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「どうする? 今日は宿に戻るか、それともこのまま騎士団のギルドハウスまで行っちゃうか」
「行っちゃおうよ。大丈夫、カフカさんはいつも遅くまでいるから」
「勤勉なこって。ならそうするか」
バベルを出ると夕暮れがふたりを出迎えた。第12層はまだ日が落ちてはいなかったのだが、どうやら街の中とバベルの中では太陽の位置が違うらしい。
そもそも塔の中に屋外の空間がある時点でふつうではない。アレンはただ『そういうもの』として捉えることにした。
「……なんとなく、訊きそびれちゃいそうだから言うんだけどね」
「ん?」
夕陽の色に染まる赤い街並みを行きながら、騎士団のギルドハウスに向けて先導するノゾミは、ふと思い出したかのようにそう言った。
それは単に、歩く間の暇つぶし。だがそれだけでなく、より仲を深めたいというノゾミの気持ちが表れるような問いだった。
「アレンの名前って、なんて言うの?」
「——」
「あ、べ、別に答えたくないなら大丈夫だよっ。こういうのってふつう、本名は隠すものみたいだし!」
アレンがすぐに答えないものだから、あわててノゾミはそう補足する。
だがアレンが言葉を失ったのは、ただその問いがあまりに予想外だったからだ。むしろ自分がまだ本名を名乗っていなかったのに気付き、そのことが意外なほど。
「
知られてもいいと思った。知ってほしい、とも。
「あかはり……れん?」
小首をかしげるノゾミに、ああ、とアレンは首肯する。
特段珍しくはない範疇の名前だろう。その程度のものとアレンは思っていたが、なぜかノゾミはその場に立ち止まり、なんだか難しい顔になってうつむくとなにかを考え込む。
「な、なんだよ。驚いたりするようなもんじゃないだろ、別に」
「ううん。だって、『あかはりれん』って、それって……!」
当惑するアレンに、バッと顔を上げたノゾミは語気を強めて言う。
「縮めて『アレン』じゃない! アレンって本名の略だったんだ——!」
「……え、そうだけど」
その通りだった。なぜそんなことをこうも大げさに伝えたのかと、今度はアレンの方が小首をかしげる。
「ええーっ、なにそのうっすい反応! 薄いよぉ! アレン! 赤梁連縮めてアレン!!」
「ポケットモンスター縮めてポケモンみたいに言わないでくれ。なんだよ急に、なにをそんなに騒いでるんだ?」
「な……な…………っ!」
「……どういう顔?」
ノゾミは大口を開けながらアレンを凝視し、わなわなと震えた。
アレンが今までに見たことのない表情で、ややもすればマグナに攫われる間際よりも迫真の顔つき。
「わたしのこと! イマドキ本名をIDに設定したって大笑いしたのはアレンじゃんかー!!」
「え? ああ、そのことか……」
「『そのことか……』じゃないよぉ!? わたしのことあれだけバカにしてたのに、アレンだって本名を名前にしておるよ! 一体いかような申し開きをしてもらえるのかなぁ!?」
怒りすぎて口調がヘンになっていた。
「別にバカにしたわけじゃ……それに俺は名前そのまんま付けたわけじゃないし。だいいち、アレンって名前を付けたのは中学の時だったし……ていうかアカウント作る時にテキトーに決めただけだし……」
「なにそれっ、納得いかなーい! なんだか喋り方も腹立たしい! 誠に遺憾ですよわたしはっ!」
「そんなこと言われても……」
——昨夜あれだけ笑ったこと、まだ根に持ってたのか。
とは、とても口に出せないアレンだった。もし漏らしてしまえばノゾミの怒りがどれほどの高みへ昇りつめてしまうのか、『鷹の眼』による発散的思考を駆使してもとても計り知れるものではない。
「いや、悪かったよ。なんとかその大いなる怒りを鎮めてくれ」
「そう簡単に収まらないよこの怒りの炎はっ。もっと真摯に謝ってくれないと!」
「ごめんて」
「軽い! これまで聞いた謝罪の中で一番軽いよそれ!」
ぷんすこするノゾミに対し、アレンはどう宥めたものかと考えあぐねる。やはり
と、そこへ、奇妙な影がそばを通り過ぎた。
「……ん?」
アレンたちが向かうのとは逆方向に駆け抜けていく、数人の
なにか、恐ろしいものを見たかのような。
「ちょっとアレン、聞いてるのっ? これはもう装備屋のゴスロリワンピを着てもらう形で誠意を示してもらうしかないよ!」
「それは天地がひっくり返ってもお断りだ。それよりノゾミ、あっちの方、なんか妙じゃないか?」
「えぇ? 気を逸らそうったってそうは……あれ? 本当だ。なにか、声が……」
気づけば遠くで声。いくつもが重なり合い、それらが個別にどのような意味を持つのか、解釈にわずかな時間がかかる。
これは——悲鳴?
「……アレン、これって」
「なにかあったみたいだな。それも、悪い方向のことが」
道の先から、またしても見知らぬ
今度は何十人も。まるで災害が起きて逃げ惑うように、恐怖と狂騒に駆られた表情で。
「待ってくれ。あんた、向こうで一体なにがあったんだ? 教えてくれないか」
押し寄せる人の波。すれ違う人々のひとりにアレンはそう声をかけ、状況を訊いてみる。その間にも、周りにはバベルの方向へ我先にと駆けていく人々。
声をかけた男は迷惑そうに顔をしかめつつも、足を止めて答えてくれた。
「この先で
「暴れてる? 暴動、みたいなことか?」
「そ、そんな。この先は各ギルドのギルドハウスが密集したエリアだよ? 当然〈解放騎士団〉のだって! そんなところで危ないことなんてできるはずないよっ!」
ノゾミの指摘はもっともだった。アレンたちはまさに〈解放騎士団〉のギルドハウスを目掛けて歩いていたのだ。
この先は、カフカ率いるアーカディア最高戦力である〈解放騎士団〉の膝元である。
「暴れてんのはその騎士団の団長だよ! もういいだろ、俺はもう行くぞ——嬢ちゃんたちもとっとと逃げろよ!」
「あっ……」
まくし立てるように言うと、男は今度こそ走り去ってしまう。
去り際の言葉は、アレンたちをより強い当惑の迷路へと誘うものだった。ノゾミといっしょくたに嬢ちゃん呼ばわりされたことさえ気にならないほど。
「騎士団の団長、ってカフカのことだよな。なにかの間違いか?」
「うん、わたしもそう思う。行ってみよう、アレン!」
「そうだな、行って確かめるしかない……!」
ふたりはうなずき合い、人波に逆らって街路を行く。
蜘蛛の子を散らすように逃げる
「なんだ、これ」
一面の炎。先の男の言葉に偽りはなく、そこはもう火の海だった。
ギルドハウスが密集しているというその道の周囲は、すべて燃え盛る火に狂おしく舐め溶かされている。夕陽さえ塗りつぶす地獄の赤色に、逃げ遅れた誰かの悲鳴と、バリバリと建物の崩落する音が混じる。
そんな錯乱の中心に、金の髪をした男が立っていた。
目を閉じ、まるで心地よい陽だまりの中にいるように、それともオーケストラの指揮でもするかのように、どこかうっとりとした表情で両手を広げながら。
「カフ、カ?」
炎上するユートピア。熱風に吹かれて乾いたアレンの唇が、呆然とその名を紡ぐ。
「——ああ。来たのか、アレン君」
まぶたを開き、アレンを見据えるカラスにも似た黒々とした双眸。彼の頭上には確かに、『Kavka』というID表示が浮かんでいた。
そしてアレンはさらに重要な一点に気が付いた。
カフカが本当にその場にいたことへの衝撃。地獄の釜の中のような、周囲一帯の火災への衝撃。
それらをともすれば上回る——カフカの頭上、ID表示のさらにやや上に浮かぶ、黄金色の王冠。
「……『クラウン』?」