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翌朝、決戦の日がやってくる。それとも最果てである第100層までは未だ何層もの隔たりがあるのだから、この表現はいささか大仰だろうか。
否。第70層に踏み入ることは、アレンとってまさしく決戦と呼ぶにふさわしい。
朝のうちに宿を出たアレンとノゾミは、まっすぐに〈サンダーソニア〉のギルドハウスへと向かう。そして昨日と同じように応接間に案内される。
「あ、来たね。おふたりさん」
「……なんだかお前は、いつも先にいるな」
「ユウさん! お早いですねー」
「ハハ。得意なんだ、先回り」
「嫌な特技だなおい」
先に席に着いていたユウは、呑気にコーヒーをすすっていた。昨日も見た光景だ。
アレンたちがギルドハウスへ再度やって来たのは、バベル入りする前のブリーフィングのためだった。〈サンダーソニア〉から攻略に参加するメンバーとの顔合わせを兼ねている。
しばしすると、一度シンダーが顔を見せにきた。軽い挨拶ついでに、朝食は摂ったかと訊いてくる。アレンが「俺たちは食べてから来た」と答えると、彼女は「ではコーヒーだけ運ばせます」と言って奥へと戻った。
「……食べてないって言ったらよかったかなぁ?」
「いや、二食ぶん食べるつもりかよ」
「だって昨日ごちそうしてくれたご飯おいしかったしー。あーっ、思い出したらもうお腹空いてきちゃった。どうしよう、今からお願いするのはさすがに失礼かなぁ。失礼だよね……うごごご……」
「なんだそのうめき声は」
ノゾミの言う通り、昨晩振る舞われた食事は中々のものだった。アレンにとっても、アーカディアに来て食べたものの中で一番おいしかったと言っていい。
もっとも資金難という話は聞いていたので、無理して客人をもてなす必要はないのだとも伝えたかったが。かといって直接それを口にしてメンツをつぶすのも憚られた。
「だいたいさ、太るぞ。そんなに飯ばっか食べてたら」
「うッ!? す、鋭い一撃……クリティカルヒットだよアレン! 今のは痛かった!」
「ま、アーカディアで体重の増減があるかなんて知らないけどさ」
「痛かったよぉーっ!!」
アレンに飛びかかるノゾミ。もちろん本心からの激昂ではなく、ほっぺをむにむにするくらいのじゃれ合いだ。アレンの方も鬱陶しそうな表情こそ浮かべてはみるものの、もう慣れっこなので特に暴れるようなこともしなかった。ノゾミは
が、そこにカップを三つ、トレイに乗せたシンダーが戻ってくる。まだ朝方でギルドハウスに人があまりいないのか、ギルドマスター自らの給仕。
「あ」
「まあ。昨日も思いましたが、ずいぶんお仲がよろしいんですのね」
シンダーはソファでもつれ合うふたりを見ると、口の端を吊り上げる。それからユウのお代わりも含め、テーブルにカップを置いて去っていく。
恥ずかしいところを見られてしまった。アレンとノゾミは羞恥と気まずさから、すぐにソファに腰を落ち着け直す。
「しくじった……これからバベルに入るっていうのに。どんな顔して会えばいいんだ」
「ご、ごめんねアレン。わたしのせいで」
「いや、お互いさまだろ。俺も太るだとか、余計なこと言ったし」
アレンはシュガーポットに手を伸ばしつつ、先のシンダーの笑みの意味を考える。
あれはギルドマスターらしい余裕たっぷりな態度から出る、一種のからかいだったのか。それともじゃれ合う子どもに対して向ける、純粋な微笑ましさの現れだったのか。
どちらにせよ恥ずかしいことに変わりはない。失態を悔いながら、アレンは角砂糖をカップへ落とす。
ぽちゃん。ぽちゃん。ぽちゃん。ぽちゃん。ぽちゃん。ぽちゃん。ぽちゃん。ぽちゃん。ぽちゃん。ぽちゃん。
十個。昨日に比べ、少し遠慮がなくなったか。
常飲すれば人体に多大な悪影響を及ぼしかねない暗黒液体の入ったカップに、アレンが口を付ける直前。
「…………あえて言わなかったけど。そもそもアレンちゃんの方が糖分摂りすぎでヤバいと思うよ」
毎度の光景を見つめ、二杯目をすすりながら、ユウは引きつった顔でそう言うのだった。
*
昼前になる頃、シンダーが五人の男女を連れて応接間に戻ってくる。
若者を中心とした、実直そうな者たちだ。表情にはわずかに緊張のこわばりが見て取れる。
緊張。アレンたちと会うことに対するもの——ではないだろう。
「……その人たちが、バベル攻略に参加してくれるメンバーか。挨拶しないとな」
「さすがはアレンさま、話が早くて大変助かります。アレンさまの経歴についてもお話ししておりますのでご安心を」
——それは助かる。
アレンもいい加減、会う人会う人に毎回『幼女になっちゃった元プロゲーマーなんです』と説明をするのはうんざりだった。だって信じてもらえないし。
「それから、メンバーはわたくし含めて七人になります。つまりもう一名——いささか到着が遅れているようです。申し訳ございません」
「いいさ、ゲーマーは時間を守れないからな。よくあることだ」
「それもどうかと思いますが……」
七人目が来るまで、幸いなことにそう長い時間はかからなかった。
五分ほどしたところで、遅刻者にしては悠然とした足取りでひとりの男性がドアから現れる。
「おっとォ、皆さんおそろいみたいで」
「シルヴァ。遅刻ですわよ」
「すみませんね団長。なにせバベルの攻略をするって話でしたから、準備を念入りにしてきまして」
黒い短髪、その頭上に浮かぶ『
シンダーに敬語こそ使っているが、年齢で言えばこの場で最年長なのは間違いない。おそらくは三十代前半、無精ひげのあるどこか覇気に欠けた男性だった。
「紹介いたします。彼はシルヴァ、わたくしたち〈サンダーソニア〉で最も剣術に長けた
「どーも。話は聞いてますよ、アレンさんは元プロゲーマーだとか。いや、大した経歴だ」
「ああ……あんたはその、疑わないのか? ほら、俺こんな見た目だし」
「まあ、見るからに幼女だなぁ」
「うっ」
シルヴァは歯に衣着せず、ちんまりボディのアレンを見てはっきりと言う。シンダーが咎めるように彼を見た。
「シルヴァ、貴方——」
「あー、気を害したのなら謝りますよ。ただ、おれァ見た目なんて重要じゃないと思うんですよ。重要なのはなにができるか、なにをしようとしているかだ。おたくらはうちの
男の口元に浮かぶ快活な笑み。アレンはどこか、同じチームで活動していた頃のマグナを思い出す。
「改めて昨日の一件、おれからも感謝を。伝令を聞いて街を飛び出した時にゃあ終わってた。団長がおたくらを信じたんだ、だったら団員のおれたちも従うさ」
「そっか。ありがとう、シルヴァ。あんたもシンダーを信頼してるんだな」
年齢で言えば一回りも二回りも下になるはずのシンダーに対し、シルヴァは団員として敬意を抱いているようだった。もっとも態度自体はどこか飄々としていたが。
コーヒーを飲み終え、手持ち無沙汰に自らのボーナスウェポン——アドバンテージのカードを指先で弄っていたユウが言う。
「シンダー君、確認するけれど、これでメンバーは全員かな? 全部で十人……」
「そうなりますわ。申し訳ありません、先にも言った通り〈サンダーソニア〉は争いを好みません。騎士団に次ぐ人員と言えど、今すぐに戦えるのはこの程度……もちろんこの先もバベル攻略の要員は募りたいと思っております。ですが、強制することだけはしたくないのです」
「いいや、むしろよく集めてくれたと思うよ。ま、騎士団みたいに五十人以上で挑めれば言うことナシだけど、現状の階層ならこの人数でも大丈夫。こっちには一騎当千のアレンちゃんもいる」
「ちゃんを付けるなちゃんを」
「攻略していくうちにきっと、ほかのギルドや無所属の
「——」
ノゾミが何気なく発した言葉に、アレンはわずかな驚きを覚える。思わずぽかんとしていると、ノゾミがそれに気づいて慌てて声を上げた。
「え、な、なに? わたしヘンなこと言った? またなにかやっちゃいました??」
「いえ、そんなことは。おっしゃる通りだと思います、順次階層の攻略が進めば、外部からメンバーを募集することもしやすくなりますから」
「むしろゆくゆくは必須になるだろうね。さすがに80層や90層を十人そこらで挑むのは危険すぎる」
ノゾミの発言にどこもおかしなところはない。シンダーたちが答えたように、ほかのメンバーも疑問に思ったりなどした様子はない。
そう、おかしなところなどない——アレンはただ、ノゾミが『楽観的な展望』を口にしたことそれ自体に驚いたのだ。
(〈エカルラート〉に狙われて、騎士団も頼れず、自死さえ考えていたノゾミが……)
アレンもまた、アーカディアに来てから迷いを覚えることはたくさんあった。
幼い少女そのものになってしまった肉体。もはやプロに未練などないのだと、自分を偽ったままアーカディアに閉じ込められた。そこでマグナと出会い、凍てついた夢の続きを見た。
しかしマグナは消え、〈解放騎士団〉は瓦解した。
——本当にこれでよかったのか?
(……ああ、これでよかった。ここまでの道は間違いじゃない)
心の底でわだかまっていた疑問に、答えを返す。
失ったものがあるのだとしても。悲嘆に暮れていたノゾミは今、笑って未来に希望を持つことができている。その笑顔があればこそ、アレンもこれまでの歩みを肯定することができた。
そして、ここまでの道が正しいのなら、これからの行く先も正しいはず。