはそうではなかったらしい。
むしろその日の夕方、電話で彼に謝罪を受けたほどだ。
『僕ね。本当はね。……カードを持って、自分も飛び出そうと思ったんだ。かさねちゃんのバッグの中に、僕の……フロマージュのカードが入ってるって知ってたから。それがあれば、僕も役に立てるはずだからって。でも』
李緒は、カードを手にして飛び出そうとしたものの、そこで足が竦んでしまったという。
道に倒れている血まみれの人達。
奇声を上げる怪物。
逃げまどう人、悲鳴、悲しみ、怒り、恐怖の感情が渦を巻く道路。
怖い、と。死にたくないという感情が溢れ出し、その場でへたりこんでどうしようもなくなってしまったという。
『ほんと、情けないと思う。かさねちゃんにカードを返してって言った時は、自分なりに覚悟を決めたつもりだったんだ。でも、実際そうなったら、怖くて怖くて動けなくなっちゃった。僕なんかに出来ることがあるのかなって、本当に役に立てるのかって自信なくなっちゃって。……偉そうなこと言ったのに、ほんと、かっこわるい』
「そんなことないよ」
落ち込んでいる様子の李緒に、かさねは心の底から言う。
「死にたくないって、怖いって思うことの何がいけないの?何が恥ずかしいの?……何より、勇気を持つことと無謀になることって違うんだよ。戦える人の邪魔にならないように隠れることや、逃げることだって大事。君がしたのは卑怯な選択じゃない、英断だ」
よく、すぐに敵に捕まって助けを求めるタイプのヒロインがいる。アニメでも漫画でも使い古されたタイプで、特に少年漫画などに多いのだろう。
本人に戦闘能力があって、自分で敵と戦えると思って突っ込んでいったなら捕まるというのならわかる。しかし、こういったヒロインの多くは往々にして『守られ系ヒロイン』なのだ。自分では自分の身も守れないのに、「傍にいたいの!」とか言って戦場で戦うヒーローの傍にきて、明らかに足手まといになっている。ヒロインを守るためにヒーローが本来の力を発揮できなかったり、彼女を助けるために繊細な戦術を与儀なくされたりするのだ。
漫画だから許されるのかもしれない。しかし、現実にこういうヒロインがいたら周りが何を思うかなど明白ではないか。
戦場に、兵士がか弱い妻や子供を連れていきたがるか?
愛してるから一緒にいさせて、なんていう女を無闇と危険地域に連れまわすか?
答えは、否。送り返す安全な手段がないなどの場合は別として、一緒にいてと頼まれても断るのが当然のことだろう。何故ならば、自分の身も守れない人間は邪魔だから。ただ邪魔なだけじゃない、ヒーローや仲間の命をも危険に晒しかねないから。それは非情なことでもなんでもない、肝心のヒロインの命を守るためにも十分必要なことなのだ。
「君がもしあの場所に来て、怪我でもしたら。……君を守るために、誰かが庇わなくちゃいけなかったかもしれない。……それは君の罪じゃない。小学校一年生の小さな男の子なんだから当然のことだ。でも……なればこそ、君は自分が無力であることを自覚する勇気が必要なんだよ」
「弱いから、ってこと?」
「今はまだ、だけどね。だから、あの時は君が来なかったのはけして逃げではないし、間違った選択でもない。自分の弱さを認めることこそ、本当に強い人間になるための第一歩だと私は思うから」
だから、ありがとう。
心の底からそう告げると、李緒はしばし電話の向こうで沈黙した。本当は、納得なんてできないのだろう。自分にもできることがあるはずだと信じていたいのだろう。
無論、彼に何一つできないなんて思っていない。
ただ、できることを増やすために努力が必要なことと、そのための選択を間違えてはいけないというだけのことなのだ。
RPGゲームで、白魔導士の仕事は回復魔法で味方の傷を癒すことであって、杖で殴ることではないのと同じように。
『……もっと』
やがて、少年は苦悩の末口を開く。
『もっと僕が強くなったら……かさねちゃんの役に立つことも、できる?』
「もちろん」
その話をしながら、本当はかさね自身も考えている。自分も弱いと、打ちひしがれたからこそ。何ができるのか、真剣に考えなければいけないと思うからこそ。
「大丈夫。人は、強くなれるイキモノだもん。私も、君もね」
電話を切った。
李緒の話によると、どうやら例の騒ぎは「怪物の着ぐるみを着た人間が、着ぐるみに仕込んだ刃物を使ってみんなを傷つけまくったらしい」ということになっているらしい。着ぐるみにしては変だったと証言している人間もいるようだが、警察が情報統制すればこれ以上おかしな話が広まることもないだろう。最近の特撮技術などはよくできている。本物そっくりの特殊メイクの人間がうろついていたって、現実的に考えればそうそうおかしくはありまい。
――ましてや、あのリザード・マンは身長2メートルくらい……。人間と、そこまで体の大きさが違うわけじゃなかったし、多少は誤魔化せるか。
もう一枚のカード、クイック・ハルバートの方が目撃されていたらこうはいかなかったことだろう。幸いにして、そちらを操っていた男(猿渡克、という名前だったらしい。ちなみに、リザード・マンを操っていた男は羊谷健次郎という男だったようだ)は隠れていて直接犯行に関わっていなかった。そして、精霊を呼び出した時、現場には螢とかさね、鳩ヶ谷警察官くらいしかいなかった。あちらを特殊メイクだと誤魔化すのはかなり骨だったはず。どこかで後々目撃情報が出てしまうかもしれないが、握りつぶせないほどではあるまい。
そう、かさねは実感したのだった。精霊たちの存在は、やはり表で明らかにするべきではない。
あのようなカードを持っている人間がいること、そしてそれを悪用して通り魔をした奴がいるなんてことが世間に知られたら、確実に大パニックを巻き起こしてしまう。
問題は、ここまでの騒ぎになってしまうと、獣埼町交番の人達だけで黙っていてもらうわけにはいかなくなってしまったということだが。
――警視庁の人とかも、出てくるのかな。……本当に、大変なことになっちゃったな。
螢を助ける。そう決めた気持ちに揺るぎはない。
流転の魔術師たちを、元の世界に帰し、マスターと再会させたいという気持ちも。でも。
――でも、頭パンクしそうだよ。元々そんな、出来のいい頭じゃないし。混乱する……。
ベッドにごろん、と寝ころんだその時だった。
「なあ、かさね。少し話をしていいか」
「ん」
声がかかった。流転の魔術師だ。なんとなく、顔を合わせて話がしたいのだろうと察して、かさねはカードを掲げる。
幸い、今丁度両親は買い物に出かけていて留守だ。帰ってくるまでは、少々お喋りをしていても咎められるようなことはないだろう。
「元気がないな」
藍色の衣と、長い蒼髪が広がった。美しい魔術師は、憂いを帯びた表情でベッドの横に立ち、かさねの顔を見下ろす。
「やはり、私たちの存在が貴女の心労になってしまっているか」
「流転さんは悪くないよ。それと、自分を手放した方がいいのでは、とかいうのはナシね?私も気持ちはもう言ったでしょ」
「しかし、あれは事件の前だ。……貴女も理解したはず。世の中にはカードの力を使って、人を傷つけることも厭わないような人間がいると。一歩間違えれば、リザード・マンに切り裂かれて死にかけていたのは貴女だったかもしれない。それこそ、今回の事件で死者が出なかったのは殆ど奇跡なのだから」
「……うん」
最終的に、負傷者は二十二人にも及んだと聞いている。死人が出なかったのは、本当の本当に運が良かった結果でしかないだろう。そして死ななかったからそれでいいわけではない。中には、足を切断しなければいけない人や、筋肉や性器などに取り返しのつかない傷を負った人もいると聞く。これを、幸運だった、で済ませてしまうのが無理があるだろう。
本当ならば、そこまでの事態になる前にあの男たちを捕まえたかった。螢が言った言葉は、実に尤もだ。
『ああ、したね!俺が小学生の時からずーっとそうだ。人がちょっとブサイクだから、チビだからって馬鹿にしやがって!ひそひそひそひそ、悪口言われまくるムカつく日々!だから俺は自分が奪われた尊厳を奪い返してやるんだよ!その権利が俺にはあるんだ!そうすりゃ俺は、もう底辺の人間じゃないって証明できるんだからな!』
羊谷健次郎、とかいう男の言葉が蘇る。
彼は、自分の正しさを信じて疑わなかった。己が苦しめられた分、無関係の誰かを苦しめる権利があると本気で信じていた。――そんな醜い欲求を滾らせた男だからこそ、カードが渡ってしまったのだろう。説得しようとしたつもりだったが、途中で悟るしかなかったのである。
世の中には、人の言葉がちゃんと通じない獣もいる。
通じたところで、自らの正しさを疑えず、過ちを認める勇気がない人間も存在するということが。
そして残念ながら螢の話からして、あのような人間は氷山の一角でしかないのだろう。
「……本当は逃げたいって気持ちも、確かにあるよ」
かさねは体を起こして、深く息を吐いた。
「でも。……カードを持っていなくても、ああいう奴に襲われる可能性はゼロにならない。そうでしょ?流転さんと一緒なら、対処する方法もあるかもしれない」
「そうだが……」
「力を得たとしても、その力をどう使うかは私達が自分の手で選べるはず。だって、私達には意思があるんだから。人間としての誇りが、信念が、尊厳があるから。……だからそういうものに賭けて、私は自分でちゃんと選びたいの。……剣を誰に振り下ろすのか、振り下ろさないか。選ぶ立場でいたいの」
理想論だとわかっている。綺麗事だと知っている。
でももう、その一番大事なところで、自分を誤魔化したくはない。
「だから、流転さん。……きっと私、流転さんのことも危ない目に遭わせてしまうと思うけど。でも……それでも、守れるように頑張るから。これからも、一緒に戦わせて」
まっすぐに青い瞳を見つめれば、青年は――どこか眩しそうに目を細めて言ったのだった。
「なるほど。君は確かに、星空に……マスターによく似ている。私達が出会ったのは、必然だったのだろう」
「わ」
そして。かさねの手の甲に、そっとキスを落としたのだった。まるで姫に、忠誠を誓うがごとく。真っ赤になるかさねに、うっとりするほど美しい微笑みを向ける魔術師。
「どうか、これからもよろしく。君を仮マスターに選んで、本当によかった」