私と父は、血が繋がっていない。
実の父の顔なんて、思い出す事も出来ない。
私が母のお腹に宿った時、実父は責任を取る事を恐れ、姿をくらました。結果、母は一人で私を生み、一人で育てようと頑張っていた。
そんな子持ちでお金もない母を、今の父は支え、結婚した。私に記憶はないが、最初はかなり忌避感を出していたらしい。けれど、父は必死に家族として距離を縮めてくれて、その甲斐あってあっという間に新しい父に懐いたとか。
だからきっと、昔は幸せな家庭がそこにはあったのだろう。母が死ぬまでは。
私が覚えている今の父の姿とは、母が死んだ後の姿がほとんどだ。
酒。たばこ。ギャンブル。女遊び。
小学校から帰ってくれば、知らない女の人が我が物顔でキッチンを使っている事なんてよくあった。
でも、それでも父は私を愛してくれていると信じていた。実際、母の忘れ形見である私を父はちゃんと愛していてくれていたと思う。けれど、それがよくなかった。
いつの日か、それは母へ向ける愛と同じものに変わった。
何を考えていたのかはわからない。どんな気持ちだったのかなんてわからない。
それでも、母が死んで五年後、私は父に襲われた。
一度だけだった。たった一度だけの間違い。酒に酔って、篠突く雨に悲鳴が掻き消えた夜の不義。
泣いて謝る父を、かわいそうだと思った。だから、あの日の事は胸にしまい込んだのに。
大きく、ゴツゴツとした男らしい手が迫る。
小さな頃は、その手で頭を撫でて安心させてほしかった。
けれど、その手は暴力的に、無遠慮にワイシャツを鷲掴み、力強く胸元を引っ張って剥がした。
ボタンが弾けて飛んでいき、壁に反射する。その軌道を、泣き腫らして歪んだ視界で追っていた。
「お前がッ!お前が悪いんだぞ!高校に上がったら一人暮らししろって言ったのに!あんなに散々!こうなるからッ!だから言ったのに!俺に何をされたかも忘れて、大学に行ってもここにいるとか、ふざけたこと抜かすから!だからこうなる!俺だって…俺だって我慢してたのにッ!」
違うよ。忘れたんじゃない。
あの日、今みたいに力で押さえつけられて、襲われて。どれだけ怖かったか。
あの日の事を一度だって忘れた事はない。
それでも、それでもね。父さんが謝ってくれたから。もう一度家族になれるって、信じて。少しでも失った絆を取り戻したくて、だからここに長くいようって。
「お前の父親でいるために、頑張ってきたのに!日に日にあいつに似るお前を避けようとしてたのに、お前の方から近づいてくるからッ!だからこうなるんだよ!」
ベッドに押し倒されて、押し付けられて、父の左手は私の両腕を簡単に封じ込めて、身動きを許さない。
ぐちゃぐちゃに、ただ己の心が壊れる音を聞きながら泣き続けて、その間も止まない怒号をまた涙で誤魔化していると、ふと冷えた水滴が私の涙に混ざった。
「あぁぁぁ…だから…言ったのに。あの日、俺を許しちゃ駄目だって…楓等…」
私の両腕は父に長い間力一杯に拘束され、既に痺れを通り越して感覚が無かった。それでも、その挙動から父の力がわずかに抜けている事に気づく。
「父、さん…」
いつものように、父を呼んだ。
許しを期待する目が、私を捉えた。
男の頬へと、私は手を伸ばした。
「もう、駄目だよ」
伸ばした右手で男の左耳を掴み、左手で手繰り寄せた万年筆を男の右耳に突き刺した。
「ッッッ!!?」
声にならない声が私の手首を揺らす。
それでも掴んだ耳は離さず、引き抜いた万年筆を首の動脈に刺し直した。
目一杯突き刺すと、すぐに首の骨に先端が当たり、万年筆の先端が欠けた感触が伝う。
構わず引き抜いて、ベッドに崩れ落ちた男の両腕を両足で押さえながら、折れた万年筆を何度も首に刺した。
男の右側の首が抉れ返り、筋線維が飛び出す。
夥しい量の血でベッドを染めて、最後に両手で万年筆を握り男の胸へ突き刺した。
肉に穴を穿った万年筆は心臓に届く前に胸骨にぶつかり、中で真っ二つに折れた。
「…ん…なぁ…楓…等」
もはや血を流す蛇口と成り果てた口で、男は言葉を紡ごうと溺れていた。
耳なんて、貸したくもなかった。今際の恨み言なんぞ。
「ごめんなぁ…楓等」
それが懺悔であるのなら、なおの事。
「謝るくらいなら…最後まで、家族でいてよ」
頭が痛かった。
灰皿で殴られたからだ。朦朧としたまま真っ暗なベッドを蠢いて、悴んだ手に何かが当たる。
「…ネクタイ」
暗闇からボールペンを探し出して、小さく抱き寄せながら握りしめた。
「…ごめんなさい、お母さん…私、お母さんの好きな人、殺しちゃった」
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