「この世界はループしている。僕は、二周目だ」
朝方のカフェ、客入りの乏しい店内の一角。
窓際のテーブルで、軽薄な表情を消して口にしたユウの言葉に、向かいに座るふたりは言葉を失った。
時が凍るような沈黙。やがてそれを先に破ったのは、癖のない金の髪を持つ碧色の目の少女——の
「ループ……二周目? なにを言ってるんだ、お前は? 適当なこと言って煙に巻こうって魂胆か?」
「そういう反応になるのは理解できる。物的な証拠もない。けど、事実だよ。僕には『前回』の記憶がある……混沌期を経てやがてバベルを攻略するためのギルドが立ち上がり、そして最上階である第100層にたどり着いた時の記憶が」
「最上階っ? それってゲームクリアってことじゃないの? バベルの第100層にたどり着けば、アーカディアから出られるって話じゃ……」
今度はアレンの隣に座る、栗色の髪をした少女が困惑気味に言う。かつて〈解放騎士団〉のギルドに所属していた彼女、ノゾミはつい先日までその稀有なユニークスキル、『ゴーストエコー』のせいで騎士団の団長が巡らせる謀略に巻き込まれ、身柄を狙われる立場にあった。
しかしその件は解決し、今はバベルを攻略することで現実への回帰、ひいてはプロゲーマー復帰を目指すアレンのことを助けたいのだと決意を露わにしたばかりだ。
「ああ、あれは嘘……なのかはわからないけど、ひとつ罠があったのさ。最悪で悪辣な、クソッタレの罠が」
ユウにしては珍しい、口汚い直接的な罵り。
この迷路じみた街の中心にある巨大な塔、バベル。その頂、第100層にたどり着いた時、ゲームクリアとして現実世界へと回帰が叶う。そういう話が、出自は不明ながら、このログアウト不能の狂ったMMORPG『アーカディア』の最初期からまことしやかに囁かれていた。
だが、ユウの言葉が事実なら、ギルドマスター及びサブマスターを失い解散した〈解放騎士団〉に代わってこれからバベルを攻略せんとするアレンにも、その『罠』とやらが待ち受けることになる。自然、アレンは頬はぷにぷに柔らかでも面持ちだけは硬くしてユウの話の先を促す。
「言ってみればラスボスかな。塔の頂には、このアーカディアを統べる存在が待ち受けていたんだよ」
「ラスボス? ボスモンスターか。そういえば、バベルは十層刻みでボス部屋があるんだったな」
「いいや、モンスターじゃない。あれにはIDがあった。僕たちと同じ、
コーヒーカップの取っ手に添えたままだった手を頭上に持ち上げ、ユウは自らのIDがある場所を指で差す。アレンやノゾミには、そこに浮かぶ『Yu』の文字が見えている。
「
「それも違う。あれは
「アーカディアに生み出された存在……NPC?」
「ああ、近しいのはそっちだろうね。もっともこのカフェや道具屋なんかにいる不出来なロボットみたいなのとは少し違って、気だるげながらも情緒があった。会話も多少は成立した」
ともかく、と話をまとめる。
「
繰り返す世界の元凶。すべての
*
パンドラ。謎多きその名を口にしたユウは、ほどなくしてアレンたちを連れて店を出た。
第100層での出来事の詳細。ユウが語る『前回』のこと。
それらについても、今どこへ向かっているのかも口にせず、朝の静けさに満ちる街路を軽い足取りで歩いていく。
「おいユウっ。いくらなんでも説明が足りなさすぎるぞ。ループだとか二周目だとか、パンドラだとか……!」
「言ったでしょ? 一番肝心なことは告げる、って。裏を返せば、それ以外のことは教えない。詳しい話をキミたちにするつもりはないよ」
「なんだと?」
拒絶するような物言いのユウ。アレンがその背に問いただすような視線を送ると、それに気が付いたわけではないだろうが、足を止めて振り向いた。
「アレンちゃんが僕に対する警戒を解いてはいないように、僕もまた、キミたちを信用したわけではないってことさ。『クラウン』の出現条件を知ってしまっただけでも、正直危ういと僕は思ってる」
『クラウン』の出現条件——このアーカディアで現在最もキルスコアを稼いだ
つまるところ
ほかでもない〈解放騎士団〉の団長だった、カフカの凶行によって。
「それは……俺やノゾミが、第二のカフカになるって言いたいのかよ?」
「その可能性はゼロじゃあない。少なくとも、秘密を知る者が増えれば増えるほど、『クラウン』を求めて争いを起こそうとする輩が現れる確率も上がる」
——決してそんなことはしない。
アレンも、そして当然ノゾミも、カフカのように『クラウン』を現すためだけに誰かを殺める、ゲームオーバーにすることなどありえない。
碧色の双眸に、言葉を尽くすよりもずっと雄弁な強い意思を込め、アレンはユウの顔を見つめる。
だが次の瞬間、アレンの脳内は当惑に占められた。
(こいつ、なんなんだ? 俺のなにを知ってる……!?)
暗黒。
アレンが見たのは、光の差さない大穴の底のような、茶色がかったユウの瞳の奥の闇。
そこには邪推でも確信でもなく、純然たる事実に基づく憶測だけが存在した。
アレンがたじろいだ間にユウは踵を返し、また街路を歩き出す。アレンとノゾミがおいていかれぬようにと再び後を追うと、そのままユウは話を続けた。
「アレンちゃん、特にキミは危険な存在だ。〈
「方法を知った以上、その気になれば『クラウン』を出現させられる、か? 俺はそんなことはやらない。アーカディアの支配になんて興味はない。俺は現実に戻りたいんだ!」
「そうですよ、アレンは『クラウン』になんて興味ないです! 力を得るために誰かを陥れるなんて、絶対にしない……!」
「ノゾミ……」
アレンを庇うノゾミ。〈エカルラート〉や〈解放騎士団〉からの謀略の魔の手から助けられたノゾミの言葉には、アレンに対する感謝と信頼がありありと浮かんでいるようだった。
おそらくはそれを感じ取ったであろうユウは、それでも「しかし」、と口にする。
「騎士団のカフカだって、つい昨日までは多くの者に信頼をあずけられる人物だった。絶対なんてありえないさ。人の心は変わるもの……いい方にも悪い方にもね。だからこそ、ここはひとつ試してみたい」
「試す? なにをだよ」
「キミの心を、だ」
いつの間にか三者の靴の裏はバベルの北にある街路を踏みしめ、やがて、見覚えのある開けた場所に出た。
静かな朝に似合う、澄んだ川のせせらぎが響いている。
草に覆われた地面にはぽつりぽつりと白く小さなアイリスの花が一帯を囲むようにして咲き、その中心には、屹立する円盤のような奇妙なオブジェがあった。
「ここは……ゲームオーバーレコード?」
アレンにとっては、一昨日見たばかりの光景だ。
ゲームオーバーレコード——死者の名を書き連ねる円盤。ゲームオーバーになった
一昨日ノゾミがここへアレンを案内した時と違い、そこには『Magna』『Rica』『Kavka』といった名があるはずだ。
「ここは
ここが目的地だったらしい。ユウは振り返ると、アレンを再びその黒い目で見据える。
「さっきも言ったが、キミは危険だ。僕のように無力な人間からしてみれば、アレンちゃんの
「爆弾呼ばわりとはな。失礼なやつだ」
「まあ、アレンってば実際ユニークスキルで爆弾出すんだから、大きく外れてはないんじゃない?」
「……あのさノゾミ、お前どっちの味方なんだよ」
アレンがため息をつくと、ノゾミは舌を出して笑った。
そんな二者のやり取りを、ユウは軽薄な笑みを顔に貼りつけて眺めている。心の底でなにを考えているのか、『鷹の眼』を持つアレンでさえもまったく見通せない。