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第4話

 あっけなく戦争が終わり、ほどなく部隊も解隊となった。


 僕は必ず死ぬ前提で伏龍特攻隊員になっていたのだが、ついに出撃の機会はなかった。すんでのところで命を拾ったわけだが、奇妙なことに、そのことについてはなんの感慨もわかない。


 僕は最後の棒給を受け取り、軍隊を放り出されて復員兵となった。が、爆心地の近くにあった実家は、ピカの一撃で跡形もなく消えてなくなっている。そこにいた家族も、おそらくは何を感じる暇もなく吹き飛ばされてしまったに違いない。


 いや、もしかしたら、家族は吹き飛ばされた訳ではなく、常識を越えた高熱で一瞬にして溶け、炭素や水素、リンやカルシウムといった元素にまで分解され、そのまま消失してしまったのかもしれない。


 それは悲惨な死というより、むしろ一種の静かな化学反応のようにすら思えた。

 家族を殺された怒りは感じなかった。彼らとの思い出も、不思議なことになにも残っていない気すらした。


 僕は、からっぽだった。

 これから行くあてもない。


 僕は、この世界にただ一人ぽっち。なんのことはない、伏龍としてじっと海底に潜んでいるのと同じだった。違いといえば、もし呼吸法を間違えても炭酸ガス中毒にはならぬこと。そして地上はとにかく、あたりがやたらと明るいことだけだ。


 ああ、あと、とても暑い。

 海底の、あのひんやりとした静かな世界を懐かしく感じた。


 とりあえず市内に戻ってはみたが、もちろんそこには何もない。あるのはただ焼け焦げた瓦礫と、今だにぼろぼろのなりで彷徨い歩く幽鬼のような人々の姿だけだ。

 市街地の遺体の大半はとり片付けられてはいたが、まだ時折、崩れた家の下や誰も降りない大田川の川べりの草むらの中に、黒く炭化した大人や子供の遺体が姿を覗かせていたりした。


 僕は焼け跡を、あてどもなくただ歩いた。

 彷徨い歩いて、なおも降ってきていると言われる放射能を胸いっぱいに吸って、そして疲れたら何処かの瓦礫の陰に入って眠った。

 なにを食って生きていたのか、ほとんど覚えていない。気が付くと、最後に受け取った棒給もほとんど無くなっていた。


 だが、何をどうするあてもない。

 何をやる気もわかない。


 いっときだけ、自分にはある素晴らしい技術が備わっていることを思い出した。潜水技能だ。毎日の激しい訓練で、おそらく世界で誰も経験したことのないようなレベルで、海底での長期生存技能を身につけた。もしなにか大きな沈船引き揚げの仕事でもあれば、そこの事務所に行ってみようか。きっとその後数年は暮らせるような大金を稼げるに違いない。


 だが、そんな仕事があるという噂はどこに行っても聞こえてこなかった。戦争は終わったばかりだ。人々は地上で、ただ今日のことばかりを考えている。海底のことを気にかける者は誰もいなかった。

 僕はふたたび、生きる気力を無くしてしまった。




 そんなある日のこと、前夜から何も食べていなかった僕は、炊き出しで配られている焼きおにぎりを恵んでもらい、壊れた水道から流れ出る水と一緒に喰った。少しだけ腹を満たし、その場でごろりと横になった。


 もう10月だというのに、いまだ夏のような陽光が僕の額に突き刺さり、頬をあぶり、顔全体をじりじりと灼いてゆく。

よく考えれば、そろそろ僕が伏龍として出撃し、海底で散華さんげする予定だった時分だ。


 なのに僕は地上にいて、やることもなくただごろりと横になっている。

 生きてはいるが、ほぼ死んでいるのと同じだ。戦争は終わったが、僕の中では次になにも始まっていない。始まっていないのだから、僕にとっての戦争はまだ終わっていないのかもしれない。

 だが、自らの身を投げ出し、祖国のために命を張る、あの熱狂と高揚はすでに遠い遠い過去のものだ。あるのは多少の苦みと、全身の気だるい疲れ。

 そんな状態だった。僕はただ、うつろなままだった。


「もし、おにいさん。目を覚ましてくれんかね」

 とつぜん、上のほうから陽気な声が降ってきた。

「暇そうだね。いい儲け話があるんだが。ちょいと乗ってみないかね? お国の仕事だよ。意義深くて、銭にもなる。あんたの再出発にゃあ、うってつけだ」


 僕は目を開けその男を見た。

 三十年配の、小柄で貧相な男だ。浅黒い膚で、額にはいくつもの深いシワがある。そのへんの漁師のような見てくれだが、真っ黒なサングラスをかけて表情を消し、細いヒゲを生やし、また服だけはたいへん立派なものだった。


 まだ残暑が厳しいというのに上下とも真っ白な背広を着て、なんとエナメルの靴を履いている。身体を激しく動かして腕を振り力説するが、背広に汗じみがないということは、よほど風通しの良い上質な生地に違いない。頭には真新しいパナマ帽。


 つい二ヶ月前なら、外に出たらすぐ憲兵がすっとんで来そうな、非愛国的でバタ臭いいでたち・・・・だ。だが最近は、闇市に関わるやくざ者とか、もうすぐ進駐してくるという噂の米軍の需要を当て込んだ女衒ぜげんどもといった景気のいい連中が、このような派手な格好をして焼け跡をのし歩いている。


 きっとこの男も、そういう手合いに違いない。僕は相手をする気にもならず、無視してまた目をつぶった。が、男はあきらめなかった。


「おにいさん、いい身体してるな。栄養がいいんだね。軍隊上がりだろ? とにかく、もしやる仕事がないのなら、この俺様が世話してやるよ」


 仕事だって? どうせ、闇市を仕切るやくざの用心棒とか、下手をすると鉄砲玉の役割だろう。答える気にもならなかった。だが男は次にこんなことを言った。


「わかってるよ。なんだか剣呑けんのんな気配がするってんだろ? まあ、俺の風体ふうていを見りゃ誰だってそう思うよな。たしかに日頃、俺はそういう仕事もやってる。だがよ、今回のは違うんだ。正真正銘、公費で実施されるありがてえお国の仕事だ。なにせ手が足りなくてよ。急いで人を揃えなきゃならねえから、いまは売り手の思うがままだ。希望額を聞くぜ」


「どんな仕事なんだい? さすがに市内の遺骸はそろそろ片付いたろ?」

 仕方なく僕は答えた。男は笑い、大きく手を振った。


「たしかに、まあ。戦争の後始末には違いねえ。が、そんなに汚ねえ仕事じゃないぜ」

 男は口を歪めながら言った。死人を汚物のように語るその言い方に僕は少々むっと来た。起き上がって、言ってやった。

「まだ生きてる綺麗な娘をアメ公に差し出す、とっても綺麗な仕事かい?」


 男はびっくりして一瞬たじろいだが、すぐにサングラスをとって細い眼を見せた。そして笑い出した。


「おお! おもしれえ兄さんだ。その向こうっ気がいいじゃないか。気に入ったぜ。ひょっとして特攻上がりかい? なんか、この世に怖いもんなんて何ひとつえって顔をしてやがる」


 特攻隊崩れを見抜かれて、今度は僕がぐっとつまる番だった。僕の反応を見て、男もどうやら確信したようだ。ニヤニヤ笑って、その場には誰もいないのに、さも大事な情報を耳打ちするような手真似をしながら言った。


「じゃ、もしかしたら兄さんにとっちゃ里帰りかもな。大咲島おおさきじまの海軍基地の解体工事だよ。あそこじゃ、その後特攻隊に行った予科練よかれんのヒヨッコたちが、ピヨピヨ鳴きながら多数しごかれてたと聞いたぜ」


 そう言いながら、しごかれ、の部分でこの男はなぜかなんの関連もなく卑猥な手つきをした。ぶん殴ってやりたくなったのをぐっとこらえ、僕はゆっくりと答えた。

「残念だが違うよ。こちらは伏龍隊だ。別の基地だよ」


「へええ、ふくりゅう? 知らねえなあ。まあ、なんでもいいや。どうせ仕事も無いんだろ? そんな、お国のために尽くした特攻の勇士に、一木組いちきぐみの源さんからご褒美だ。別の奴らより賃金はこそっと二割増にしてやるよ」


 正直なところ、給金が少し良くたって特に行きたいわけではなかった。だがすでに僕はこの成金めいたやくざ者の周旋屋しゅうせんやとかなり会話をしてしまった。いったんそうやって関係ができてしまうと、相手の頼みを断るのは、それ自体がひとつの面倒な苦行のようになる。流れに任せてしまったほうが楽なのだ。

 特に僕のような、魂を失ってしまった男にとっては。


 30分後には、僕は男が回してきた木炭貨車(トラック)の狭い座席に座らされていた。軍用を民間に払い下げたお古のようで、あちこちくたびれているのがひと目で分かる。まあ、走ってくれれば文句はない。行き先を見失った僕には、それがどこであれ行き先があるというのは悪いことではないし、どんなのろのろ運転だろうと、このままあてどなく歩くよりはずっとましだから。


 源と名乗るやくざは運転席の真横に座っている。ハンドルを握るのは彼の子分らしき若造。僕と歳はそんなに変わらないはずだが、肌がつやつやで全体的に乳臭い感じがしてならない。海底から生還した僕の目からは、彼はまだほんの幼児のように見えた。


 細長い粗末な荷台には、いくつか木箱が転がしてあり、そこに6人の先客が座っていた。いずれも僕と同じ軍隊上がりなのが服装からわかった。僕自身も含め、誰もがむっつりとうつむいていた。内心はわからないが、誰もがお互いになんの関心も持っていないようだった。


 おんぼろ貨車の木炭ガス発生装置がまともに動かず、発車するまでに20分以上かかった。若造は小さく毒づきながら運転席から降り、荷台の後ろを蹴り、装置をあれこれといじり回した。

 やっと木炭エンジンが稼働を始めると、若造は乱暴にハンドルを回し、そのまま海辺のがたぴし・・・・道を1時間ほど進んだ。


 乗り心地は最悪で、しかも歩くのとさして変わらないスピードだったが、坂道がほとんどないため、みんなでトラックを押すハメにならなかったのは幸いだった。特に何日もの無目的な彷徨で身体の芯まで疲れ切っていた僕にとっては、とりあえず座ったまま前に進むことができるだけで、とてもありがたかった。


 やがて、小さな船着場のたもとで貨車は停まった。

 僕たちは荷台から次々と地面に飛び降りる。源は、さあここで乗り換えだ、と言って下を指差した。なんと、そこにはすでに30名くらいの薄汚れた男たちがたむろしている。おそらく市内で駆り集めた人数を次々とここに送り込んでいるのであろう。僕らは最終便で、皆まとめてこれから船に乗るわけだ。


 待っていたのは、粗末な木造の機帆船きはんせんだ。源が言うには、3月の敵機動部隊による空襲では、シコルスキー(戦闘機)の機銃掃射を喰らいながらも生き残ったという古強者ふるつわものだそうだ。見ると、たしかに前甲板のあたりに、なまなましい機銃痕がいくつも残されている。そのひとつひとつが、拳が入るくらいに大きかった。


 海がいでいたので、機帆船の帆はぜんぶ畳まれていた。

 僕らが乗り込むと、船頭は待ち構えていたように合図した。何度か爆発音がして、すぐに焼き玉エンジンが始動し、船は岸を離れた。


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