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第60話 『偽物のスカイブルー』

「はっ、ゲームに近い現実ね。詭弁に聞こえるが……そういう捉え方ができていれば、俺も過ちは犯さなかったんだろうな。今となっては取り返しもつかないことだが」

「確かに取り返しはつかない。だけどなネームレス、お前が勘違いしていることはもうひとつある」

「なんだと?」


 予想外とばかりに碧色の目を丸くする。再現された教室の窓の向こうには、かすかな雲に飾られた、どこまでも続く青空が広がっている。

 抜けるようなスカイブルー。それは彼らの瞳にも似て。

 譲渡された『再構築リビルド』の権能によって形作られた、バベルの外とはなんらかかわりのない偽りの空間であったとしても——いびつな偽物であったとしても、心に染み入るようなその青さ自体に嘘はない。


「過ちを犯したとして、その先のすべてが間違いだなんてことにはならない。お前はもう『アレン』じゃなくネームレスなんだ。なら、それはそうとして生きていけばいい」

「間違ったまま生きろ、と? 簡単に言うなよ……! それはお前が『アレン』だから、間違っていないからこそ吐ける言葉だ!」

「間違いならあるだろう。この教室を造ったお前にわからないはずはない」


 この空間こそが、『アレン』が犯した過ちの証明だ。

 他人から見れば、それは単なる小さな咎かもしれない。誰しもが経験するような子ども同士の諍いでしかないのかもしれない。解決することなく日々が過ぎ去り、やがて記憶からも忘却の波に洗い流されて消えてしまうような、少年時代に残すわずかな苦い思い出程度のことなのかもしれない。

 それでも——


「——これは確かに俺の間違いだ。お前の言う通り、俺はこの教室から逃げるべきじゃなかった。逃げ出さず、相手と向き合って、頭を下げるべきだった。……その勇気がなかったことは、否定できない俺の弱さだ」


 人間関係の衝突から逃れてしまったこと。閉じこもった部屋から一歩を踏み出す勇気が持てなかったこと。今でも心に刺さったトゲのような、小さな後悔の楔。


「ネームレス、思い出せたのはお前のおかげだ。ここまで省みることなんてしなかった俺だからな。お前がいてくれなかったら、俺はこの間違いをいつしか忘れてしまったかもしれない」

「忘れた方がよかったとは、思わないのか?」

「思わないさ。自分のことはなんだって覚えていたいよ。良きにつけ悪しきにつけ、な」

「そういうものか……ああ、これも俺たちに生じた違いか。俺はもうお前みたいには考えられないみたいだ。苦しいこと、辛いことは忘れてしまった方が幸せだって思ってしまう」


 かつて『アレン』だった、少女の見た目をした彼は、どこか自虐的に唇をゆがめる。最初は同じ価値観を抱いていたはずが、彼は凄惨な道のりを歩むうちに考え方を変質させた。

 そして、二度と元には戻るまい。


「変わったなら変わったでいいんだよ。学校を遠のいたのは間違いだと言ったが、プロゲーマーになったことまで間違いだとは思わない。こんなにも夢中になれることに出会えたんだからな」

「……その結果自体が、過ちによる産物だとしてもか?」

「間違いから生まれたものが正しいことだってある。そこに矛盾なんてないと俺は信じる。そうじゃないと、あんまりだろ。一度間違ったらずっとそのまんまなんてさ」


 マグナはノゾミを自死一歩手前まで追い詰めた。カフカは『クラウン』顕現のためにリカたちギルドメンバーを犠牲にした。『前回』のアレンはユウに危惧されるほどのプレイヤーキラーだった。

 しかし、マグナは迷えるアレンの背を押し、『クリムゾン』を託した。カフカは団長としてバベルの攻略を進め、ノゾミに騎士団という一時の居場所を与えた。『前回』のアレンもユウに『キングスレイヤー』を託した。

 それらは誤った行動ではない。誰かの助けになるのだから。


「そうか……そうだな。人は間違うものだ。そんな当たり前すら、泥から生まれ直す時に忘れてたみたいだ」


 座り込んでいたネームレスは、はあと長い息を吐くと床に手をついて立ち上がる。アレンを見つめるまっすぐな眼差し。昏く淀んでいたあおの瞳には、先ほどアレンが垣間見た、自らを消し去るという切なく痛々しい光ではなく、雲を裂いて差す光明のような輝きが宿っている。

 それはか細く、あえかな——しかし確かにそこにある希望。未来に向けて歩まんとする意志。


「ネームレス……」

「だが今度こそは間違えない。マグナさんがお前に希望を託したのなら、俺もその遺志に従おう。それが、話し合うこともせずあの人をゲームオーバーにした俺の贖いだ」


 かの思考実験におけるスワンプマンは、雷に打たれた死者と同一の性質を持つ人物として語られる。ではもし、雷に打たれた人物が無事に生還していたとしたら?

 元の人物と沼男スワンプマン。二者が同時に存在し、生存していた場合に、それらは同一の人物と呼べるだろうか?

 否、呼べはしない。なぜなら双子の人間がそれぞれ別々の人生を送るように、分かたれた二者は違った行動を取り、違った環境に身を置き、違った価値観を形成していく。時が経てば経つほどそのギャップは大きくなるだろう。

 だがその違い、元の人物から乖離し、別人となったスワンプマンの生そのものが間違っていると誰が言えよう。由来がなんであろうとも、一個の生命として確立した歩みを否定する権利など誰にもない。


「ま、パンドラに叩き起こされた時はどっちかって言うと、海の底から引き揚げられたって感覚だったけどな」

「そうなのか?」

「ああ。廃棄物ガベージの海……世界を繰り返すことによって生じるおりの集積。すべてのデータは分解され、そこへ行きつく」

「完全に消えたわけじゃないってことか? なら、マグナさんや消えてしまった人たちも、お前みたいに復活させられるんじゃ……」

「いや、不可能だ。言ったろ? 分解されてんだよ、粒子となった断片のデータだ。管理者たるパンドラがデータログを参照し、欠片になったデータをかき集めて再現したのが俺なんだ。引き揚げられたってのはあくまで感覚の話であって、実情とは違うし、同じことができるやつもいない」


 たとえるなら、シュレッダーにかけた紙を復元し、その書面を新たに書き写すようなもの。ネームレスはあくまでスワンプマン、複写された存在であって、それを復活と呼べるかどうかは議論の余地がある。

 そしてそれとは別に、もっと根本的な事実として、そんなことが行えるのはこの継ぎ接ぎ世界の管理者であるパンドラのみだ。

 もっともパンドラであっても、シュレッダーにかけられた紙片——つまりは分解されたデータの断片からネームレスを復元するのはそれなりの手間がかかっただろう。それは裏を返せば、そうするだけの価値が認められたということでもある。


「そっか。さすがにそううまくはいかないよな、言ってみただけだ。廃棄物ガベージの海ってのはよくわからないが」

「街の外の森に行ったことはあるか? その外側に広がる、黒い海のことだ」

「ん……ノゾミに聞いたことがあるな、それ。確か騎士団が初期に調べたとかで……」

「あの海は俺がいたループよりも拡大しているようだ。それはつまり、このル-プは俺が『アレン』だった時のそれよりもいくらか進んでいるということを指す。具体的に何回程度かはわからないが」

「やっぱりループは二度三度じゃないってことか。ぞっとしない話だな……百や二百じゃないだろうな。待て、世界のループが進むごとにその黒い海が広がるってことは——」


 未だ、アレンがその目で見たことのない暗黒の海。アーカディアを囲う廃棄物。それはネームレスによれば、世界のループが進むごとに広がっているらしかった。

 アレンの脳裏に、すべてが黒い水底へと沈むイメージがよぎる。それはまるで創世記に語られる大洪水だ。違いと言えば、救いたる方舟がどこにも存在しないということ。

 その不吉な想像を肯定するかのように、ネームレスはこくんと顎を引く。


「アーカディアのループは無限じゃない。廃棄物が増えていく以上、世界の許容量という限界があった。……お前も覚えているはずだ。ゲームが発売される前に明かされていた情報によれば、アーカディアは最新の生成AIを使った超大規模のMMO。それが街ひとつと平原、あとは森程度のフィールドしかないなんてのはおかしな話だろ」

「そんな……」


 ループ回数の限界リミットについては、アーカディアをループさせている側にとってもおそらく本意ではないことだろう。すべてが廃棄物の中に埋もれた時、世界が、そして囚われた転移者プレイヤーがどうなるのか。それは誰にもわからない。

 なればこそ、一刻も早く。今回のループでパンドラを打倒し、この狂った世界を終わらせなくてはならない。


(……だが、待て。ネームレスの言う通り、アーカディアは超大規模のMMOって触れこみだった。一番最初にループが始まった時は、事実そうだったのか? だとしたら——)


 平原と森の先には、また別の街があり。村があり。城があり。それだけでなく、RPGらしく魔物ひしめくダンジョンなどもあったのかもしれない。

 だが今、そんなものは影も形もなくなっている。


(——俺が、俺たち転移者プレイヤーが想像するよりもずっと、この世界は……廃棄物ガベージの海とやらに沈んでいるんじゃないのか?)

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